今でこそメイ首相を始め、政界で活躍する女性も多くみられる英国だが、そこに至るまでの道のりは長く険しかった。20世紀の始め、参政権獲得のためには戦闘的な示威運動も躊躇せず、文字通り命をも掛けた女性たちがいた。今回は、3月8日の国際女性デーに向けて、「サフラジェット」と名乗った彼女たち女性社会政治連合(WSPU)メンバーを中心に、女性運動家たちの活動をQ&A方式で紹介しよう。
参政権を求めて女性たちが立ち上がるまで
英国で男女(21歳以上)に等しく選挙権が認められたのは1928年。1832年以前は特権階級のみに与えられていた選挙権は、5回にわたる選挙法改正により段階を追って身分と財産の制限が緩和されていき、1884年には成年男子の2/3が選挙権を得るまでになった。この時点で選挙権のない国民は、貧困者、召使い、犯罪者、精神異常者、そして女性。「父親や夫に面倒を見られている身なのに、なぜ選挙権が必要なのか」といった意見が、女性に参政権を与えない理由の一つとして堂々とまかり通っていた。当時はまだビクトリア朝の旧弊な価値観を残しつつも、マルクス主義の影響で労働組合運動が盛り上がりを見せ始めた時代でもあり、女性たちは権利を求めて声を上げ始める。
女性社会政治連合(WSPU)とは?
Women's Social and Political Union
1903年にマンチェスターで結成された女性参政権を求める女性団体。「言葉より行動を」(Deeds not Words)を合言葉に、ハンガー・ストライキや爆破など過激なまでの示威行動を行い、国内に賛否両論を巻き起こした。保守的な政治家は彼らを「テロリスト」と呼んで非難。結成当初は女性労働者を対象にした団体だったが、1905年に本拠地をロンドンに移してからは、上流・中流階級の女性も加入。100カ所以上に事務所を持つ大規模な団体に発展した。保守大衆紙「デーリー・メール」は、参政権を意味する「Suffrage」をもじり、彼女たちを「サフラジェット」と呼んで茶化すが、逆にWSPUはそれを自分たちの名称として使用。1914年に勃発した第一次大戦では戦争協力に力を注ぎ、1917年に解散した。
1913年、エプソム・ダービーで、コース内に身を投げ死去したエミリー・デービソンの葬儀に出席するサフラジェットたち。「戦い続ける」とバナーを掲げている
Q なぜ石を投げることになったのか?
WSPUが戦闘的な行動を取るに至った理由
1860年代には、既に様々な女性参政権運動が各地で行われ、集会の開催やチラシの配布、国会への嘆願書提出が行われていた。にもかかわらず女性参政権に関する法案は常に否決され、一般国民や政府にとって彼女らの運動は見慣れた行事のようなものでしかなかった。だが1905年に風向きが変わる。
WSPUのメンバー2人が、マンチェスターで開催された自由党の集会に出向き「政権を取ったら、女性に選挙権を与えるのか」などと大声で叫び妨害。取り押さえた警官に唾をはきかけるなどして逮捕・投獄された。各新聞はこの「女性らしからぬ」事件を大きく報道。地方の一団体でしかなかったWSPUと、進展の見込みのなかった女性参政権運動は一躍脚光を浴びた。選挙権がない女性が政治に対して意見を言う方法は、もはや直接行動のほかにないとWSPUは考えた。こうして彼女たちは次々に過激な運動を展開するようになる。
1912年、ハイド・パークのデモで逮捕されるサフラジェットたち
サフラジェットによる直接行動の数々
投石
1908年6月のデモ行進時、警官たちの暴力に怒ったメンバーが首相官邸の窓を破る。メアリー・リーとエディス・ニューはこれにより2カ月間、ホロウェイ刑務所に服役。その後も政府機関への投石が続くが、1911年以降は「デーリー・メール」紙などの新聞社やウェスト・エンドのショーウインドーも標的に。バーバリーやリバティーなどの英系ショップが狙われた。
ハンガー・ストライキ
1909年7月、器物破損の罪で刑務所に服役していたマリオン・ウォレス・ダンロップは、91時間のハンガー・ストライキの後に衰弱が原因で釈放されたが、これは政府が「殉教者」を出すことを恐れたからだという。これをきっかけに示威運動により収監されたサフラジェットたちは次々に刑務所内での食事を拒否し始める。それに対し政府はチューブを使い食物を強制摂取させた。
爆弾
1911年12月、郵便ポストの中に自家製爆弾が放り込まれる。翌年11月にはロンドン中心部やいくつかの地方都市のポストに、インクやタールなどの黒い液体や酸などが注ぎ込まれ、何千通もの手紙がダメージを受けた。これまでWSPUは一般市民を対象にしなかったが、これをきっかけに市民を巻き込む方針に転換。次第に運動は激しさを増していく。
放火
1912年7月、イングランド南東部オックスフォードシャーにあるハーコート植民地相の別宅と、アスキス首相が観劇中だったアイルランドのダブリンにある劇場シアター・ロイヤルが狙われた。別宅への放火は未然に防がれたが、犯人には9カ月の禁固刑が言い渡される。劇場では2人のメンバーがカーテンに火をつけ、燃えた椅子をオーケストラに向かって投げ込むなどして禁固5年の判決が下った。
自殺行為
1913年6月4日、戦闘的なサフラジェットの中でも特に過激派と言われたエミリー・ワイルディング・デービソンは、国王の馬が出場するというエプソム・ダービーへ出掛け、レースの最中にコースへ飛び出し、馬に蹴られて頭蓋骨を骨折。数日後に死去した。デービソンが死を意図していたかは不明だが、公衆の前でショッキングな行動をとることで、運動に光が当たることを望んでいたとされる。
器物破損
1914年5月、ロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されていたスペインの画家ベラスケスの「鏡のビーナス」を含む5点と、ロイヤル・アカデミーに展示された作品1点が刃物で切り裂かれるなどの被害を受ける。さらに大英博物館では展示されていたミイラを覆っているガラスが破壊された。これにより、各地の美術館・博物館では女性の入場に条件を付けるところも出た。
ダービーでコースに身を投げたエミリー・デービソン
QWSPUは過激な行為しかしなかった?
