第7回 英国で歓迎された独裁者。
私の勤務先のオフィスは、Bank駅の近くにあり、南へ歩くと、ほどなくテムズ川に出る。川に沿って、グリニッジ方向へ行けば、最初に「Southwark Bridge」があり、次が「London Bridge」。さらに進めば、「Tower Bridge」が見えてくる。
遊覧船に揺られながら、これらの橋を見上げた人も多いと思う。もっとも、「London Bridge」を過ぎ、すぐ南岸にある民間病院に気を留めた人は、いないだろうが。病院の建物は上と下が白色、そのほかの外壁は黄土色。岸辺に立っているため、遊覧船からもよく見える。
南米チリが軍事独裁だった当時の大統領ピノチェト(在任1973~1990年)は、今からちょうど10年前、ヘルニア手術のため、この病院に入院していた。
「サンチャゴに雨が降る」という映画がある。フランスとブルガリアの制作で、1975年に公開された。有名な俳優も出演しておらず、作品の知名度は高くないかもしれない。
初めて観たのは、大学2年の秋だったと思う。東京・神楽坂の映画館へぶらぶら歩きながら、青空がものすごく高かったことを覚えている。客のほとんどいない館内で約2時間。私には大きな衝撃だった。
チリでは1970年、サルバトール・アジェンデが選挙で大統領に就任した。彼は社会主義者であり、社会党と共産党が連合して擁立。圧倒的支持を背景に、銅山など主要産業の国有化を進めたほか、社会主義的政策をどんどん取り入れてゆく。
これに対し、チリに多くの利権を持ち、「南米は裏庭」と豪語していた米国は、アジェンデ政権の転覆を企てた。CIAが中心となって、チリ国内で反政府勢力を育て、軍にクーデターをそそのかす。そして1973年9月11日、チリ陸軍総司令官だったピノチェト将軍が、クーデターを起こしたのである。
その朝、チリの首都サンチャゴは見事な快晴だった。
国軍の反乱を知った市民たちは、それを互いに知らせる暗号「サンチャゴに雨が降っている」を口々に伝えてゆく。地元ラジオ局も、軽快な音楽に乗せて、放送を始めた。
「サンチャゴのみなさん、おはようございます。あいにく、サンチャゴは雨になりました。みなさん、外に出てください。残念です。サンチャゴに雨が降っています」
青空の下、反乱軍のヘリや軍用機、戦車が大統領宮殿に激しい砲撃を加えてゆく。クーデターに反対する市民を蹴散らし、やがて、ピノチェトは大統領になった。
このあとの国民弾圧が、またすさまじい。映画には、サッカー・スタジアムのフィールドにアジェンデ支持者を集め、スタンドから銃で殺害してゆく場面も出てくる。死者・行方不明者は10万人と言われるほどだ。
南米で史上初めて選挙によって誕生した社会主義政権は、文字通り、血の中で崩壊した。CIA高官が「いくら金を使ってもいい。あんな政権はつぶせ」と望み、計画した通りの結果だった。だから、多くのチリ国民、そして南米の人々にとっては、「9.11」はニューヨークの高層ビルに旅客機が突入した事件ではなく、このサンチャゴの悲劇を指す。
ピノチェトがロンドンに来た当時の新聞をひもとくと、ストロー英外相が大歓迎して迎えたとある。サッチャー元首相に至っては「彼は(アルゼンチンとの)フォークランド紛争の際、英国を支持してくれた恩人だ」と述べたほどだ。
私は英国赴任後、与党労働党の党大会を取材に行き、一昨年はマンチェスターでブレア首相(当時)の、昨年はボーンマスでブラウン首相の演説を聞いた。2人とも、自由・人権・民主主義を至高の価値だという。彼らに限らず、英国や米国は、それを高々と掲げてきた。しかし、チリの例だけを考えても「至高の価値」は、ご都合主義でしかない。
ピノチェト自身は、テムズ川沿いの病院で手術を受けた後、スペイン当局が発付した逮捕状によりロンドンで逮捕された。その後、しばらくサリー州の豪邸に軟禁されたが、結局、逮捕は法的に無効とされ、1年半の滞在後、チリに戻された。
外電によれば、彼は2006年12月10日の国際人権デーに、サンチャゴ市内の軍病院で死去している。91歳で、天寿を全うしたという。