好き嫌いはあろうとも、英国人にとって常に興味の対象であるのがロイヤル・ファミリー。エリザベス女王を題材にした映画「クイーン」の公開や、ウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんの破局報道の過熱ぶりをみても、王室への関心がいまだもって高いことが窺い知れるだろう。今回の特集では、6月16日にエリザベス女王の公式誕生日が祝われるのを機に、この国の人々の心をつかんで離さない「英国最大のセレブ」、ロイヤル・ファミリーの主要な顔ぶれと、英国王室の歩みなどについて紹介する。(猫山はるこ)
英国の王族と言えば昔から、個性的で時に破天荒な人々が多くいたことで知られるが、それは現代でも同じこと。さまざまなゴシップ、失言などで日々国民を楽しませてくれる今の王室メンバーは一体どんな人たちか、改めておさらいしてみよう。
エリザベス2世 (1926年4月21日生まれ、81歳)
フィリップ殿下 (エジンバラ公爵: 1921年6月10日生まれ、85歳)
英国並びに英連邦の元首にして、英軍、英国国教会の長。国会の開会や新たな法律を裁可する権限も(形式上とは言え)持っているし、クリスマスだって、あの毎年恒例のメッセージがなければとりあえず英国のクリスマスとは言えない(?)。そう、無表情で冷たい印象だとか、声が素っ頓狂とか洋服と帽子の色がまぶし過ぎるだとか何だかんだ言われつつも、英国のトップの座に君臨し、今でも多くの国民にとって心の支えになっているのがエリザベス女王なのだ。「ストイック」と形容できるほどの仕事に対する強い義務感と、その存在が醸し出す風格で、「エリザベス女王がいたからこそ、チャールズ皇太子やアンドリュー王子の離婚などでスキャンダルまみれだった時期も王室は威厳を保つことができた」と言われるほど。高齢のため公務はチャールズ皇太子とカミラ夫人にかなり任せるようになっているものの、周囲のスタッフによると、「生存中の退位は全く考えていない」という。そんな女王が若き日に恋に落ち、わずか21歳で恋愛結婚したのがフィリップ殿下。ギリシャ及びデンマークの王家であるグリュックスブルク家出身で、女王のはとこに当たる。「失言殿下」の異名を取り、中国訪問時に英国人留学生に向かって「これ以上長く滞在していると、目が細くなっちゃうよ」と言ったのを始め、オーストラリアのアボリジニの人たちに「まだ、槍投げてるの?」と質問するなど、世界各地で放言しまくっていることでつとに有名。数年前マンチェスターに行った際は、宇宙飛行士になりたいというちょっと太めの13歳の少年に対し、「痩せればなれるよ」と言って泣かせたとか。横で赤くなっていた女王の顔が目に浮かぶようだ。
30年耐えた愛は本物の愛
チャールズ皇太子 (1948年11月14日生まれ、58歳)
カミラ夫人 (コーンウォール公爵夫人:1947年7月17日生まれ、59歳)
不倫、離婚、元妻の死で奈落の底に落ちたイメージも近年はかなり改善した感のある還暦間近の王子様。環境、有機農業、代替医療、建築、若者の教育などに強い関心を持ち、様々な形で活動。自然食品ブランド「ダッチー・オリジナルズ」や、若者の起業を支援する財団「プリンスズ・トラスト」などは高く評価されている。ダイアナ元妃死亡時は毛虫のように嫌われていたカミラ夫人(コーンウォール公爵夫人)も最近はすっかり国民に受け入れられているが、この2人に関する(恐らく)最も有名なエピソードは、皇太子がその昔、カミラさんに電話で「タンポンになって君のパンティの中に住みたい」と言ったというもの。次の英国王とその妻としてはちょっと悲しい。
晴れてシングル、次の彼女は誰に?
ウィリアム王子 (1982年6月21日生まれ、24歳)
ティーンの頃は母・故ダイアナ元妃の面影を残すキュートなルックスで世界中の女の子のハートを鷲づかみにしていたものの、近頃は頭頂部を含め容貌が全体にオッサンじみてきたと評判の未来の国王。ケイト・ミドルトンさんとの破局を巡っては、「王子が関係にコミットするのを嫌がった」「4年間付き合ったあげく携帯電話で別れを告げた」「破局の直前、ナイトクラブで女性の胸をもんでいた」など良からぬ噂が飛び交い、少々株を下げた模様。現在は英南西部ドーセットにある陸軍の基地で訓練を受けているが、英軍の長でもある王になるための準備として、今後空軍、海軍にもかかわると考えられている。身長191センチと体格は立派。私服のファッション・センスはヤバい。
タブロイド登場回数なら母に匹敵?
