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Fri, 22 November 2024

ラファエル前派の生みの親ダンテ・ガブリエル・ロセッティ

ラファエル前派の1人、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(1828年5月12日~82年4月10日)は、日本でも人気が高い19世紀英国の画家・詩人。4月6日からテート・ブリテンで始まる大回顧展「ロセッティズ」(The Rossettis)では、同じく芸術家だった弟妹、モデルで絵の才能もあった妻シダルなど、ロセッティの身近な人々の作品も同時に展示される。本誌では、回顧展をより楽しく観るために、ロセッティを取り巻く人々や、カリスマ性と人間臭さを併せ持つロセッティの素顔を紹介する。(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.tate.org.ukwww.rossettiarchive.orgwww.poetryfoundation.org ほか

1863年のダンテ・ガブリエル・ロセッティ。撮影はルイス・キャロルの名で知られるC・L・ドジソン1863年のダンテ・ガブリエル・ロセッティ。撮影はルイス・キャロルの名で知られるC・L・ドジソン

ダンテ・ガブリエル・ロセッティDante Gabriel Rossetti(1828–1882)

若き日のロセッティの「自画像」(1847年)若き日のロセッティの「自画像」(1847年)

1828年5月12日、ロンドン中心部のシャーロット・ストリートに生まれる。父のガブリエーレはイタリアから英国に政治亡命した著名なダンテ研究家。母のフランセスは同じく亡命イタリア人の父と英国人の母をもつ教師だった。両親の知や芸術への興味と才能を受け継ぎ、4人の子どもたちは全員天分に恵まれる。ロセッティは第2子であり、子どものころから情熱的で、人を引き付ける天性のカリスマ性があったという。

14歳で父が教鞭をとるキングス・カレッジ・スクールに通ったのち、詩人になるか画家になるか迷いながらも1845年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学。だがここで学ぶ決まりきった古代彫刻のデッサンなどにうんざりし、ラファエル前派兄弟団を結成。その中心的人物となる。当初はその官能性などから悪評を被ったロセッティとラファエル前派作品は、欧州の象徴主義画家たちに影響を与え、耽美主義の先駆けとなった。

ラファエル前派とは

19世紀英国の美術教育は、イタリアの盛期ルネサンスを規範とし、ラファエロのような古典主義の作品が完璧な美として礼賛されていた。しかし、そうした優雅で均衡のとれた美に飽き足らず、ラファエロが登場するルネサンス以前の、中世の芸術に理想を見出した英国の画家たちが、1848年9月に結成したのがラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)。

当時ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの学生だったロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイの3人が中心になった。後にエドワード・バーン=ジョーンズやウィリアム・モリスらが加わるが、これをラファエル前派第二世代と呼ぶ。

かつてミレイのアトリエがあった大英博物館近くの建物。現在は「ラファエル前派が結成された場所」と記された銘板が掲げられているかつてミレイのアトリエがあった大英博物館近くの建物。現在は「ラファエル前派が結成された場所」と記された銘板が掲げられている

ロセッティを取り巻く人々

クリスティーナ・ジョージナ・ロセッティChristina Georgina Rossetti(1830-1894)

父親や兄の影響で幼いころから文学や美術に親しんでいたクリスティーナは、12歳のころから詩作をはじめ、ラファエロ前派の機関誌「 ザ・ジャーム」(The Germ=萌芽)に作品を発表。「ゴブリン・マーケット」や「シング・ソング」など、今も読み継がれる名作を世に出した。

クリスティーナの著作「ゴブリン・マーケット」の第2版クリスティーナの著作「ゴブリン・マーケット」の第2版

また、兄の絵画「聖母マリアの少女時代」や「受胎告知」のマリアなど、多くの絵画作品のモデルともなった。敬虔なキリスト教徒だったクリスティーナだが、思想的には同時代の偉大な詩人エリザベス・バレット・ブラウニング同様、権力や性差別に対する鋭い感覚を持ち、奴隷制や売春による性的搾取、動物実験に反対した。

