不毛な時代に希望を与えた伝道師
英国が愛した BOB MARLEY(ボブ・マーリー)
大麻の所持で起訴され、ロンドンのメリルボーン治安判事裁判所に出廷するボブ・マーリー
西インド諸島ジャマイカ出身のミュージシャン、ボブ・マーリーは1981年に36歳の若さで死去したが、今もなお新しい世代にインスピレーションを与え続けている。かつて英国が「欧州の病人」と呼ばれ「英国病」を患っていた不毛な時代に、マーリーの曲は英国に暮らす人々の声を代弁していた。今回の特集ではジャマイカと英国の歴史をたどりつつ、マーリーが英国文化に意外なほど大きな影響を与えたといわれるその理由をひも解いていく。また、昨年はマーリーがこの世を去って40年ということで企画されつつも、コロナ禍のため延期されていたさまざまなイベントが今年になって開催。そのいくつかも併せてご紹介する。 (文: 英国ニュースダイジェスト編集部)
参考: When Bob Marley Came to Britain( BBC Documentary) ほか
目次
ボブ・マーリー ROBERT NESTA MARLEY
1945年2月6日~81年5月11日
レゲエの先駆者といわれるジャマイカ出身のシンガー・ソングライター、ミュージシャン。特徴ある歌声と、宗教的かつ社会的な歌詞で知られ、1960年代〜80年代初頭に音楽のジャンルを超えた活躍をした。「Get Up, Stand Up」「No Woman, No Cry」「One Love / People Get Ready」「I shot the sheriff」などをはじめとする数々のヒット曲がある。当時の社会情勢にあって、多くの人に夢や希望を与え、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに成功した。英国にも長期滞在し、ミュージック・シーンだけでなく、英国の若者文化にも大きな影響を与えた。悪性腫瘍のため36歳の若さで死去。
英国とジャマイカの関係
旧植民地からきた移民たち
ボブ・マーリーが初めて英国の地を踏んだのは1971年から72年にかけて。すでにジャマイカでミュージシャンとしてのキャリアを確立していたマーリーは、「ザ・ウェイラーズ」として、ジョニー・ナッシュ* と共に英国ツアーを行った。国内のみならず世界に向けて、音楽でメッセージを発したいと考えたマーリーだったが、かつてジャマイカを支配していた英国や西洋を快く思っておらず、熱心なラスタファリ運動(後述)の信奉者であったほかの2人のメンバーは、英国行きに乗り気ではなかったという。
海外ツアーに出始めたころのボブ・マーリー
ここで英国とジャマイカの関係を簡単に振り返っておく必要があるだろう。ジャマイカは17世紀にオリヴァー・クロムウェルによって征服されて以来、1958年まで英国の植民地だった。西インド諸島最大の砂糖の産地だったことから、「三角貿易」と呼ばれる黒人奴隷貿易の舞台となったこともあった。つまりいってみれば現在ジャマイカに住む人々は、砂糖プランテーションの労働力として英国によってアフリカから連れてこられた奴隷の子孫なのである。
1962年、英南部サウサンプトン港に到着した西インド諸島からの移民たち
また時代は下がって、英国は第二次世界大戦後に自国の労働力不足を補うため、ジャマイカをはじめとした西インド諸島から多くの移民を招き入れた。後に言われるウィンドラッシュ世代である。ウィンドラッシュは1948年に第一陣の移民を英国に運んだ船の名前から来ている。1971年以前に英国に定住した移民は50万人を超えるとも言われ、その多くがロンドンをはじめとした都市部に定住。鉄道やNHS(国民医療制度)といった人手不足の分野で職に就いた。しかし、国民が喜んで移民たちを迎えたかといえば、そうではなかった。新生活を夢見て海を渡った人々は、祖国と異なり太陽も照らない寒い国で、人種差別という問題に直面した。
*米ミュージシャン。後にレゲエ・シンガーとしてジャマイカに移住。代表曲は「I Can SeeClearly Now」
1970年代の英国社会
では、1970年代前半の英国はボブ・マーリーの音楽を受け入れる用意ができていたのだろうか。このころの英国は、戦後の産業保護政策のため、石炭、電力、ガス、鉄鋼、鉄道、運輸などの産業がことごとく国営化された。しかしそれとほぼ同時に国際競争力を失い始め、国際収支は悪化するばかりだった。第一次オイルショックも重なり、国内は炭鉱はもちろん、大学などあらゆる分野でストライキやデモが慢性化し、社会的活力も低下。ほかの欧州の国はこの状態を「英国病」と呼んだ。
1972年、当時教育科学相だったサッチャーの政策に反対する学生たち
