W杯開催で新たな注目
英国の旧植民地、南アフリカとは
国際サッカー連盟(FIFA)が主催する、サッカーの世界選手権ワールド・カップが南アフリカ共和国で開催中だ。長年、アパルトヘイト(人種隔離)政策で国が二分されていた南アフリカだが、90年代に隔離政策は終結。アフリカ大陸初のW杯開催を機会に、国際社会へと同国の発展ぶりをアピールしようとしている。
南アフリカとは
公用語 | アフリカーンス語、英語、バンツー諸語(ズールー語、ソト語他)など11言語 | |
首都 | プレトリア | |
最大の都市 | ヨハネスブルグ | |
人口 | 約4900万人 | |
人種構成 | 黒人79%、白人9.6%、カラード(混血)8.9%、アジア系2.5% | |
面積 | 122万平方キロメートル(日本の約3.2倍) | |
宗教 | キリスト教(人口の約80%)、ヒンズー教、イスラム教 | |
通貨 | ランド(Rand)(1ランドは約12円) | |
国内総生産 (GDP) |
2767億ドル(約2兆5400億円、2008年IMF調べ) | |
失業率 | 22.9%(2008年) | |
主な貿易品目 | 輸出 | 金、希金属、鉱物製品、化学製品、食品、繊維製品、ダイヤ |
輸入 | 機械、自動車類、化学製品、科学機器、繊維製品、プラスチック、ゴム |
南アフリカの英雄たち
ジェイコブ・ズマ(南アフリカ共和国大統領)
2009年5月から現職。アフリカ民族会議(ANC)議長。68歳。ズールー人。小学校を中退し、15歳から働く。ANCの活動家となって、1963年、逮捕・投獄された。釈放後、スワジランド、モザンビーク、ザンビアで反政府活動を続ける。暴力による対立を終わらせることに尽力し、ANCの副議長に就任後、副大統領へ。2005年に汚職疑惑で同職を罷免されたが、無罪判決となり、07年よりANCの議長に就任。汚職疑惑、レイプ疑惑(無罪判決)などにも関わらず、大統領の地位に上り詰めた。
ネルソン・マンデラ
反アパルトヘイト運動の闘士ともいえる人物。91歳。南東部トランスカイ共和国(現在は南アフリカの一部)近郊で、テンブ人の首長であった父の下に生まれる。大学在学中にANCに入党し、反アパルトヘイト運動に参加。1952年、ANC副議長に。62年に逮捕され、64年、国家反逆罪で終身刑を宣告される。90年に釈放。91年、ANC議長に就任し、デクラーク政権と協力して、アパルトヘイト政策解消に向けて尽力。93年にノーベル平和賞を受賞。94年に大統領就任、99年政界引退。ユネスコ親善大使。
デズモンド・ムピロ・ツツ
南アフリカにおける聖公会のケープ・タウン名誉大主教であり、平和活動家。78歳。ヨハネスブルグの西クレルクスドルプで生まれる。大学卒業後、教師の職を得たが、神学を学ぶように。1961年に司祭になり、62〜66年、ロンドン大学キングス・カレッジで神学を学ぶ。アパルトヘイト撤廃運動を熱心に行い、後に差別を受けた黒人の人権侵害を調査する「真実和解委員会」の委員長を務めた。様々な人種が国家を形成する「レインボー・ネーション」(虹の国、7色の国)という言葉を広めた人物としても知られる。84年にはノーベル平和賞を受賞。
フレデリック・ウィレム・ デクラーク
ネルソン・マンデラと並ぶ、アパルトヘイト廃止の立役者。74歳。1936年、ヨハネスブルグにて、政治家を父とする家庭に生まれる。72年、国民党から国会議員に。郵政相、内相を歴任後、89年に大統領に。それまでの政治路線を変更し、民主化政策に大きく梶を切った。違法とされていたANC、パン・アフリカニスト会議、共産党などの政治活動を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放。アパルトヘイト関連法を全廃させた。93年にノーベル平和賞を受賞。97年、政界を引退。
南アフリカの主な歴史(中世以降)
1480年代 | ポルトガル人航海士バルトロメウ・ディアスが、同国南部の岬、喜望峰に到達 |
1652年 | オランダ東インド会社がケープ植民地を設立する。以降、オランダ移民が増える |
1795年 | 英国がオランダからケープ植民地を奪う。1803年にオランダに戻されたが、1814年には正式に英領に。英語が公用語化される |
1879年 | ズールー戦争が勃発(英国対ズールー王国) |
1880年 | 第1次アングロ=ボーア戦争 (英国対トランスバール共和国*) |
1899年 | 第2次アングロ=ボーア戦争(英国対オレンジ自由国**、トランスバール共和国) |
1910年 | 南アフリカ連邦が設立 |
1911年 | 最初の人種差別法(鉱山・労働法)が成立 |
1936年 | 選挙人名簿から黒人有権者を除外する、原住民代表法が制定される |
1948年 | 国民党政権がアパルトヘイト政策を進める |
1949年 | 異人種間の結婚が禁止に |
1950年 | すべての人種を肌の色で分けて登録する、人民登録法が制定される |
1960年 | 黒人に身分証の携帯を義務付けた法への反対者が殺害された、シャープビル虐殺事件が発生 |