巧みなマーケティング戦略を展開
WSPUが有名になったのは、過激な示威運動のせいばかりではない。全国的な運動を展開するには資金が必要だったため、英国中の都市にWSPUグッズを販売する店をオープン。「Votes for Women」(女性に選挙権を)というブランド名で、紅茶、チョコレート、マーマレード、マグカップなどを販売した。WSPUの会員証やポスター、バッジといった品も会員がデザインし、WSPUのメンバーは紫(尊厳)・白(純潔)・緑(希望)の三色をシンボルにして身にまとった。こうしたビジュアルやマーケティング戦略の成功がWSPU、そして女性参政運動の拡散にもたらした影響は大きい。また、1907年には機関紙「Votes for Women」を創刊。数年後には週4万部を売り上げたといい、単に運動に参加している女性のみでなく、多くの国民が女性参政権に興味を持ち始めたことを示している。
当時のカレンダー、ブローチ、ポスターなど。現在、ロンドン博物館で販売されているサフラジェット・グッズの多くは、当時の商品のレプリカ
Q女性運動家はみな過激だった?
ほかにも様々なグループが存在していた
戦闘的なWSPUの活動が目立つため、すべての女性運動家が騒ぎを起こしたかのように見えるが、穏健なグループも活動していたほか、女性参政権を求める男性団体もいくつか存在していた事実も見逃せない。ここでは特によく知られた2つの団体を紹介する。
NUWSSのポスター
女性参政権協会全国連合
National Union of Women's Suffrage Societies(NUWSS)
1897年に誕生。それまで存在していたいくつものグループが統合されてできた団体。政治家との結び付きも深く、穏健なロビー運動を根気よく展開した。初期のWSPUと行動を共にしたこともあるが、参政権は合法的な手段で獲得するべきだという考えを持つ。そのため、WSPUのサフラジェットと区別して「サフラジスト」と呼ばれた。1914年には国内に500カ所以上の事務所を持ち、男性を含む10万人ものメンバーが在籍。1919年には「National Union of Societies for Equal Citizenship」と改名し、女性参政権獲得に尽力した。
女性自由連盟
Women's Freedom League (WFL)
WSPUがロンドンに本拠地を移してから、労働者階級の女性ではなく上流階級の女性たちと親交を深めたこと、団体の運営が民主的でないことなどに不満を持つ古参メンバーが、ほかの1/5のメンバーと共に結成。彼らの運動は過激なWSPUと穏健なNUWSSの中間に位置し、1914年までに4000人のメンバーを持つ団体に成長した。
Qどんな人物が運動を率いていた?
