実験的手法で知られたイギリスの作家、ハックスリーの言葉である。経験に学べ、経 験こそ人生の師であるといった名言は少なくないが、これもその同類。ただし、出来事 に遭う体験を通して身につくところがなければ、そもそも「経験」とは認められないとし たところに妙味がある。
確かに、日々身にふりかかる出来事を、ただ受け身に流していたのでは、そこから得 られるものは何もない。学習もなく、成長もしない。逆に言えば、生きている限り、遭 遇する出来事は山のようにあっても、その体験から学び、身につくところまで達するよ うな真の「経験」は、意外に少ないということにもなる。
経験を積む、という。身になってこそ、積むと呼ぶに値する。そのような経験を積め ば、人は豊かになるだろう。先方からやって来る出来事を処するだけでなく、身につく 経験を求めて、こちらから出向く場合もある。留学はその典型だ。山や海でのキャンプ に子供を参加させるようなことも、貴重な経験から何がしかの学習効果を期待する親心 があればこそだろう。
だが、ハックスリーの慎重なところは、身にふりかかる出来事への処し方の大事を説 いても、出来事を起こせとは言わなかったことである。経験を求めて諸方に出向くばか りが、「経験」を得る近道であるとは限らないのである。
人は自分が体験した出来事の数を誇りがちだ。旅で訪れたあちこちの国の様子や、波 乱万丈の運命がもたらした事件のあれこれを自慢げに語ることは、気持よいに違いない。 だが、経験の豊かさとは、出来事の数ではないし、事件の大きさでもない。ささやかな 出来事からも、人生の糧となるような「経験」とすることは充分に可能なはずである。世 界漫遊をした人より、窓辺にじっと動かぬ人が「経験」が乏しいとは、言えないのである。
春の終わりからひと月近く旅をして、イギリスの我が家に戻ってきた時、隣家の庭先 の梨の木が小ぶりながらも鈴なりに実をつけているのを見つけて、ひどく感動したこと がある。春先に純白の花を噴き上げるように咲かせていた木が、命をはぐくみ続けて、 いつの間にか可憐な実を熟したことに、私は生きる同伴者の不断の努力を目の当たりに する気がして、人生を教わるように思った。旅の間、いろいろなものを見たし、人にも 会ったが、そのどれよりも、梨の実に得た感動の方が大きく、忘れがたいものとなった。
経験とは、所詮、人の身にふりかかり、その心が感受するものである。感性のキャン パス次第で、名画のような宝ともなれば、落書きにもなってしまうのではないだろうか。
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