また、北アイルランド問題においても、暴力がもっとも激化した時代でもあり、こうした不安定な状況のまま膠こう着ちゃくする社会に、国民は不満を募らせていた。そして、苛立ちは第二次世界大戦後に急増した移民たちへと向かった。1967年に設立された極右政党「国民戦線」(British National Front)は1970年代に入り支持率が急上昇。移民排斥、白人至上主義をモットーとし、党員やそのシンパによる差別的な言動がきっかけで、街角で暴動が発生することもあった。
1977年にロンドン南部ルイシャムで示威運動をする国民戦線
そんな時代にあって、ボブ・マーリーの音楽に真っ先に飛び付いたのは、英国で生まれた黒人の若者たちだった。初期ウィンドラッシュ世代を両親に持つ第2世代が増加し始めており、政治色の強いマーリーの曲は、自分たちが置かれている理不尽な状況にぴったりだったのだ。「Get up, Stand Up」(目を覚ませ、立ち上がれ)と唄うマーリーの声は、多くの人々を勇気づけた。
黒人の平等な権利を訴えロンドンの街を行進する人々
じわじわと白人層に浸透
先の英国ツアーではジャマイカ系英国人を魅了したザ・ウェイラーズだったが、英国全土に人気が広がったわけではなかった。だが1972年、名プロデューサーでもあるクリス・ブラックウェル率いるメジャーなアイランド・レコードと契約したことで、マーリーはスターの階段を登り始める。ブラックウェルがよりロック色の強いサウンドを望んだため、翌年発売されたアルバム「Catch a Fire」は、ロックやポップスに親しむ白人層にもアピールする音作りとなった。ブラックウェルの狙い通り、白人層はもちろん、英国ロックで育ったジャマイカやアフリカ系の黒人にも支持された。「Concrete Jungle」「Slave Driver」「Stir It Up」「Kinky Reggae」「No More Trouble」などが並ぶこのアルバムは大きな注目を浴び、英国の人気音楽テレビ番組、「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」への出演も果たした。
アルバム「Catch a Fire」のジャケット
そしてその半年後には早くもメジャー2作目のアルバム「Burnin'」を発表。「Get Up, Stand Up」「I Shot The Sheriff」「Burnin' And Lootin'」「Small Axe」「Rastaman Chant」など、マーリーの人気を決定づける1枚となった。特に、「I Shot The Sheriff」は翌年エリック・クラプトンのカバーが、全米ビルボード・チャート1位を獲得。ジャマイカ生まれのレゲエという音楽ジャンルとボブ・マーリーの名は世界に定着した。
英国での認知度が上がったボブ・マーリー
ラスタファリ運動とは
アルバム「Burnin'」発表の直前、ウェイラーズのメンバーの一人で、厳格なラスタであるバニー・ウェイラーが、適切な自然食をとれないなどの理由から脱退を表明した。ラスタとは、1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心にして発生した宗教的思想運動「ラスタファリズム」(Rastafarianism)のことで、その実践者をラスタと呼ぶ。ラスタファリ運動は一握りのエリートによって支配され、社会的に抑圧されたジャマイカ市民の抵抗運動という面を持つ。エチオピアを人類の起源としたアフリカ回帰運動を奨励し、エチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世をジャー(イエスやエホバにあたる)の化身だと考える。また、菜食主義で、髪は切らずにドレッド・ヘア、大麻を神聖なものとして扱うなどの特徴があり、ボブ・マーリーの歌詞やファッションによって全世界に波及した。
レゲエとパンクの共闘
不況が続いて人々の心がささくれ立つなか、英国の若者たちは2つの異なる音楽を手にしていた。レゲエと1976年ごろから台頭してきたパンク。この二つはジャンルが全く異なるにもかかわらず、社会に対する主張が共通していた。差別や搾取などに対するプロテスト・ソングの多いレゲエは、黒人コミュニティーを団結させる役割を担っていた。そんな黒人たちの姿を見ていた白人の若者たちは、自分たちも音楽で権力に立ち向かうことで、現状を変えることができるのではないかと気付いたのだった。ザ・クラッシュなどをはじめとした英国のパンク・バンドにレゲエの要素が入り込んでいるのはこのためだ。
1979年、ザ・クラッシュのステージ