ヘンリー王子 (1984年9月15日生まれ、22歳)
飲酒、淫行当たり前、未成年時から大麻は吸うわ、パーティーにはナチスの制服姿で現れちゃうわ、王族ながらもう何でもアリの醜聞の百貨店。Aレベルの課題を先生が手伝ったなんて疑惑もあったっけ。最近は軍隊や慈善活動で頑張っているけれど、先日も確か、ナイトクラブから出てきたところを撮ろうとしたパパラッチに襲いかかって、「サン」紙のカメラマンから「ヘンリー王子は英国にとって当惑の種になっている」なんて言われてたはず。交際歴3年のチェルシー・デイビー嬢は、兄ウィリアムの気取った元カノとは対照的なビッチ風で超お似合い。実は本当の父親は故ダイアナ元妃の元愛人、ジェームス・ヒューイット氏じゃないかってずっと言われてるけれど、真相は闇の中だ。
気楽な次男坊は人生エンジョイ型
アンドリュー王子 (ヨーク公爵: 1960年2月19日生まれ、47歳)
ヨット好き、ゴルフ好き、女好きと、道楽息子ぶりがしばしば非難の的となる女王の次男坊。1996年の離婚以来、付き合った女性は少なくとも15人に上るそうで、タブロイド紙が付けたあだ名は「RandyAndy(好色アンディ)」。どこへ行くにも飛行機を使い、その費用が年間32万ポンド(約7651万円)にも上ることが判明した際には、「Air Mile Andy(エア・マイル・アンディ)」とのニックネームを頂戴した。海軍で22年間務め、フォークランド紛争にも従軍し、現在は英国貿易・投資局(UKTI)の広告塔として世界各地を飛び回っているが、こうした活躍ぶりが話題になることは殆どない。元妻のセーラ・ファーガソンさんとは今でもとっても仲良しなんだとか。
地味過ぎキャラで最近音沙汰なし
エドワード王子 (ウェセックス伯爵: 1964年3月10日生まれ、43歳)
「エリザベス女王の子供の中で唯一のスキャンダル未経験者」と言われる、地味で大人しい末っ子。兄アンドリュー王子に苛いじめられ続ける幼少期を過ごし、大学卒業後は海軍に入隊するも、訓練の厳しさに耐えられず除隊、「弱虫」とのそしりを受ける。演劇、メディアへの関心が強く、1993年に自身のテレビ番組制作会社を設立するが、めぼしいヒットを生み出せず、多額の借金も抱えて経営不振に。同社スタッフがマスコミと王室の協定を無視して大学入学直後のウィリアム王子を大学敷地内で撮影しようと試み、大ひんしゅくを買ったこともある(2002年、公務に専念するため同社社長職を辞任)。結婚は35歳と遅めだったため、同性愛の噂も耐えなかった。
オリンピックに出場した唯一の王族
アン王女 (1950年8月15日生まれ、56歳)
女教師のごときルックスが醸し出すお堅い印象は単なるイメージにあらず。毎年何百もの公務をこなすエリザベス女王の長女にして唯一の娘は、その勤勉ぶりから「最も働き者の王族」と賞賛されつつも、時に「厳格過ぎる」との批判も受けている。モントリオール・オリンピックに馬術の英国代表として出場したという実績も、その真面目ぶりの賜物と言えよう。23歳で結婚するも、夫の浮気などが原因で19年後の1992年4月に離婚、8カ月後に海軍中佐ティモシー・ローレンス氏と再婚。凶暴な飼い犬(ブルテリア)が何度か事件を起こしており、2003年には、女王の犬(コーギー)に噛み付き、重症を負った女王の犬が安楽死させられたこともある。
母の跡継ぎ馬術極める元「反逆娘」
ザラ・フィリップス (1981年5月15日生まれ、26歳)
舌ピアスや大胆なドレスをまとってのパーティー通い、ボーイフレンドと公衆の面前で殴り合いのケンカと、ロイヤル・ファミリーにあるまじき振る舞いで「王室の反逆娘」との異名を取ったのも今は昔。母アン王女と同じく乗馬の道に進み、昨年は馬術の欧州選手権と世界選手権で共に個人優勝という快挙を達成。BBCのスポーツ・パーソナリティー・オブ・イヤーに続いてMBE(大英帝国5等勲章)まで授与され、反逆児どころかすっかり世界的な一流スポーツ選手の仲間入りを果たした。2008年北京オリンピック出場と共に、恋人のラグビー選手マイク・ティンドールさんとの結婚の可能性も囁かれており、実は今、最も注目の王族メンバーと言えるかも?
