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Tue, 26 November 2024

国会議事堂の前に座り込み7年 ブライアン・ホー氏にインタビュー

ロンドン随一の観光名所である国会議事堂の前で、7年にわたり座り込みを行っている反戦運動家がいる。ブライアン・ホー、59歳。黙したままこの議会民主主義を象徴する建物と対峙することに1日の大半を費やし、そして時に抗議者として怒りに満ちた叫び声を上げる男の素顔とは、どのようなものなのか。冷たい雨が降る国会議事堂の前で、彼に話を聞いた。(執筆: 本誌編集部長野雅俊、写真: 前川紀子)

ブライアン・ホー
エセックス州生まれ、59歳。20~40代にかけて、世界各地の紛争地帯を訪問。2001年6月2日より、イラクへの経済制裁に反対して国会議事堂前で座り込みを始める。同年9月11日にニューヨークで発生した同時多発テロを受けて、米英を中心とする多国籍軍がアフガニスタン、イラクに侵攻を開始するにつれ、英国における反戦運動の象徴的な存在となった

ブライアン・ホー

帰還兵のような佇まい

その日、ブライアン・ホー氏は松葉杖をついていた。

東側に国会議事堂、南側にウエストミンスター寺院を臨むパーラメント・スクエアの一辺に、反戦メッセージが貼り付けられた薄汚れたテントが並べられている。指定された時間にこのテントの前で待っていると、ウエストミンスター駅の方角から、口にタバコをくわえたホー氏が少しずつ歩を進めながらやってきた。聞けば、デモの最中に警官に倒されて足を痛めてしまったのだという。小雨がぱらつく中、ヘルメット型の帽子を深くかぶり、松葉杖に支えられながら歩く姿は、深い傷を負いながらもジャングルの奥地から生還してきた、帰還兵のように映った。

どうやら、つい先ほどまでトイレに行っていたらしい。パーラメント・スクエアには下水施設がないので、用を足したいと思えば、駅の公衆トイレまで出掛けなければならない。ちなみに、公共トイレが閉まっている時間はどうするか、という点については「トップ・シークレット」となっているようだ。

取材のために用意した録音機のスイッチを入れる と、のっけからものすごい剣幕で話し始めた。「かつて大英帝国は世界の半分を支配していた。つまり、世界各国の人々を奴隷扱いしていたってことだ。一体、何様だって言うんだ。傲慢なのは、米国も一緒。ニューヨークで2001年に起きた同時多発テロの被害をことさら強調する輩がいるけど、だったら1973年の9月11日のことを、あいつらは覚えているのか。その日に米国のヘンリー・キッシンジャー国務長官が、チリの指導者であるサルバドール・アジェンデを殺したんだよ。あとあのテロの廃墟のことを『グラウンド・ゼロ』って呼ぶらしいけど、ふざけんじゃない。『グラウンド・ゼロ』って、元々は奴らが日本に投下した原爆の爆心地を指す言葉だろう。原爆が落とされた直後の広島・長崎を写した写真と、ニューヨークの世界貿易センターの跡地を比べてみたらいい。広島、長崎は街全部が燃えてなくなってしまったんだ。比較になんか、ならないじゃないか」。

一度話し出したら、なかなか止まらない。インタビューは既に、彼の独演会のような様相を呈してきていた。

警察・司法との終わりなき戦い

ホー氏は現在、59歳。日本でいえば、あと1年でめでたく定年を迎え、還暦のお祝いにもらった赤いちゃんちゃんこを着て、照れながら記念写真の撮影に応じるような年齢である。

その彼が、日中はかなり交通量の多い道路の反対側、つまり国会議事堂の前から目を光らせている複数の警察官を指差して言う。「市民を守るのが警察の本来の役割だろう。でも奴らは、『2005年重大組織犯罪及び警察法』とやらをお題目に掲げて、一般市民には何の危害も与えていない俺ばかり監視しているんだ。そして法的根拠も示さず、俺のテントを破壊する。奴らの行為こそ『重大組織犯罪』じゃないか」。

国会議事堂前に座り込みを始めたのが2001年6月のことだから、彼の路上生活は今年で7年目を超えたことになる。そしてこの7年間は、彼の抗議活動の取り締まりを図る体制側との間で繰り広げられた戦いの歴史でもあった。