妹のクリスティーナをマリアのモデルにして描かれた「受胎告知」(1849~50年) 妹のクリスティーナをマリアのモデルにして描かれた「受胎告知」(1849~50年)

マリア・フランチェスカ・ロセッティMaria Francesca Rossetti(1827–1876)

ロセッティ家の長女マリアは、詩人ダンテの研究書「ダンテの影―彼自身、彼の世界、そして彼の巡礼の研究にむけての試論」(A Shadow of Dante: Being an Essay towards Studying Himself, His world, and His Pilgrimage)を1871年に発表。当時の英米で好評を得た。

また、父親の健康状態が悪化し家族が経済的困窮にひんしたときは家庭教師として働き一家を支え、妹のクリスティーナは自作「ゴブリン・マーケット」をマリアに捧げた。46歳のとき、マリアは聖公会の女子修道会であるオール・セインツ教会に入会し修道女として一生を終えた。

ウィリアム・マイケル・ロセッティWilliam Michael Rossetti(1829–1919)

美術評論家、文芸編集者、文人。ラファエル前派の7人の創設メンバーの1人であり、1850年に4号発行された同グループの機関誌「ザ・ジャーム」を編集。同誌の詩のレビューなども担当した。また、1848年9月に同運動が始動したとき、ラファエル前派の活動を記録したのはウィリアムだった。

1863年にルイス・キャロルことC・L・ドジソンが撮影したロセッティ一家。母親を中心に、右から姉のマリア、弟のウィリアム、ロセッティ、階段に座る妹のクリスティーナ1863年にルイス・キャロルことC・L・ドジソンが撮影したロセッティ一家。母親を中心に、右から姉のマリア、弟のウィリアム、ロセッティ、階段に座る妹のクリスティーナ

エリザベス・エレノア・シダルElizabeth Eleanor Siddal(1829–1862)

ラファエル前派の画家によって広く描かれた美術モデルで、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」のモデルとして特に知られる。労働者階級に生まれ、婦人帽子屋で働いているところを、ラファエル前派の1人だった画家のウォルター・デヴァレルに発見され、モデルとして雇われたのがロセッティと出会うきっかけになったというのが通説。

だが一方で、シダルが暇なときに描いたドローイングを帽子屋に来ていたデヴァレルの父親が大変気に入り、息子とその友達に絵を習うよう勧めたのが始まりで、ロセッティはシダルの絵の先生だったという説もあり、最初の出会いには謎が多い。

ロセッティの代表作「ベアタ・ベアトリクス」(1864年)。シダルの死を悼み描かれた ロセッティの代表作「ベアタ・ベアトリクス」(1864年)。シダルの死を悼み描かれた

また、シダルの容貌は健康的な古代イタリアの美とはかけ離れていたものの、赤毛で長身のすらりとした姿と青白く繊細な顔付きは、ラファエル前派の描く女性美の典型の一つとなった。ロセッティは、自分を詩人のダンテと同一視し、恋人となったシダルをダンテが理想の女性として描いたベアトリーチェと重ねた。

ロセッティはシダルを理想化し、霊的で精神的な愛の対象とみなし作品を制作。一方で、ほかの女性に現世的で現実的な愛を求め、シダルと婚約、結婚をしてもそれは変わらなかった。それを苦にしたシダルは次第に健康を害し、当時家庭薬として使われていた麻薬の一種アヘンチンキを多用。妊娠中だった1862年2月、シダルはアヘンチンキの過剰摂取が原因で32歳で短い生涯を閉じた。

ミューズジェーン・モリスJane Morris(1839-1914)

貧しい馬丁の娘だったジェーンは、黒髪と意志のある強いまなざしを持つエキゾチックな美貌で、ラファエル前派の画家たちを魅了し、メンバーのミューズ的存在となった。オックスフォードで観劇中、芝居を観に来ていたロセッティとエドワード・バーン=ジョーンズに声を掛けられたのがモデルになるきっかけだったといわれる。