エリザベス女王の本当の誕生日は4月21日。しかし毎年、6月の第1、2、3土曜日のいずれかに「公式誕生日」が設けられる。この伝統は、誕生日が11月だったエドワード7世(1841~1910)が、寒さや悪天候に野外の祝賀行事が影響される恐れがあるとして、温暖な5月か6月に「公式誕生日」を設定、パレードなどを行うようになったのが始まり。当日は、ロンドンのホースガーズ・パレードで軍旗敬礼分列式が行われるほか、42発の礼砲が鳴らされ、政府関係の建物には英国国旗が掲げられる。また叙勲者リストもこの日に発表される。
英皇太子が「ウェールズ王子」と呼ばれるのは何故?イングランドの再拡大を狙い、周辺諸地域への侵攻を積極的に試みていたエドワード1世(1239~1307)は1301年、ウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズを倒し、ウェールズを制圧。この際、イングランド王家がウェールズを支配することを明確に示すため、息子エドワード(後のエドワード2世)に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えた。これが、英国皇太子に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を授与する慣わしの始まりで、被征服者にとっては屈辱的な習慣であるが、今日まで伝統として残っている。
離婚した元王室関係者、その後の人生は王族と離婚後、大胆な人生改革に成功した人と言えば、アンドリュー王子の元妻セーラ・ファーガソンさん。マスコミの目を逃れるためニューヨークに移住した後は、減量成功の経験を生かしてダイエット・プログラム「ウェイト・ウォッチャーズ」のスポークスマンになったり、本を書いたりテレビに出たりとすっかりかの地でセレブに。慈善活動も積極的に行っており、離婚後の人生再建に成功した。著名な写真家アントニー・アームストロング・ジョーンズ氏は、故マーガレット王女と離婚後再婚するも、私生児の存在がばれて再び離婚。アン王女との結婚中に浮気して私生児をつくっていた騎手のマーク・フィリップス氏は、王女と離婚後、やはり騎手の女性と再婚した。
恋のため王位を捨てたエドワード8世愛する女性のため王位を捨てたのがエドワード8世(1894~1972)。名うてのプレイボーイだった彼は、30代後半で米国人シンプソン夫人と出会い、恋に落ちる。しかし夫人は外国人で平民である上に、離婚歴があり、2度目の夫とまだ結婚している身。このため、エドワードは1936年1月に41歳で独身のまま即位したものの、夫人を王妃として迎え入れることには、王室、政府のみならず、世論も猛反発した。王冠か恋かの選択を迫られたエドワードは、即位からわずか1年で退位し、1937年6月に結婚(この時点までにシンプソン夫人の離婚手続きは終わっていた)。王位は弟ジョージに譲られ、エドワード夫妻は英国を逃れてフランスへ移った。
年表で振り返る王室の歴史
イングランドは、9世紀にアルフレッド大王がほぼ統一したものの、その死後、北方民族の侵入などにより、一つの国家として安定することはなかった。このため、イングランドの王室は、ウィリアム1世によるノルマン朝成立時に始まったとするのが最も妥当とされている。ここでは、1707年までは主にイングランドとウェールズの、同年以降は連合王国の王朝の歴史を紹介する。
1066年~2005年 | |
1066年 | ノルマンディ公ウィリアムがノルマン朝を創始 |
1135年 | スティーヴンとアンジュー派が王位を巡って争う |
1154年 | ヘンリー2世が即位し、プランタジネット朝成立 |
1209年 | ジョン王、教皇インノケンティウス3世により破門 |
1215年 | ジョン王、マグナ・カルタを承認 |
1337年 | 百年戦争始まる |
1348年 | 黒死病の流行(~1349) |
1399年 | ヘンリー4世が即位し、ランカスター朝成立 |
1453年 | 百年戦争終結 |
1455年 | 薔薇戦争始まる |
1461年 | エドワード4世が即位し、ヨーク朝が始まる |
1485年 | ヘンリー7世が即位し、テューダー朝成立 |
1529年 | 宗教改革議会始まる |
1534年 | 国王至上法が成立、英国国教会の確立 |
1542年 | スコットランドでメアリ・スチュアート即位 |
1547年 | エドワード6世即位、プロテスタント化が進展 |
1554年 | メアリ1世、スペイン皇太子フェリペと結婚 |
1558年 | エリザベス1世即位 |
1587年 | スコットランド王メアリ・スチュアート処刑 |
