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Sat, 23 November 2024
〜シティを歩けば世界がみえる 特別編〜

ロンドンに残る歴史の断片シティからみた日露戦争、再発見!

日清戦争後、世界の列強がこぞって中国(清)を分割する様子を描いた仏画家アンリ・マイヤーによる風刺画。左からヴィクトリア女王、独ヴィルヘルム2世、露ニコライ2世、フランスの象徴である女性像マリアンヌ、日本を象徴するサムライ。後ろで手を挙げているのは中国日清戦争後、世界の列強がこぞって中国(清)を分割する様子を描いた仏画家アンリ・マイヤーによる風刺画。
1905年に発行された日本の外貨建て公債1905年に発行された日本の外貨建て公債

日露戦争(1904~05年)を機に発行された日本の外貨建て公債の券面をじっくり見る機会がありました。思えば幕末に列強と結んだ不平等条約のうち、治外法権の撤廃を最初に実現できたのは1894年の日英通商航海条約でした。そこに英国の反露、親日の姿勢を読み取った日本は同年、日清戦争(1894~95年)に踏み切りました。この戦争に勝利し、シティで多額の賠償金を受け取った日本は、97年に金本位制を導入。

一方、ロシアの南下進出を警戒した英国は非同盟政策「栄誉ある孤立」を破棄して日英同盟を締結しました。日本は英ポンド建て公債で戦費の調達を行いながら日露戦争に挑み、さらに南満州鉄道会社と東洋拓殖社による東アジアの植民地化に進んで行きました。今回、寅七はロンドンに今も残る日露戦争にまつわる歴史の断片を拾いながら、改めて日本と英国の深い関係を再発見してみたいと思います。

参考:「日露戦争、資金調達の戦い ―高橋是清と欧米バンカーたち―」(板谷敏彦著、新潮選書)ほか

シティ公認ガイド 寅七

シティを歩けば世界がみえる』を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫

Episode 1百鬼夜行の国際金融

1895年、日清戦争で日本が獲得した遼東半島の返還を迫ったのは独仏露の三国でした。多額の賠償金が清に課せられると、英独仏露はその資金調達を手伝います。清の発行するフラン建て公債の幹事には仏露が設立した露清銀行が就任し、その債券の支払いをロシアが保証する見返りに鉄道敷設権や旅順や大連の租借権を入手しました。

一方、清のポンド建て公債の幹事に英国の香港上海銀行とドイツの独亜銀行が就任。金融支援の名のもとに近づき、土地を租借して鉄道を敷設、その防衛の名目で侵略するのが帝国主義の常套手段でした。そしてフランスが広州湾(滇越(てんえつ)鉄道)、ドイツが膠州湾(膠済(こうさい)鉄道)、英国が九龍半島(九広(きゅうこう)鉄道)を侵略。朝鮮半島の権益を守りたい日本はロシアと対立を深め、ロシアが各地で進める軍事的拡大を抑制したい英国と利害が一致します。こうして1902年、ロンドンで日英同盟が結ばれました。

日英独仏露の租借地日英独仏露の租借地
日英同盟が署名されたロンドン西部のランズダウン邸日英同盟が署名されたロンドン西部のランズダウン邸
日英同盟に署名したランズダウン外相と林英国公使日英同盟に署名したランズダウン外相(左)と林英国公使(右)
現在のランズダウン邸は会員制クラブに、日英同盟が結ばれたオヴァル・ルームはバーになっている現在のランズダウン邸は会員制クラブに、日英同盟が結ばれたオヴァル・ルームはバーになっている
英米の誘いで火中の栗を拾わされる日本を描いた、日英同盟の風刺画英米の誘いで火中の栗を拾わされる日本を描いた、日英同盟の風刺画

Episode 2“カネは天下を回らず”

シティの西にあるハットンガーデン57番地は、発明家ハイラム・マキシム卿が世界初の機関銃を生み出した場所です。マキシム銃は毎分500発の弾丸を発射し、日露戦争で多くの日本兵の命を奪い、この銃の登場により陸軍の戦法が従来の騎馬戦から塹壕戦に変わりました。マキシム社は水中から魚雷を発射する潜水艦を製造するノルデンフェルト社と合併後、1897年に製鉄会社だったヴィッカース社に買収され、巨大な軍需会社に生まれ変わります。戦艦三笠からマキシム銃まで製造する巨大軍事会社の誕生の陰には、英ロスチャイルド家とアーネスト・カッセル卿の支援がありました。