2002年10月、舗道上の通行を妨げているとして、ウエストミンスター・カウンシルがテントの撤去を求める裁判を起こしたが、高等裁判所はホー氏がパーラメント・スクエアで言論の自由を行使する権利があるとの見解を示し、この訴えを認めなかった。2005年には、テロ活動の取り締まりとの名目で、事前の承諾なしに国会議事堂と軍基地の周辺1キロ以内で抗議活動を行うことを禁ずる「重大組織 犯罪及び警察法」が国会で成立。しかしホー氏はこの法律の施行以前から同敷地内に住んでいたため、事後に定めた罰則によって処罰することを禁ずる「法の不遡及(ふそきゅう)の原則」が適用され、彼が国会議事堂前で引き続き抗議活動を行うことを認める判断を高等裁判所が下した。そしてこの判決は、ホー氏が世界で唯一、事前に許可を得ることなくこの場所にテントを張ることのできる人間となったことを意味していた。だから宛名に「Parliament Square」と書いて手紙を送ると、ホー氏に届く、という冗談のような話が現実に起きている。

ところが2006年5月になって、今度は内務省がこの決定を不服として控訴審に訴えた結果、判決は覆った。そこでホー氏は法律が求める通り、国会議事堂前での抗議活動の許可を申請したところ、これに対して警察は抗議活動の範囲を3メートル以内に収めるのならば良い、という条件を出す。テントを設営するにしても、約1.5畳分の広さしか認めないというのだ。ホー氏はこの条件に従わず、その正当性をめぐって法廷で徹底的に争う構えを見せたが、2週間後には78人の警察官がやってきて、テントやプラカードを没収してしまった。

ブライアン・ホー
雨が強くなってくると、傘を差し出してくれた

長年の戦いの末に勝ち得た場所

しかし、ホー氏の抗議活動は、そこで終わらない。彼は支援者の声に支えられながら、尚もこの地に留まった。さらには、警察が突きつけた「3メートル以内」などの諸条件の根拠が不明確であるとして、2007年に裁判所がこれらを無効とする判断を下す。つまりパーラメント・スクエアは、警察と司法を相手に、ホー氏が血みどろになって戦い抜いた末に勝ち得た場所なのである。彼は現在でも、主にその抗議活動の是非をめぐる相当数の裁判を抱えている。また「安全確認」に来た警察にテント内を荒らされることも日常茶飯事。今年1月に行われたデモでも逮捕されている。

ホー氏が戦う相手は、いわゆる体制側の人間に限らない。深夜、酔っ払いに絡まれることもしばしば。英兵に襲撃されたり、米国大使館の館員に鼻を折られたこともある(安全確認と称して彼のテントを荒らしてばかりの警察は、こうした肝心なときに全く頼りにならないのだという)。

もちろん、そんなことでくじけるホー氏ではない。車内から「社会の寄生虫」と野次を飛ばしたトラック運転手を停め、運転席から引き摺り下ろして、「臆病者!真実から目を逸らすな」と叫びながら、テント前に展示している、戦争で負傷した子どもたちの写真と向き合うよう訴える。大手テレビ局のチャンネル4が主催したイベントで、「The Most Inspiring Political Figure」として表彰されたときは、受賞スピーチで「お前たち、こんな賞を俺にくれてしまって、一生後悔するぞ!」とマイクに向かって叫んだ。

そうやって7年間、ひたすら戦い続けてきたのだ。

プラカードや写真
テントの並びの中央には、反戦メッセージや戦地の惨状を
写した写真が貼り付けられたプラカードが置かれている

筋金入りの運動家

インタビューが始まってから1時間ほど過ぎると、雨足がだいぶ強くなってきた。雨に濡れることなど、もう慣れっこになっているのだろう。気付けば、隣ではホー氏が傘も差さずに軍歌を歌い出している。

支配を! ブリタニアよ
大海原を治めよ!
ブリトンの民は 断じて 断じて 断じて
奴隷とはならじ!

英国を象徴する女神が世界を支配していく様子を謳った愛国歌「ルール・ブリタニア」を一節歌い終わった後で、「ふざけるな!」と叫んだ。「聴いたか?今の歌。大英帝国はこんなに傲慢なんだ。植民地の奴隷を散々こき使っておいて、自分たちだけ『断じて奴隷とはならじ』だと?英国人の子どもと、外国で生まれた子どもの違いは一体何だ!」。

こちらが一つ質問すると、優に数十分は話し続けてくれる。エネルギーをほとばしらせながら、抑揚をつけて話すから、聞いている方は飽きない。叫んだり、優しく語り掛けたり、そして歌ったり。まるで1人芝居を鑑賞している気分になるのだが、話している方は大変なのではないかと余計な心配をしてしまう。

一体、彼をそこまで突き動かすものは何だろう。こちらの問い掛けに、ホー氏は「子どもたちの命を救うため」だと極限まで短くなったタバコをくわえながら言った。「外で暮らして寒くないかって?そりゃ寒いよ。俺は生身の人間だからね。でも、パキスタンの山で冬服もなく、シェルターにも入れない難民の子どもたちに比べれば、大したことはない。夏は暑いかって?そりゃ暑いよ。日中はずっと陽射しに照らされるか、空気の通りの悪いテントの中で生活しているんだから。でもイラクで水のない暮らしをしている子どものことを思えば、俺なんかが泣き言を口にできるかい?」。