1588年 | スペイン無敵艦隊襲来 |
1600年 | 東インド会社設立 |
1603年 | ジェームズ1世が即位し、スチュアート朝成立 |
1605年 | ガイ・フォークス事件 |
1628年 | 国会に「権利の請願」提出される |
1642年 | 国王軍と議会軍の内戦勃発 |
1649年 | チャールズ1世処刑。王政廃止、共和制の成立 |
1653年 | クロムウェル、護国卿となる |
1660年 | 王政復古 |
1688年 | 名誉革命 |
1689年 | 権利の章典制定 |
1707年 | スコットランドとイングランドが合同 |
1714年 | ジョージ1世がハノーヴァー朝を創始 |
1837年 | ビクトリア女王即位 |
1840年 | アヘン戦争開始 |
1851年 | ロンドンで万国博覧会開催 |
1877年 | ビクトリア女王、「インド皇帝」を称する |
1901年 | サックス・コーバーグ・ゴータ朝成立 |
1917年 | 王朝の名称が「ウィンザー朝」に変更 |
1936年 | エドワード8世、結婚問題で退位 |
1952年 | エリザベス2世即位 |
1981年 | チャールズ皇太子、ダイアナ・スペンサーさんと結婚 |
1997年 | ダイアナ元皇太子妃事故死 |
2005年 | チャールズ皇太子、カミラ・P・ボウルズさんと再婚 |
英国7王室ミニ紹介
ノルマン朝(1066-1154)
現在の北仏にあったノルマンディ公国のノルマンディ公ウィリアムが1066年にイングランドを征服して成立、4人の王を擁した。ノルマンディ公ウィリアムは、同年に死去したサクソン人の王エドワードの遠縁であった。
プランタジネット朝(1154-1399)
仏アンジュー地方の伯爵家、アンジュー家のアンリがヘンリー2世として即位して始めた。アンリの父ジョフロワが、帽子にエニシダ(planta genista=プランタジェニスタ)の小枝を刺して戦場に臨んだことからこの名が付いた。
ランカスター朝(1399-1461)
ランカスター家の初代は、プランタジネット朝の王エドワード3世の息子であるランカスター公(ジョン・オブ・ゴーント)。ヘンリー6世の治世から、ランカスター家とヨーク家との戦いである薔薇戦争が始まった。
ヨーク朝(1461-1485)
ヨーク家もランカスター家と同様、プランタジネット家の末裔で、エドワード3世の息子、ヨーク公エドマンドの子孫がヨーク朝の初代の王エドワード4世である。薔薇戦争は、3代目の王リチャード3世が戦死したことで終結した。
テューダー朝(1485-1603)
テューダー家の祖は、ランカスター王朝でヘンリー5世の未亡人キャサリンに仕えたウェールズ人、オーウェン・テューダー。彼はキャサリンと密かに結婚し、この2人の孫が後にヘンリー7世としてテューダー朝を創始した。
スチュアート朝(1603-1714)
スチュアート家はフランスから渡ってきたとされ、その末裔がスコットランドで1371年、ロバート2世としてスチュアート朝の初代国王となる。1603年から1707年まで、イングランド王を兼ねる同君連合体制がとられた。
ハノーヴァー朝(1714-1901)
「グレート・ブリテン王国」の最初の君主となったアン女王の後、スチュアート朝を継いだドイツの王家。ハノーヴァー家の祖は、ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公ゲオルグ(1582-1641)であると考えられている。
*ハノーヴァー朝から現王家、ウィンザー家へと続く
親族関係が一目で分かる ウィンザー王家家系図
現在の王家、ウィンザー家は、ドイツのハノーヴァー家の流れを汲み、第一次世界大戦中に敵国ドイツの性を忌避して改名された。エリザベス女王はウィンザー朝の4人目の君主。家系図にすると、下に下るにつれ、「離婚」「再婚」の文字が目立つようになる。
①ジョージ5世 兄の死で王位継承者となり、その兄の婚約者だった女性と結婚。生涯ラブレターを送り合うアツアツぶりだったという。
②ジョージ6世 兄エドワード8世の退位により、不本意ながら王位に就く。日記には、兄の退位の前日、母の前で泣いたと記されている。
③マーガレット王女 パーティー、煙草、アートを愛した王室の異端児。25歳の時、離婚歴のある16歳年上の男性との結婚を断念してニュースに。
④ビアトリス王女 昨年、傷害罪などで有罪となった米国人の恋人を捨てて話題に。女性誌「タトラー」の表紙を飾ったこともある。
⑤ソフィー(エドワード王子夫人) 2001年、某大衆紙のおとり取材に引っ掛かり、ブレア首相などに関する侮辱的な発言を記事にされたことがある。