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日経電子版Pro
Sat, 17 April 2021

第71回 ヤマナカ・ファクターの衝撃と波紋

ヤマナカ・ファクターとは

英国ではあまり報道されていないが、京都大学の山中伸弥教授が昨年11月に「Cell」誌などで発表した研究は、医学界はもとより、バイオ業界、政府ひいては投資家に大きな衝撃と波紋を呼んでいる。筆者なりに理解した概要は次の通りである。人間を含め動物の細胞の中には、万能細胞というものがある。人間の例で言えば、細胞には脳細胞や皮膚の細胞もあれば、内臓の細胞や血液細胞もある。しかし、もともとはすべて1つの受精卵から分裂し、器官ごとの細胞に機能分化したものである。そして先に述べた万能細胞とは、これからどのような器官にでも成長し得る細胞のことをいう。山中教授は、人間の皮膚など適当な細胞を摂取し、それに4つ(最近の論文では3つ)の特定の遺伝子を注入すれば、どんな細胞もこの万能細胞になることを証明した。

万能細胞は、人間の臓器や血液、皮膚などの再生医療に進歩をもたらす画期的な技術として、従来から米韓を先進国として熾烈な研究競争が続けられてきた分野だ(一昨年、韓国の教授が実験結果を捏造したことが発覚した事件を思い出されたい)。これまでは、受精卵から一種の万能細胞(「ES細胞」という)を取り出す技術が研究されてきた。ただこれは技術的に難しいし、キリスト教倫理との関係で米国では根強い保守層からの反発がある。だが山中教授の方法が実現できれば、他人の受精卵からでなく、患者自身の皮膚から細胞を取り、それに一定の遺伝子(ヤマナカ・ファクター)を加えることで万能細胞を手に入れることが出来る。この形であれば倫理的な罪悪感は小さなものとなるし、自分の細胞なので免疫不全が起きる可能性は少なくなるだろう。これまであきらめられてきた多くの命が救われることになるかもしれない。


論文の衝撃

医者として働く友人の話によれば、山中教授のノーベル賞は当確と言われている。米国の医学会での最近の話題は、ヤマナカ・ファクター一色となっているそうだ。また同国の科学者までもがこのニュースに強い関心を持っている。学会では、まずブッシュ大統領の悪口を言い合うのがはやりだという。イラク戦争など軍事費増大のあおりで研究費が削られ、欧州に追いつかれているという強い危機感を彼らは持っている。

山中教授が発表した成果は万能細胞が作れるというところまでで、それを治療に生かせるのかどうかはまだよく分からないそうだ。それでも来年度からはネズミを使っての治療実験が始まるし、気の早い米国のベンチャーは、自宅で個人が万能細胞を作れるようなキットを商品化する研究を始めたという。米国政府も、万能細胞については相当な金を注ぎ込んでくるとみられる。日本政府も5年で100億円かけて京大に研究拠点を作る予算案を国会に提出している。

ロンドンに集中しているバイオ関係ベンチャーと投資家もこぞって、この研究に一枚噛みたいと考え始めた模様だ。というのも今までのES細胞を中心とする研究は、無意味化する可能性が高くなってきたからである。今の金融市場では、サブプライム問題で一部の金融機関やファンドは資金不足に陥っているが、金融が緩和された環境であることには変わりはない。いわば金の行き場を探している状態だ。だから、将来性のある一部ベンチャーやファンドに資金が殺到する構図がある。余談になるが、金融では小さな変化に大きく投資して、それが大きな変化になるという形に妙味がある。例えば、今度ゴールドマン・サックスが投資するという、日本人の浅井氏が創設者の1人であるヘッジファンド「キャピュラ」も、日本国債のイールドカーブ(長期短期の金利を期間毎にグラフにしたもの)の極僅かな形状変化に大きくかける投資スタイルで、当初はいわばニッチの勝者であったものが市場全体に影響力を与えるようになってきている。万能細胞を利用したバイオ・ベンチャーが、ベンチャー投資の主戦場になることは必至だ。


それでも残る問題

ただ物事には光と影がある。自分の細胞とはいえ、遺伝子操作が行われるのだ。しかも手軽に。また自らの細胞が再生出来るとなると、ES細胞ほどではないが悪用、誤用の危険に加えて、寿命が一段と伸びていいのか、やはり神の領域ではないのかという問題は残る。特定の器官のみが若返ったらどのような人になるのか。医学、技術、金融の論理ばかり先行しても問題解決にならず、倫理、法律、宗教も参画が必要だ。日本人が世界をリードしようと思うなら、クローン牛を作った英国の例も参考に、技術や金のみでない深みある対応こそ今後不可欠と思う。

(2008年2月12日脱稿)

 
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Mr. City:金融界で活躍する経済スペシャリスト。各国ビジネスマンとの交流を通して、世界の今を読み解く。
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