日々の暮らしは、彼の運動の支援者や通りすがりの人々からのささやかな寄付のみで食いつないでいるという。どこの国にも反戦運動家はいるのだろうが、集会が行われたときだけ気炎を吐いたり、ドクター・ストップがかけられることを想定してハンガー・ストライキに臨む中途半端な運動家とは、覚悟の深さに雲泥の差を感じる。

抗議の手段としては、非効率なのかもしれない。反戦活動なんて時代遅れ、とする見方もあるだろう。それでも、彼の行動はイデオロギーを超えて人々の心をつかむだけの魅力を持っている。だから、元労働党議員のトニー・ベンやコメディアンのマーク・トーマスといった各界の著名人たちが、彼の運動を全面的に支持しているのだ。

その魅力は、騎士道物語の読み過ぎで自らを伝説の騎士と思い込んでしまう男を描いた17世紀の文学「ドン・キホーテ」の物語が持つものに何だか似ている。老体に鞭打って体制側に1人で立ち向かっていく様子は、風車に向かって突撃するあの主人公のようではないか。

バニーさんのバッジとコーヒーを入れるホー氏
左)この日テントの見張りを手伝っていた通称バニーさんが着ていた
コートの襟には、ホー氏の活動への賛意を示すバッジが
右)防水シートに覆われたスペースに置いてある
ガスコンロで湯を沸かし、コーヒーを飲む

ウエストミンスターでのある出来事

なぜ彼は、国会議事堂を戦いの場に選んだのか。

クリスチャンである彼の答えは「神に導かれたから」であった。

2001年6月2日、当時53歳だったホー氏は、議事堂のすぐ近くに位置する名門パブリック・スクール、ウエストミンスター・スクールの生徒と話を交わしていた。子ども好きな彼は、昔からよくこうして、登下校中の生徒たちに語り掛けていたという。「国会議事堂にいる政治家の子どもたちが通う学校」では学べない、大切な何かを対話を通して伝えたかったのかもしれない。

だがある日、同校に通う生徒の1人が彼に向けて発した一言に、ホー氏はひどくうろたえることになる。「ギャビン・チャップリンという名前の男の子が、おじさんのことを『狂ったブライアン』って言っているよ」。7年前の出来事にもかかわらず、彼はその少年の名前をはっきりと覚えていた。

ショックを引きずったまま、彼はパーラメント・スクエアまで歩いていく。そこで「天にいる人はすべてをしっかりと見ている」ことを思い出した彼は、たまたま持っていた3枚のA4用紙に、それぞれメッセージを書いた。

「Stop Killing Kids」「Make Peace Not War」「Let Iraq Infants Live」。

そして座り込みが始まった。気が付けば、午前2時。通り掛かりの、軽く酒に酔った男性が「こんなところで何をしているんだ」と自分に向かって話し掛けている。「よくぞ質問してくれた」と返して路上での議論が始まり、そういったやり取りが日常生活の一部となっていった。

でも、チャップリンとの名を持つ子どもが恐らく大した悪気もなく吐いた言葉が、なぜ国会議事堂前で座り込むきっかけとなったのか、彼の説明を聞いただけでははっきりとしない。彼の言葉では、これも「神様の思し召し」ということになるのだろうが、たぶん、それだけが理由ではない。

テント
毎日の暮らしを営むテントは、国会議事堂の正面に向き合うように設置

戦争と平和、そして家族

ホー氏は、イングランド南東部エセックス州に5人兄弟の長男として生まれた。

父親は、英軍の狙撃兵だった。ナチス・ドイツのベルゲン・ベルゼン収容所に乗り込み、その惨状を目にした最初の英兵の一人だったという。終戦後に賭博場で働き始めたが、店の金を横領するなどのトラブルを犯した後に、ガス自殺でこの世を去った。

父親を亡くしたホー氏は、やがて一家の稼ぎ手となっていく。16歳で造船の仕事に就き、その後は商船の水夫として働いた。そして海の旅を通して、スエズ運河、中東やインドなどといった世界各地での紛争の実態を目にしたり、耳にしたりすることになる。英国に戻り、イングランド中部ノッティンガムにある福音伝道主義系の大学に6カ月間通った後、アイルランド独立闘争で揺れていた北アイルランドへ。そこでギターの流しをしながら、対立する双方のグループと平和的解決に向けての議論を行うなどして毎日を過ごしていた。

