第231回 ランズダウン・クラブ訪問記
1902年1月30日、ランズダウン外相と林董駐英公使が日英同盟を締結した場所が、ランズダウン邸です。当時はロンドン西部のバークリー・スクエアの南側にありました。1931年以降の改築で庭の部分に新たにランズダウン・ハウスが建ちました。オリジナルの邸宅部分はやや南西のフィッツモーリス・プレイス側に残され、今は会員制クラブになっています。日英同盟に所縁のある場所を訪ねてみようと、先日その周辺を散策しました。
19世紀初頭からあるランズダウン邸
会員制のランズダウン・クラブに到着し、ブルー・プラークを見つけて写真撮影を始めたところ、中から盛装した老人が出てきました。「反対側にもプラークがあるよ」と指差した方にはデパート大手セリフリッジの創業者、ハリー・ゴードン・セルフリッジが住んでいたことを示すプラークがありました。「米国の名門アスター家の初代アスター子爵や小ピット首相もここに住んでいたんだよ」と老人が説明を続けます。すごいなぁ、と感服。
会員制のランズダウン・クラブ
老人から「どこの国から来たんだい?」と聞かれました。日本から来て、日英同盟の話に触れると「中へお入りなさい」と手招き。散歩用の平服だしスニーカーも汚れているのでためらっていると、老人は「いいから入って来なさい」と招き寄せます。中に入ると「この建物は1763年に有名建築家のロバート・アダムが設計し、この部屋がアダム・ルーム、こちらのオヴァル・ルームで日英同盟が結ばれ……」とガイドが続きました。
アダム・ルーム(写真左)とオヴァル・ルーム(同右)
「あれを見なさい」と手を向けた方向にガラス・ケースがあり、その中に五つの刻印が押された文書が展示されていました。それは英国が米国独立を承認した1783年のパリ条約の準備条約書のコピーでした。文書にJ・アダムス米国副大統領、J・ジェイ連邦最高裁長官、B・フランクリン外交官と英国全権大臣の署名がありました。パリ条約前年の1782年にこの準備条約がW・ペティ英首相(後の初代ランズダウン侯爵)と米国使節団により締結されたそうです。まさに日英同盟締結の場所と同じオヴァル・ルームです。
米国独立を承認したパリ条約の準備条約書
今はそのオヴァル・ルームがランズダウン・クラブのラウンド・バーになっています。米国の誕生地であり、日英同盟締結の場所でもあったとは、さぞお酒の酔いも回ることでしょう。米国独立承認の準備条約から120年後に日英同盟締結、さらにその120年後に自分が同じ場所にいるなんて。大変貴重な体験をさせてくれた正体不明のご老人(侯爵のご家族?)に深く感謝しています。
準備条約締結後、英国使節団がポーズを拒否したため未完成になった絵画「パリ条約」
寅七さんの動画チャンネル「ちょい深ロンドン」もお見逃しなく。