第54回 洗浄のシャワーか、癒しの入浴か
リバプール・ストリート駅近く、聖ボトルフ教会の南西にイスラム様式の建物があります。ここはかつて「ハンマーム」と呼ばれるトルコ式公衆浴場でした。1880年代に公衆浴場として開業、現在の建物は1895年に建て替えられたものです(今は廃店)。紳士専用の浴場で、地下には豪華なタイル壁と荘厳な大理石に囲まれた蒸し風呂や熱風風呂、シャワー室などがあったそうです。
シティにあったトルコ式公衆浴場の建物
約2000年前のシティはローマの植民地でしたので、ローマ人の好きな公衆浴場が複数あり、共同浴を楽しむ文化がありました。ところがローマ人が祖国に帰った5世紀前半以降、キリスト教が広まり、他人に裸を見せる公衆浴場が風紀を乱す場所として忌み嫌われるようになります。中世ではペスト菌が蒸気となって身体に入り込むという迷信が信じられ、庶民が入浴する習慣はなくなりました。また、水が豊かでないお国柄、浴槽の利用は一部の貴族に限られました。
聖パンクラス公衆浴場(1846年)、今は市民プールに
1767年、シティのラドゲート・ヒルで鍛冶屋を営んでいたウィリアム・フィーサムが近代的シャワーを発明します。頭上に大きな水槽を据え、鎖を引くと溜めていた水が流れ落ちる方式ですが、1822年にはポンプ式のお湯のシャワーに改良して特許を取得。19世紀後半になると効率的に身体を洗浄できる装置ということで、軍隊や監獄施設で導入されました。やがてボイラーや下水道が装備されると、一般家庭にもシャワーが普及します。
シティに残るローマ浴場の遺跡
19世紀といえば、英国では都市の人口過密と貧困層の衛生問題が顕在化した時代です。貧困層に犯罪が多いのは不潔が原因で、彼らを清潔に保つよう公的に支援すべきである、という世論が強まり、1846年、公衆浴場と洗濯場の設立を支援する法律ができました。シティ北部のセント・パンクラスや東部のオールドゲートに廉価で利用できる公営の入浴施設・洗濯場が作られます。ただ、公衆浴場といっても共同の浴槽はなく、浴槽を備えた個室が並びました。
オールドゲート公衆洗濯場(1846年)は看板だけ残る
20世紀初頭には200を超える浴場が完成。当時、英国に留学中の夏目漱石も利用しましたが、赤字のために順次閉鎖されてしまいます。冒頭に戻ってトルコ式公衆浴場を導入した背景には、弱体化したオスマン帝国に進出を図った西欧列強国を牽制するため、彼らを支援する政治的な意図がありました。でもどんな目的で公衆浴場を導入しても、癒しや蘇りを求める入浴文化がなければ、洗浄目的のシャワーで洗い流されてしまうようです。