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Sat, 23 November 2024
〜シティを歩けば世界がみえる 特別編〜

文化の息吹が芽生えるイースト・エンドの魅力、再発見!

イースト・エンドの魅力、再発見!

ロンドンの流行発信地といえばシティの東に位置するショーディッチとスピタルフィールズ周辺。服飾、音楽、食事、アートなどの流行最先端のお店が並んでいるかと思えば、エキゾチックなヴィンテージ・ショップや昼間にシャッターの閉じたクラブが乱立し、あふれんばかりのストリート・アートや聞き慣れない言語が飛び交う猥雑なエリアです。この地区は今から100年以上も前、英国の最貧民街であり、政府が警戒する「イリーガル・エイリアン」(不法滞在者)の巣窟でした。逆に言うとこの貧困や移民問題の改善がこの地区再興のサクセス・ストーリーに転じます。今回、寅七はこの地区の複雑な歴史をひもときながらイースト・エンドの魅力を再発見してみたいと思います。

シティ公認ガイド 寅七

シティを歩けば世界がみえる』を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫

寅七ハンド・サニタイザーを20名様にプレゼント!

携帯用ハンド・サニタイザーシティ公認ガイド寅七さんがロンドンの魅力を語る弊誌の人気コラム、「シティを歩けば世界がみえる」の連載が200回を迎えました。これを記念して、番外編として特集「イーストエンドの魅力、再発見!」を掲載。さらに今の時期に不可欠な、かわいい寅七の携帯用ハンド・サニタイザー(30ml)もご用意しました。今回このサニタイザーを、20名の読者にプレゼントいたします。ご希望の方は下記の応募フォームより、必要事項をご記入のうえ、送信ください。たくさんのご応募をお待ちしております。

締め切り:9月2日(木)午後6時

※ 応募を締め切りました。沢山のご応募ありがとうございました。
当選者の発表は、賞品の発送をもって代えさせていただきます。

Episode 1田園に広がる粘土層、フランドルからの移民がレンガ造り

シティの東側は16世紀ごろまで田園地帯が広がっていました。人家があったのは、英北部ヨークと結ぶアーミン街道の始点で、シティ城壁の北門だったビショップス・ゲートと、英南東部コルチェスターと結ぶグレート街道の始点である、東門のオールド・ゲートの周辺とその街道沿い。ショーディッチ地区に聖レナード教会、スピタルフィールズ地区に聖マリア・スピタル教会(宗教改革で解体。1729年からクライスト教会に代替)、ホワイトチャペル地区に聖マリア・マットフェロン教会(1952年に解体)と、各地区の中心に教会がありました。周辺一帯がレンガに適した粘土層だったため、16世紀ごろにフランドルからの移民がレンガ造りを始めます。これら3つの地区を結ぶ道のホワイトチャペル・レーンを通ってレンガが運び出されたため、この道がブリック・レーンと呼ばれるようになりました。

1572年のロンドンのマップ1572年のロンドンのマップ

聖レナード教会は演劇や俳優の教会とも呼
ばれる聖レナード教会は演劇や俳優の教会とも呼ばれる

聖マリア・スピタル教会(現在はクライスト教会)がスピタルフィールズの語源聖マリア・スピタル教会(現在はクライスト教会)がスピタルフィールズの語源

今はない聖マリア・マットフェロン教会。この白壁がホワイトチャペルの地名の由来今はない聖マリア・マットフェロン教会。この白壁がホワイトチャペルの地名の由来

15世紀ごろのレンガ造りの様子15世紀ごろのレンガ造りの様子

Episode 2大量の移民流入と産業革命で混乱へ

16世紀後半、シティ内では活動を許されなかった演劇がショーディッチで盛んになります。ロンドンで最初に建ったシアター劇場(1576年)や2番目のカーテン劇場(1577 年)ではシェイクスピアの初期の作品が演じられました。また、17世紀になると宗教改革の弾圧を受けたフランス新教徒のユグノーたちが移住し、以後スピタルフィールズは絹織の街として発展します。ヴィクトリア女王の絹の花嫁衣裳もスピタルフィールズで織られました。17世紀後半に造られたトルーマン醸造所が後に世界最大規模の醸造所に発展できたのもユグノー移民が伝えたホップを使った醸造方法のおかげといわれています。やがて19世紀にはユダヤ移民、20世紀にはバングラデシュからの移民が当地区に押し寄せました。また、産業革命で工場が乱立したロンドン東部には海外だけではなくもちろん国内からも労働者が流入しており、それらのことが大きな国内問題へ転じていきます。

中央がカーテン劇場と思われる1599年のショーディッチの様子中央がカーテン劇場と思われる1599年のショーディッチの様子

絹織のイメージ絹織のイメージ

スピタルフィールズで織られた花嫁衣装を着るヴィクトリア女王スピタルフィールズで織られた花嫁衣装を着るヴィクトリア女王

トルーマン醸造所(1666~1989年)の煙突は同地区のシンボルトルーマン醸造所(1666~1989年)の煙突は同地区のシンボル

ユダヤ移民が古着を中心とした日曜マーケットを始めたユダヤ移民が古着を中心とした日曜マーケットを始めた

Episode 3スラム街一掃計画

19世紀、無数の工場のばい煙が偏西風の影響で西から東に流れるため、風下のロンドン東部に住むことを避ける人が多くなりました。でも貧しい移民と労働者は家賃が安いこのエリアに住むようになります。特にショーディッチ、スピタルフィールズ、ホワイトチャペルは人口が急増し、英国屈指のスラム街に転じました。切り裂きジャック連続殺人事件が起きたのもこのエリアです。1884年、世界初のセツルメント(貧民救済運動)の拠点としてトインビー・ホール(Toynbee Hall)がホワイトチャペルに設立され、1889年に実業家のチャールズ・ブースが貧困マップを発表します。行政はスラム街一掃計画を発表し、多くの慈善家も寄付をして公営住宅の建設に走りました。米金融家ジョージ・ピーボディが設立したピーボディ財団は5万5000戸もの住宅を供給し、11万人以上の人々を救いました。