カッセル卿は国王エドワード7世に個人金融アドバイザーを務める金融界の黒幕でしたが、当時の日本にはまだよく知られていない人物でした。日露戦争時の日本の外貨建て公債を購入した主な投資家はロスチャイルド家やカッセル卿などですが、一方、その公債で日本が購入したのは英国の武器です。カネは天下を回らず、狭い範囲で行き来していたようです。

日露戦争を描いた図版。機関銃がこれまでの戦いの在り方を変えた日露戦争を描いた図版。機関銃がこれまでの戦いの在り方を変えた
マキシム銃が誕生したハットンガーデン57番地マキシム銃が誕生したハットンガーデン57番地
マキシム卿による試し撃ちの様子マキシム卿による試し撃ちの様子
英ヴィッカース社が建造した日本の戦艦「三笠」英ヴィッカース社が建造した日本の戦艦「三笠」
ロスチャイルド男爵とカッセル卿ロスチャイルド男爵(左)とカッセル卿(右)

Episode 3金本位制の維持が先進国の証

1895年10月から日清戦争の賠償金約3800万ポンド(当時の日本の国家予算の3倍超)がイングランド銀行にある日本銀行ロンドン支店の口座に分割払いされました。幕末以来、金貨流出に苦しんできた明治政府はこの受領により97年から金本位制を導入します。金の価格は銀より安定しているため金本位制で為替相場が安定し、国際貿易が促進されます。

当時の外国為替管理を担った横浜正金銀行は、日本が欧州向けに茶や綿製品、絹を輸出して金貨を稼ぎ、インドや中国から輸入した原材料費を銀貨で払うことで日本の金貨蓄積を目指していました。ところが、金本位制の欧州から戦艦をはじめとする軍備品を購入すればたちまち金貨が流出します。

1904年2月に日露戦争が勃発すると、急きょ当時の日銀副総裁、高橋是清が戦費調達と金本位制維持のためロンドンに向かい、ポンド建て公債の発行を画策します。

ビショップゲート120番地(その後7番地に地番変更)にあった横浜正金銀行ロンドン支店ビショップゲート120番地(その後7番地に地番変更)にあった横浜正金銀行ロンドン支店
現在のイングランド銀行。日本政府は大口顧客だった現在のイングランド銀行。日本政府は大口顧客だった
当時日銀副総裁だった高橋是清当時日銀副総裁だった高橋是清
金本位制の安定した為替で輸出振興を図った横浜正金銀行本店(現・神奈川県立博物館)金本位制の安定した為替で輸出振興を図った横浜正金銀行本店(現・神奈川県立博物館)
欧州から購入した日本海軍の主な軍艦欧州から購入した日本海軍の主な軍艦

Episode 4戦況で決まった公債の発行条件

1904年4月1日、シティに到着した高橋是清は英金融界の重鎮たちと会います。当時のシティはマーチャント・バンク(=投資銀行)の全盛期。マーチャント・バンクは貿易金融で築いた国際ネットワークを生かし、軍需産業とも強いコネを持っていました。

会合に参加したレヴェルストーク卿(ベアリング商会)、シャンド氏(パース銀行)、キャメロン卿(香港上海銀行)、サミュエル卿(サミュエル商会)、ロスチャイルド卿(ロスチャイルド商会)の誰もが日本の日露戦争に勝利する可能性は低いと予想し、日本の外貨建て公債の引き受けに否定的でした。

しかし、有力な投資家のカッセル卿が、米国主要の鉄道敷設や鉱山建設で密接なパートナーだった米クーン・ローブ商会のJ・シフ氏に、日本国外債の幹事就任を打診している間に、日本が序盤の鴨緑江(おうりょくこう)の戦いに勝利。シフ氏は発行総額の半分を引き受けると言い出します。これで一気に事態が好転し、公債の発行条件が決まります。