1961年 | 英連邦から脱退し、共和制へ。南アフリカ共和国が設立 |
1962年 | 国連が、南アフリカの人種差別政策を監視する特別委員会を設置。ネルソン・マンデラ氏に、密出入国と煽動の罪で5年の懲役刑が下される |
1970〜80年代 | 反アパルトヘイト運動が国内外で高まる |
1990年 | デクラーク大統領がマンデラを釈放 |
1991年 | アパルトヘイト関連法が廃止に |
1994年4月 | 初の全人種参加型となる総選挙を実施 |
1994年5月 | マンデラ政権が成立 |
1995年11月 | 全人種参加の地方選挙を実施 |
1997年2月 | 新憲法が発布される |
1999年6月 | 総選挙が実施され、ムベキ大統領が就任 |
2004年4月 | 総選挙を経て、ムベキ大統領が再任 |
2008年9月 | ムベキ大統領が辞任。代わって、モトランテ大統領が就任する |
2009年4月 | 総選挙を実施 |
2009年5月 | ズマ大統領が就任 |
2010年6〜7月 | W杯が開催される |
(注:*、**ともにオランダ系白人のボーア人たちが作った国)
英国の旧植民地としての歴史
19世紀から英領の一部となり、1961年までは英連邦の一部であった南アフリカ共和国と、英国とのつながりは深い。だが、一時は南アフリカの代名詞となっていた「アパルトヘイト(関連キーワード参照)」に象徴される白人対非白人の対立が生まれたのは、そもそも17世紀にオランダがケープ植民地を設立したことに端を発する。以後、オランダから白人移民が流入。その後オランダとの統治権をめぐる戦いを英国が制すると、今度は英国からの移民が増加した。やがて、オランダ系移民を中心とするボーア人(またはアフリカーナー)たちと英国との戦い(ズールー戦争、第1次、2次ボーア戦争)において、英国が勝利を収める。そして、英自治領南アフリカ連邦が発足した。
その後、人口比では少数派の白人住民が圧倒的多数派の黒人住民を支配するという社会形態が定着する。アフリカーナー政党の国民党が48年以降に政権を取得し、差別の制度化が進んだ。公共施設は白人と白人以外の使用が区別され、人種ごとに住む地域が分けられた。人種の違う異性同士が、恋愛関係を結んだ際の罰則を示した法律もあったという。
しかし、80年代以降、アパルトヘイト政策は内外の大非難を浴びるようになり、他国から貿易禁止などの形で経済制裁も受けるようになった。大きな転換期となったのは、91年にデクラーク大統領が差別撤廃を打ち出してから。この後、反アパルトヘイト運動の闘士で獄中にいたネルソン・マンデラ氏が釈放された。94年には全人種参加による初めての総選挙が行われ、初代大統領にそのマンデラ氏が着任した。
アパルトヘイト廃止後の南アフリカ
しかし、これで一件落着となったわけではない。確かに、南アフリカにおける一人当たりのGDPは約1万ドル(2008年)で、アフリカ大陸の国の中では7番目に大きな経済へと成長した。しかし、有色人種と白人の間にはいまだ大きな収入差があり、40%強の住民が1日2ドル相当の収入で暮らしているというのが現状だ(「エコノミスト」調べ)。また世界におけるプラチナの備蓄量の90%、マンガンの80%、クロムの70%を国内に抱え、豊富な鉱山資源を持つ恵まれた国であると同時に、犯罪発生率の高さ、エイズ感染者数の多さではいずれも世界で最高という不名誉な記録も目立つ。そうした両極端の側面を持つのが、南アフリカという国なのだ。
W杯は南アフリカを変えるのか
1994年以前までは、農地の87%を白人住民が所有していた。政府は今後5年以内に、その30%を黒人住民に分け与える政策の実施を予定している。現在までに明け渡されたのはまだわずか6%ほどだが、白人住民からすれば、自分たちの持ち場がどんどん奪われてゆく思いがするような状況だ。
去る4月には、白人至上主義団体の指導者が殺害される事件が起きた。同氏はアパルトヘイト維持を提唱する団体「アフリカーナー抵抗運動」(AWB)の創設者であった。こうした事件は、人種差別の傷跡の深さを思い起こさせる。W杯開催によって、本当に南アフリカの国際的地位を上げることができるのか、未知数な部分も少なくないというのが現実的な見方となるだろう。
Apartheid
アパルトヘイト。アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する。南アフリカ共和国で白人(全人口の約10%)が非白人(黒人、アジア系住民、カラードと呼ばれる混血民)との諸関係を差別的に規定した人種隔離政策。非白人の参政権のはく奪に関する法、白人の入植・定着を助ける土地関係法、白人地域でのアフリカ人の移動・居住を制限する法、職場で白人を保護する労働関係法、人種別教育に関する法、非白人の反対運動を取り締まる治安関係法などがある。これらの政策がすべて解消された1993年まで、南アフリカでは国家的な人種差別が続いた。(小林恭子)
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