9世紀半ばのスピタルフィールズと現在の姿9世紀半ばのスピタルフィールズ(左)と現在の姿(右)

19世紀半ばのショーディッチと現在の場所19世紀半ばのショーディッチ(左)と現在の場所(右)

スピタルフィールズにあるピーボディ財団最初の公営住宅スピタルフィールズにあるピーボディ財団最初の公営住宅

設立当初のトインビー・ホールと現在の姿設立当初のトインビー・ホール(左)と現在の姿(右)

チャールズ・ブースの貧民街マップ(1889年)チャールズ・ブースの貧民街マップ(1889年)

Episode 4ストリート・アートは心のお洗濯

ホワイトチャペルにあるホワイトチャペル・ギャラリーは、1901年に設立されたロンドン東部で最初の公営美術館で、英国のモダン・アートをけん引しています。スラム街を一掃するには建物を改築するだけでなく、美術を通じて心の洗濯も必要というのが同館の基本姿勢でした。最近は近隣にもギャラリーが増え、少し脇道に入れば所狭しとストリート・アートがあふれています。これは実は1990年代以降、街が荒んで増えた壁の落書きをストリート・アートに変える取り組みが始まったおかげです。市とストリート・アーティストを仲介する団体が間に入り、許された場所での公序良俗に反しない描写を条件に、ストリート・アートの発表の場が提供されました。社会的なメッセージを伝えるストリート・アートには壁画だけでなく彫像やマンホールの蓋もあります。こうしてアートが街全体を活性化させました。

左側がマーティン・ロン、右側がピーター・ロアの作品左側がマーティン・ロン、右側がピーター・ロアの作品

細かいドット(点)で描かれたジミーCの作品細かいドット(点)で描かれたジミーCの作品

カラフルなティアリ・ノアールの作品カラフルなティアリ・ノアールの作品

半立体なグレゴスの作品半立体なグレゴスの作品

歴史的事象がデザインされたマンホールの蓋歴史的事象がデザインされたマンホールの蓋

Episode 5前衛的な農場建設は地域の連帯を強めた

1960年代に流行したヒッピーなどのカウンター・カルチャーを受け継ぎ、過激な音楽と共に建物の破壊などヴァンダリズムが1970年代にロンドンを襲いました。一方、コミュニティーの団結を図り、自然から学び、環境保護を訴えるシティ・ファーム運動も盛んになります。そこで生まれたのがコミュニティー農場。線路脇の空き地や大工場跡地に地元のボランティアが農場を作りました。この地区ではスピタルフィールズ、ステプニー、ハックニーの3カ所にシティ・ファームがあります。ここでは自宅に庭のない住民が共同農園で農作物を作ります。また自然を学び、家畜と触れ合う機会は教育の観点からも地域コミュニティーの結束を固める意味からも貴重な場所です。そして何よりも農場では、絶滅危惧種とされている家畜を優先して飼育し、その保護に努めています。

スピタルフィールズ農場入口スピタルフィールズ農場入口

ハックニー農場では鶏が放し飼いハックニー農場では鶏が放し飼い

絶滅危惧バゴット種のヤギ絶滅危惧バゴット種のヤギ

ステプニー農場のカフェでは収穫物を提供ステプニー農場のカフェでは収穫物を提供

Episode 6マイノリティーの居場所が多様な文化の発信地

移民街というのは裏を返せば比較的移民が暮らしやすく、多様な文化を形成しやすい場所ということでしょう。富裕層は高台に住み、低地や窪地には雑多な人間が集まり、マーケットや文化交流の場所ができます。イースト・エンドには移民が持ち込んだ文化が根付き、バングラデシュのカレー・タウンがあり、絹織職人街があり、日曜マーケットがあり、また環境問題を題材にしたストリート・アートがあり、そして住民はボランティアの農場でコミュニティーを強めます。

最後にイースト・エンドの象徴と呼ばれる壁画をご紹介します。1936年、極右勢力が移民排斥デモを行い、移民街に入ろうとしましたが移民が防柵を作って阻みました。この事件を題材に「ケーブル・ストリートの戦い」(1983年)の壁画が描かれました。移民街は活気にあふれ、新しい文化の息吹がイースト・エンドから絶えることはありません。

多くの人でにぎわうブリック・レーンの日曜マーケット多くの人でにぎわうブリック・レーンの日曜マーケット

ブリック・レーンはカレー・タウンとも呼ばれるブリック・レーンはカレー・タウンとも呼ばれる

ミツバチを救うことを題材にしたストリート・アートミツバチを救うことを題材にしたストリート・アート

移民街の象徴になった壁画「ケーブル・ストリートの戦い」移民街の象徴になった壁画「ケーブル・ストリートの戦い」

絹織職人の街は歴史保存地区絹織職人の街は歴史保存地区

 

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