是清が宿泊したブラックフライアーズのデ・カイザーズ・ロイヤル・ホテル是清(左上)が宿泊したブラックフライアーズのデ・カイザーズ・ロイヤル・ホテル
ビショップゲート8番地にあったベアリング商会の昔と現在と同商会のレベルストーク卿ビショップゲート8番地にあったベアリング商会の昔と現在と同商会のレベルストーク卿
フィンズベリー・スクエア1番地にあったパース銀行の昔と現在と同銀行のシャンド氏フィンズベリー・スクエア1番地にあったパース銀行の昔(右)と現在(左)と同銀行のシャンド氏(上)
ロンバード・ストリート31番地にあった香港上海銀行と同銀行のキャメロン卿(デービッド・キャメロン元首相の曽祖父)ロンバード・ストリート31番地にあった香港上海銀行と同銀行のキャメロン卿
シフ氏がロンドン出張中に宿泊していた当時のクラリッジズ・ホテルシフ氏(左)がロンドン出張中に宿泊していた当時のクラリッジズ・ホテル

Episode 5借金の条件は変われども借金そのものは続く

高橋是清が関わった公債は合計6度。発行総額は国家予算8年分の金額です。下の表で明らかなように、戦争の行方が一進一退だった第2回債までは借り手の日本には厳しい発行条件でした。しかし1905年1月の旅順の戦い、3月の奉天の戦い、5月の日本海海戦で日本が勝利すると第3回債、第4回債は日本に有利な条件に変わります。第5回債からはポーツマス講和条約後なので、英米だけでなく仏独も幹事に加わり、多くの投資家に販売されました。

しかし、日露戦争終了で債券の発行は終わりません。日露戦争の賠償金を獲得できなかったので、国内の鉄道国有化や譲渡された南満州鉄道の沿線開発といった旺盛な資金需要のために、海外で債券を発行し続けました。戦争に勝って先進国入りしたと意気揚々の日本ですが、地球の裏側のシティでは借金プレイヤーであり続けました。

陥落後の旅順港の様子陥落後の旅順港の様子
陥落後の奉天に入城する日本陸軍陥落後の奉天に入城する日本陸軍
日本海海戦を描いた「三笠艦橋の図」日本海海戦を描いた「三笠艦橋の図」
南満州鉄道を走る列車南満州鉄道を走る列車
時期 発行額(ポンド) 年利(%) 担保 期限(年) 発行銀行(国)
第1回 1904年5月 1000万 6.0 横浜関税 7 英、米
第2回 1904年11月 1200万 6.0 横浜関税 7 英、米
第3回 1905年3月 3000万 4.5 煙草専売金 20 英、米
第4回 1905年7月 3000万 4.5 煙草専売金 20 英、米、独
第5回 1905年11月 2500万 4.0 無担保 25 英、米、独、仏
第6回 1907年3月 2300万 5.0 無担保 40 英、仏
右にスクロールできます→ ポンド建て日本国公債の発行条件

Episode 6英国と鉄道と日露戦争

日本最初の公債は1870年、鉄道敷設のための英シュローダー商会とオリエンタル銀行幹事によるポンド建て債券でした。鉄道による殖産興業を国の方針とし、その延長線上に日露戦争がありました。ロシアはシベリア鉄道の支線、東清鉄道から南下し、日本は朝鮮半島を縦断する京釜(けいふ)鉄道から北上して東清鉄道沿線で衝突しました。

鉄道は戦地に兵士や武器を送り込むだけでなく、沿線の倉庫や野戦病院で兵站(へいたん)を支援します。日露戦争勝利の要因の一つが、日本の野戦鉄道提理部が露軍の撤退した東清鉄道の線路幅を日本式(露の152.4センチ軌間から日本の106.7センチ軌間)にすぐ変更して後方支援を行ったことです。日露戦争後も日本の鉄道守備隊(軍隊)が現地に居残り、満州鉄道と東洋拓殖を中心に植民地事業が進められました。英国の目には日本が英国の敷いた線路から脱線し、危険分子へと転じたように映りました。 日露戦争から16年後の1921年、日英同盟は解消されることになります。

リーデンホール145番地にあったシュローダー商会が日本初の国債の主幹事だったリーデンホール145番地にあったシュローダー商会が日本初の国債の主幹事だった
日露戦争は鉄道の争い日露戦争は鉄道の争い
後の満州国の首都、長春の駅をモチーフにした鉄道ポスター(1924年)後の満州国の首都、長春の駅をモチーフにした鉄道ポスター(1924年)
東清鉄道の線路幅を変えて日本が再利用東清鉄道の線路幅を変えて日本が再利用
満州鉄道と東洋拓殖が植民地政策の二大国策会社(南満州鉄道本社(大連)、東洋拓殖会社(京城府))

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