後に2人を通じてアーツ・アンド・クラフツ運動の推進者となるウィリアム・モリスに出会ったジェーンは、経済的困難から脱却するために資産家のモリスと結婚。しかしロセッティとも愛し合い、ロセッティ、ジェーン、モリスの奇妙な三角関係はロセッティが死去するまで続いた。

ジェーンをモデルにした「プロセルピナ」(1874年)冥界に下りたギリシア神話の春の女神 ジェーンをモデルにした「プロセルピナ」(1874年)冥界に下りたギリシア神話の春の女神

共に激しい性格で似た者同士だったロセッティとジェーンは、深い絆で結ばれていた。妻のシダルをモデルに聖なる女性を描いたロセッティは、ジェーンをモデルに憂いを秘め、もの思いに沈むファム・ファタール(運命の女性)を次々に描き出した。

また、モリスと暮らし始めて以来ジェーンは、個人教授を受けすぐに高い教養と洗練された話し方を身に付けた。同時代の人々はジェーンのことを「女王のよう」と形容するほどだったという。ジェーンは、アイルランドの戯曲家バーナード・ショーの「ピグマリオン」(Pygmalion)の登場人物、ヒギンズ夫人のモデルともいわれている。同作品は「マイ・フェア・レディ」の名で映画化もされた。

愛人ファニー・コーンフォースFanny Cornforth(1835–1909)

ロセッティは妻シダルの死後、すぐに愛人兼モデル兼家政婦のファニー・コーンフォースを自宅に住まわせた。ファニーは鍛冶屋の娘として英南東部サセックスに生まれ、家政婦として生計を立てていた。ロセッティの弟ウィリアムは若いファニーの美しさを称賛したものの、教育、知性の魅力が無いと語り、多くの人々がロセッティに関係を終わらせるよう圧力をかけたという。だが、ロセッティはファニーをモデルに60点余りの作品を描いた。いずれも肉感的な魅力を強調した作品で、シダルを聖、ジェーンを運命とするなら、ファニーは女性の性の部分を受け持った。

「キスされた唇」(1859年)ファニーがモデル。イタリア作家ボッカチオの「デカメロン」の一場面 「キスされた唇」(1859年)ファニーがモデル。イタリア作家ボッカチオの「デカメロン」の一場面

だが、妻の死に対する罪悪感やジェーンへの思慕などから酒と麻薬に溺れる生活が続き、ロセッティは不摂生から体重が大幅に増加。ファニーはロセッティの体型を見て「サイ」と茶化していたという。45歳で自殺未遂事件を起こすなど心身ともに病んだロセッティは、1877年までファニーと一緒に暮らした後、家族の世話を受けながら療養生活に入る。不眠症のため夜中にロウソクの火で絵を描くなどするが、82年、53歳の春に腎臓疾患でこの世を去った。

一方、ファニーはロセッティが生前の79年に税務士の男性と結婚。ロンドンのジャーミン・ストリートでパブの営業をはじめたが、ロセッティの死後、夫とロセッティ・ギャラリーをオープン。自分の所有するロセッティ作品を販売したという。

絵画と同じくらい評価されたロセッティの詩

絵画制作と同等か、ときにはそれ以上にロセッティが熱中したのが詩作だった。若いころから古代イタリア詩の翻訳を行い、ダンテを愛し、英詩ではアルフレッド・テニスンやウィリアム・ブレイク、ジョン・キーツなどのロマン派の作品に傾倒した。

下記に紹介するのは情熱的に恋愛を賛美した1881年出版の詩集、「命の家」(House of Life)からの1篇。ジェーン・モリスとの体の関係を詠ったソネットといわれている。道徳観念の厳しかったヴィクトリア時代、この詩集は当時の批評家からその官能性を攻撃されたという。

Youth's Spring-Tribute

On this sweet bank your head thrice sweet and dear
I lay, and spread your hair on either side,
And see the newborn woodflowers bashful-eyed
Look through the golden tresses here and there.
On these debateable borders of the year
Spring's foot half falters; scarce she yet may know
The leafless blackthorn-blossom from the snow; And through her bowers the wind's way still is clear.