過激 VS穏健、キャラクターの異なる2人の女性
求めるものが同じであるにもかかわらず、WSPUとNUWSSがとった手段は大きく異なった。運営方法が時に独裁的と言われたWSPUのエメリン・パンクハーストと、民主的なやり方を貫いたNUWSSのミリセント・ギャレット・フォーセット。2人の経歴を紹介する。
エメリン・パンクハースト
Emmeline Pankhurst
(1858月7月14日~1928年6月14日)
戦闘的な参政権運動を唱え、第一次大戦以前の女性運動に大きな影響を与えたWSPU創設者。実業家の父、女性運動家の母のもとにマンチェスターで生まれる。24歳のときに、女性参政権の支持者で、1870年の女性財産法案の起草者でもある弁護士のリチャード・パンクハーストと結婚。以後自らも運動に身を投じ、1903年にWSPUを結成。長女のクリスタベルや、のちに意見の相違で袂を分かつことになる次女シルビアと共に参政権獲得に情熱を傾けた。
右写真)1909年のエメリン・パンクハースト(写真左)と長女のクリスタベル
ミリセント・ギャレット・フォーセット
Millicent Garrett Fawcett
(1847月6月11日~1929年8月5日)
「氷河のように少しずつ、でも決して途切れることなく動き続ける」とNUWSSの参政権運動の方針を表現したフォーセットは、イングランド東部サフォークの大商人の家庭に生まれる。若いときにキリスト教社会主義を唱えるF・.D・モーリス牧師に影響を受け、リベラリストであるジョン・スチュアート・ミルの思想に共鳴した。女性の大学就学に力を入れ、ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジ設立に貢献。その後、1897年にNUWSSを結成した。
1909年、女性参政権同盟会議に出席するフォーセット(下段左から4人目)
Q女性参政権運動は社会からどう見られていた?
賛成/反対に性別は関係なかった
すべての女性が参政権運動に賛成したわけではなく、逆にそうした動きに反対する女性グループさえ存在した。また、女性参政権運動を支持した男性もいる。彼らの意見をいくつか見てみよう。
意図的に醜く描かれた
サフラジェットのポスター
ビクトリア女王
1870年5月29日の手紙で、「『女の権利』なる狂った邪悪な愚行」と突き放し、「神は男女を違うように作ったのだから、彼らはそれぞれの立場にとどまるべき」と書いた。
ガートルード・ベル
イラク王国建国にも携わった頭脳明晰な考古学者で、オックスフォード大学を卒業。ほとんどの女性が政治討論に必要な教育を受けていないので、参政権は無用の長物だと主張した。
メアリー・ハンフリー・ワード
熱心な反女性参政権論者で、1908年には「Women's National Anti-Suffrage League」のトップとなり、女性に向け参政権反対を説いた。彼女は「女性解放のプロセスはいまや、女性の体質の限界に達している」とし、大英帝国の問題は男性のもつ特別な知識によってのみ解決され得るものだとした。
バートランド・ラッセル
哲学者、数学者として知られるバートランド・ラッセルは若いころから平和運動に熱心で、1907年のウィンブルドン地区の補欠選挙では、サフラジストとして立候補した。ケンブリッジ大学で教鞭をとっていたラッセルは、女性参政権運動にのめり込み過ぎたことが原因で1916年に大学を解任された。
フレデリック・ペシック・ローレンス
労働党議員。女性活動家エメリン・ペシックと結婚後、WSPCの機関誌「Votes for Women」の編集に携わる。男性はWSPCに参加できないが、様々な方面で献身的に団体をサポート。WSPCに協力したかどで何度も禁固刑となり、ハンガー・ストライキを行うなどした。
ヘンリー・ネビンソンとヘンリー・ブレイルズフォード
2人の左派ジャーナリストが、女性参政権施行を求める男性団体「Men's Suffrage League for Women's Suffrage」を1907年に設立。彼らのリストによると、E・M・フォースター、トマス・ハーディー、H・G・ウェルズなどの著名作家も、女性参政権に賛成していたという。
年表 - 女性に選挙権が与えられるまで
1868 | 女性参政権を求める初の集会がマンチェスターで開催 |
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1870 | 女性参政権の法案が国会に提出されるが否決 |
1897 | 女性参政権協会全国連合(NUWSS)が結成 |
1903 | 女性社会政治連合(WSPU)が結成 |
1905 | クリスタベル・パンクハースト、アニー・ケニーが自由党の集会を妨害したとして投獄される |
1906 | WSPUが女性参政権を求め、国会へ向け初めてのデモを開催 |
1907 | WSPUの過激な運動に異議を唱えたメンバーが組織を脱退し、新たに女性自由連盟(WFL) を結成 |
1908 | 女性参政権運動の反対者である自由党党首、ハーバート・ヘンリー・アスキスが首相に就任 |
1909 | ショーウインドーへの投石、獄中でのハンガー・ストライキなどWSPUメンバーの行動が激化。政府は食物の強制摂取を実行 |
1913 | ハンガー・ストライキで体を壊した者を仮釈放し、回復したら再収監する、俗称「猫とネズミ法」が施行 |
1913 | エミリー・デービソンがエプソム・ダービーのレース・コースに身を投げ死去 |
1914 | 第一次大戦勃発。戦闘的な抗議行動は休止 |
1918 | 選挙法改正により、30歳以上の女性(世帯主、世帯主の妻、5ポンド以上の不動産所有者、大卒者、のいずれかに限る)が選挙権を得る |
1919 | ナンシー・アスターが女性初の下院議員に |
1928 | 国民代表法により、21歳以上のすべての女性に選挙権が与えられる |
Source: www.bl.uk