エセックスに戻ると、今度は引越しと大工の仕事を請け負うようになる。またこのときに向かい側の家に住んでいるシザーリアンという名の女性と知り合った。しかし彼女と結婚して家庭を持つようになっても、世界の紛争に対する興味は尽きなかったという。1989年になると、戦争報道を得意とするオーストラリア人ジャーナリスト、ジョン・ピルジャーのドキュメンタリー作品に影響を受けて、ポル・ポト政権下のカンボジアに赴くことを決意した。その頃には5人の子どもがいたにも関わらず、である。

「座り込みを始めてから、ピルジャーが俺に会いに来たんだ。そう、憧れのジャーナリストから、今度は俺が取材を受けることになったというわけ。だから言ってやった。あんたにキスして、そしててめえのこと蹴っとばしてやりたいって。だって俺はあんたの映画を観てからすっかり影響されてしまい、家族と離れ離れの生活を送ることになっちゃったじゃないかってね」。

祖国で経験した地元住民との軋轢

その後も、紛争地帯を巡る旅は続いた。ロシア、中国、アフガニスタン、そして東西を隔てる壁が崩壊する瞬間のベルリンにも居合わせた。こうした国々への旅を通じて、「心と目で会話することの大切さ」を学び、「英国人の子どもも、例えばアフガニスタンの子どもも同じだけ尊い」という認識に至ったという。

そして再び、英国に戻ってきた。今度こそ、7人に増えた子どもと共に、イングランド西部ウスターシャーの地で幸せな毎日を過ごすことになっていた。少なくとも、そうなるはずだった。

ホー氏は近所の教会の集まりで、世界各地で発生している紛争の実態を余すことなく伝えようとした。また障害を抱える子どもたちをミニバンに乗せて、郊外へと遊びに連れて行ったりもした。だが地元の人々は、そんな彼の厚意に対して反感と憎しみで応じる。いつしか自宅の窓からレンガが投げ入れられたり、郵便箱に花火を仕掛けられるようになった。ミニバンに至っては粉々になるまで破壊された。被害の様子を検察庁に詳細に報告すると、迷惑行為は一層悪化していったという。皮肉なことに、世界中の紛争地帯を駆け巡ってきた彼にとっての最大の悲劇は、こんなにも身近なところに転がっていたのである。

国会議事堂の前に辿り付いたのは、それから間もなくしてのことだ。

反戦メッセージを記したバッジ
年季の入った帽子には、世界中を旅しながら集めた、
反戦メッセージを記したバッジが付けられている

ドン・キホーテの存在意義

ホー氏がもっとも多く聞かれる質問の一つに「いつまで国会議事堂前での抗議活動を続ける予定か」というものがある。戦争が止むまでだとしたら、果たして戦争のない時代というのが、いつになったら到来するのか。

既に過ぎた7年という月日は、そのまま自身の家族と離れて暮らした時間を意味する。つい最近、娘が結婚するという話を耳にした。その娘さんとは会いたくないですか、と聞くと「もちろん会いたいよ」と返すだけで、急に口数が少なくなってしまう。当初は最大限の声援を送ってくれていたという妻についても、あまり話したがらなかった。

実は彼は、その妻との間に生まれた初めての男の子を、生後12時間で亡くしている。地元の障害児の世話をすれば、地域社会を敵に回してしまった。ウエストミンスター・スクールの子どもには、「狂った男」と呼ばれた。

不器用なんだろう。戦争に手を染める大人たちを糾弾するという行為も、詰まるところは、子どもたちへの愛情表現であるはずだ。時に攻撃的に映る彼の性格と、意外なほどに青くきれいな目とのギャップが、そのことを物語っているようだった。

 

ホー氏がどれだけ反戦活動に邁進しても、たぶん、彼が生きている間に戦争がなくなることはないだろう。だとしたら、彼は今、無為な時間を過ごしているだけなのだろうか。

そうではない、と思いたい。日々の生活に忙しく、対岸の火事に思いをきたすにはあまりに怠惰な私たちに、戦争で失われる小さな命について、たとえ一瞬でも思いを馳せる機会を提供している。戦争行為に対してすっかり現実感を失ってしまった人々を、私たちに代わって糾弾してくれている。

取材の終了間際に、いつか戦争のない時代が本当に来ると思いますか、と聞いてみた。すると白い息を吐きながら 「俺は、自分の任務を全うするだけだ。そうだろ?」と問い返してきた。

21世紀のロンドンを生きるドン・キホーテは、今日も国会議事堂の前で、警察官と睨み合い、叫んだり、そして歌ったりしているはずだ。

ブライアン・ホー氏からのメッセージ

今回、インタビューに応えてくれたブライアン・ホー氏が、 英国ニュースダイジェスト読者のために特別にメッセージを寄せてくれました


 

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