77年、アルバム「Exodus」制作のため再び英国に長期滞在していたボブ・マーリーもすぐにこうした動きに反応。ロンドンでパンクのコンサートに足を運ぶほか、セックス・ピストルズの「God save the Queen」の挑発的な歌詞が好きだと言い、アルバム未収録曲「Punky Reggae Party」を作った際、「パンクはレゲエに共鳴する」と語っている。当時の英国社会はラブ&ピースを語るには世知辛すぎたが、共闘、共鳴という形でレゲエとパンクが存在した。
2000人以上を収容できるロンドン中心部のライセウム劇場で行われたボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのコンサートは、全観客の半数が黒人で残りの半数が白人という、現代でもあまり見ることができないボーダーレスな客層だったという。
各地で熱いステージを繰り広げるボブ・マーリー
ボブ・マーリーを知るための関連イベント
レゲエやボブ・マーリーの魅力にもっと触れてみたい、という方は下記のイベントはいかがだろうか。すでに開催中のものを含め、ここではエキシビション、ミュージカル、野外フェスティバルの三つを紹介しよう。
エキシビション
BOB MARLEY: ONE LOVE EXPERIENCE
ボブ・マーリーのライフスタイルに加え、音楽と政治にかける情熱とその影響力が分かる体験型エキシビション。マーリーの各時代の写真とメモラビリアが並ぶメイン・ルームのほかに、巨大なインスタレーションを通じてボブ・マーリーの功績を称えるワン・ラブ・ミュージック・ルームや、センサーを使った観客参加型のワン・ラブ・フォレスト、また、マーリーのヒット曲を聴くことができるソウル・シェイクダウン・スタジオも設置されている。本展はサーチ・ギャラリーのあと、さまざまな都市を巡回する予定だという。
父親は英国人。そのため肌の色が薄いのがコンプレックスだった
このエキシビションはマーリーの遺子たちが全面協力しているため、ミュージシャンとしてだけではない、プライベートな素顔がのぞける展示品も多く並ぶ。マーリーの娘であるセデラ・マーリーさんは公開に先立ち、「私たちは長年ボブ・マーリーの巡回展を立ち上げたいと思っていましたが、パパの心の中で非常に特別な場所であったロンドンで、それが最初に実現するのをうれしく思います」としている。
4月18日(月)まで
£18
10:00-18:00
Saatchi Gallery
Duke of York's HQ, King's Road, London SW3 4RY
Sloane Square駅
www.bobmarleyexp.com
www.ticketmaster.co.uk/bob-marley-one-love-experience-tickets
サッカー好きで、トッテナム・ホットスパーFCを応援していた
特徴のあるマーリー・スマイル
本展では英写真家デニス・モリスによる作品も見られる
野外フェスティバル
ONE LOVE FESTIVAL
英国で唯一のレゲエ、ダブ&エレクトリック・ミュージック・フェスとして人気を集める「ワン・ラブ・フェスティバル」。このフェスは、敵対し合うジャマイカの2大政党の党首をステージに上げ、2人を握手させたという逸話を持つ、1978年にジャマイカで開催されたボブ・マーリーの伝説的なコンサート「ワン・ラブ・ピース・コンサート」にヒントを得て始まった。各国から集まったアーティストたちが愛と平和の伝道師になり、会場が一つのコミュニティーとなる一体感は格別だ。出演者の詳細についてはサイトを参照。
8月12日(金)~14日(日)
£42.20~127.92
Weston Estate, Steyning, West Sussex BN44 3DD
https://onelovefestival.co.uk
ミュージカル
GET UP, STAND UP: THE BOB MARLEY MUSICAL
英国でも米国でもなく、ジャマイカという「第三世界」から生まれたスーパースター、ボブ・マーリー。マーリーを突き動かしていたその原動力は何だったのか。政治に対する考えやその心の内を、タイトルともなっている「Get Up, Stand Up」をはじめとしたマーリーのヒット曲と共に丁寧に描いたミュージカル。マーリーを演じるのは、子どものころマーリーがヒーローだったという、ナイジェリア出身の英俳優アリンゼ・ケニ。映画「リトル・ダンサー」や「ロケットマン」を手掛けたリー・ホールが脚本を担当している。
9月17日(土)まで
火~土 19:30、日 19:00、土&日 マチネ14:30
£15~135
The Lyric Theatre
Shaftesbury Avenue, London W1D 7ES
Piccadilly Circus駅
Tel: 0330 333 4812
https://getupstandupthemusical.com