But April's sun strikes down the glades to-day; So shut your eyes upturned, and feel my kiss Creep, as the Spring now thrills through every spray,
Up your warm throat to your warm lips: for this
Is even the hour of Love's sworn suitservice,
With whom cold hearts are counted castaway.

和訳

春の みつぎ

草うるはしき岸の うへ に、いと うる はしき君が おも
われは よこた へ、その髪を二つにわけてひろぐれば、
うら若草のはつ花も、はな じろ みてや、 黄金 こがね なす
みぐしの ひま のこゝかしこ、 面映 おもはゆ げにも のぞ くらむ。
去年 こぞ とやいはむ今年とや年の さかひ もみえわかぬ
けふのこの日や「春」の足、 なかば たゆたひ、 小李 こすもも
葉もなき花の 白妙 しろたへ は雪間がくれに まど はしく、
「春」住む庭の 四阿屋 あづまや に風の 通路 かよひぢ ひらけたり。

されど 卯月 うづき の日の光、けふぞ谷間に照りわたる。
仰ぎて まなこ 閉ぢ給へ、いざくちづけむ君が おも
水枝 みづえ 小枝 こえだ にみちわたる
「春」をまなびて、わが恋よ、
温かき のど 、熱き口、ふれさせたまへ、けふこそは、
ちぎり もかたきみやづかへ、恋の日なれや。冷かに
つめたき人は 永久 とこしへ のやらはれ人と おと し憎まむ。

(訳: 上田敏 訳詩集「海潮音」より 青空文庫)

妻の墓を暴いたロセッティ

妻のシダルがロセッティの不義理に苦しみながら死んだとき、心から後悔したロセッティは、自分の未発表の詩稿の束をシダルの亡骸と一緒にロンドン北部のハイゲート墓地に埋葬した。その詩はロセッティが亡き妻への思いを込めたものだった。しかしその7年後、詩人としてのロセッティのエゴが頭をもたげた。棺に納めた詩稿が素晴らしい出来だったという考えを振り払うことができないロセッティは、美術商の友人チャールズ・オーガスタス・ハウエルに依頼し、シダルの墓を開けて詩稿を回収してもらう。

ロセッティは手元に戻った詩稿に、新たに数編を加えて改めて出版。皮肉にも、この詩集「Poems」はロセッティの詩人としての人生で最高の評価を得た。しかし妻の墓を暴いたという事実は、その後のロセッティを終始苦しめ、破滅的な晩年へと追いやることになった。また、ロセッティは罪悪感から、自分が死んだら妻と同じ墓には埋葬しないよう遺言を残した。そのため、ロセッティの墓は、ロセッティ一家とシダルの眠る墓地ではなく、療養先だった英南東部の海辺の町、バーチントン・オン・シーのオール・セインツ教会にある。

ハイゲート墓地に眠るロセッティ一家(写真中央左、1番大きいもの)。ロセッティの両親、弟妹と共にシダルも埋葬されているハイゲート墓地に眠るロセッティ一家(写真中央左、1番大きいもの)。ロセッティの両親、弟妹と共にシダルも埋葬されている

EXHIBITION

The Rossettis

芸術、愛、人生に対するアプローチが「革命的」と称される、ダンテ・ガブリエル・ロセッティを、詩、絵画、写真、デザインなどジャンルを超えた多角的な方面から検証する。

4月6日(木)~9月24日(日)
10:00-18:00
£22
Tate Britain
Millbank, London SW1P 4RG
Tel: 020 7887 8888
Pimlico駅
www.tate.org.uk

 

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*本文および情報欄の情報は、掲載当時の情報です。

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