この言葉は、一見すると詩やオックスフォードを讃えたようにも見えるが、ある意味では、ロンドンをきちんと性格づけた見事な分析眼を有した名言だといえる。17世紀というかなりの昔から、ロンドンがビジネスの都であったことを如実に示す好例でもある。
ドライドンは、詩人、劇作家であると同時に、保守党の政治家でもあったが、「保守」が資本家の権益擁護とビジネス優先ではなかった時代の、守るべきものが何かをきちんと知っていた人物であった。アートすらも商売の具にしてしまうロンドンの、よろず算盤勘定がしきる虚栄の市を遁(のが)れて、学問の府・オックスフォードに向かえば、そこには、俗気を離れた詩精神が薫るサンクチュアリ(聖域)が、永遠の輝きを放っているというわけである。
どの国にも、政治や商業の中心地は存在する。だが、その対極にサンクチュアリと呼べる場所を持ち得る国、民族はそうざらにあるとは思えない。無論、大学が都会の喧騒から遠く離れて、田園に独立した町を構えるように建つという事情もあるだろう。ロンドンを中心とする金がすべての世の習いも、この学問の府に通う颯々とした清風を歪めることはできない。日本にも大学はいくつもあるが、このように周囲周辺の理屈や習いから独立して精神のサンクチュアリたり得ているところが、ひとつとしてあるだろうか。或いは、そのような聖域を構えるというような意識が、国民や社会のなかに涵養(かんよう)されているだろうか。
サンクチュアリは、大学の町にのみ存在するのではない。そこに生まれる「poetry」もまた、日常生活の惰性を脱した「サンクチュアリ」なのである。「詩」とそのまま訳すよりも、「詩精神」とすべきかもしれない。詩を解する心、風流心のようなものだが、実際に詩句をひねり出すこと以上に、生き方に関わることのように感ずる。自然の情趣や人情を解し、生命を敬い、金銭を超えて聖なるものの価値を尊ぶ……。そこには、凛乎として彫りの深い個々の人間らしさも醸し出されてくるだろう。
21世紀の今なお、オックスフォードにはそのような詩精神の何がしかを感じる。日本の大学は、このところめっきり、ビジネススクールのようになってしまった。私は、どれほど忙しい世の中になろうと、社会のなかにサンクチュアリの存在を認め、大事にする、このイギリスという国の厚みを羨ましく思う。ドライデンの言は、たとえ直接には財布を豊かにする利益に結びつかなくとも、人類が失ってはならないものがあることを、時代を超えて訴えているに違いないのである。
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