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Thu, 03 October 2024

英国へ渡った幕末留学生たち 長州ファイブと薩摩スチューデント

ロンドン大学の一校である名門ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)の中庭には、日本人24名の名前が刻まれた記念碑があります。今から150年前の幕末、長州藩から5名、続いて薩摩藩から19名の若き志士たちが英国へ渡り、UCLで学んだことを讃えて建てられたものです。
今回は、海外渡航が禁じられていた当時、国禁を犯して渡英し、明治日本の礎を築いた幕末留学生たちの足跡をたどります。(清水 健)
*彼らはいずれも留学時に変名を用いるなどしていたため、記念碑に刻まれた名前で統一しています

黒船 1853年、ペリー提督率いる黒船の来航によって、200年以上にわたって鎖国を続けてきた日本は開国を強いられました。それから10年間、幕府の混乱に乗じて列強各国から不平等条約を押しつけられ、さらなる開港を求める外圧にさらされていた日本では、外国を排斥しようとする攘夷思想が燃え上がります。1862年に薩摩藩の行列を横切った英国人を斬りつけた生麦事件、1863年には長州藩士による英国公使館焼き討ち事件が起こるなど、西欧列強対日本という全面戦争の恐れが高まっていったのです。

長州ファイブ

当時、幕府が締結した不平等条約の破棄と強硬な攘夷を唱える急先鋒が長州藩でした。しかしアヘン戦争以来、強大な清国でさえ列強に蹂躙されていたことから、同藩は攘夷を成功させるには敵である西欧の文明技術を学ばなくてはならないと考え、ヨーロッパへの留学生派遣が検討されます。しかし当時は幕府によって海外渡航が禁じられていたため、それは密航という形を取らざるを得ませんでした。そして長州藩からその内命を受けたのは、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助、そしてわずか半年前には英国公使館焼き討ち事件に加わっていた伊藤博文と井上馨の5名。彼らは1863年5月に横浜を出港し、11月にロンドンに到着します。

この5人の留学生をUCLで迎え入れてくれたのが、アレクサンダー・ウィリアムソン教授でした。彼らは同教授の分析化学の講義を聴講したりするなど、UCLで様々な学問に接します。しかし翌1864年4月、急進的な攘夷派の長州藩に対して列強4カ国が攻撃を準備していると知った5人は、相談して伊藤と井上馨を帰国させることにしました。2人は帰国後、列強と戦うことの無謀さを藩に説得しようとしたものの失敗し、1864年8月の下関戦争で長州藩は惨敗。これによって同藩は、攘夷から開国へと姿勢を転換していきます。

薩摩スチューデント

1863年8月の薩英戦争で敗北した薩摩藩は、講和交渉で英国に留学生を派遣することを提案しました。これには英国側も驚きますが、戦った相手から学ぼうとする姿勢を評価し、薩摩藩と英国は急速に懇親を深めます。薩摩藩はすぐに留学生の選考を始め、4名の視察員と15名の留学生が決定しました。彼らは1865年3月に薩摩を出発し、5月にロンドンに到着。15名の留学生のうち、大学入学年齢に達していなかった長沢鼎のみ中学校へ入学し、そのほかの14名は長州藩の留学生と同じくUCLの聴講生となります。一方、4人の視察員はヨーロッパ各地を回って国情の視察や商談を行いました。

聴講生となった14名はロンドンに着いて間もなく、既に同大学で学んでいた長州藩の3名――山尾、遠藤、井上勝と出会います。ともにウィリアムソン教授の薫陶を受けつつ、勉学の合間にお互い交歓を重ね、さらに山尾が造船を学ぶためにスコットランドのグラスゴーへ赴くときには、薩摩藩の留学生たちが1ポンドずつ出し合って貸し与えたとか。かつて戦火さえ交えていた長州藩と薩摩藩ですが、薩長同盟が結ばれるより前に、遠く離れたロンドンでは、既に藩の枠を超えて日本人という一つの国家の国民としての意識に目覚めていたのです。

18~19世紀のUCL
18~19世紀の画家トーマス・H・シェパードに
よって描かれたUCL

UCLの石碑
24名の留学生の名前が刻まれたUCLの石碑

ガウアー・ストリート103番地のフラット
多くの日本人留学生が暮らした
ガウアー・ストリート103番地のフラット

薩摩スチューデントの銅像「若き薩摩の群像」
鹿児島中央駅近くにある薩摩スチューデントの銅像
「若き薩摩の群像」

「長州ファイブ」と呼ばれた若者たち

長州ファイブ

1.遠藤謹助(えんどうきんすけ)

造幣の父 (1836~1893年、渡英時27歳)
江戸で航海術を学び、藩船壬戌丸に乗り組む。1866年に帰国すると、長州藩主と英海軍提督との会見を実現するなど対外折衝役として活躍。明治新政府に出仕して大阪の造幣寮の建設に携わり、造幣権頭に抜擢される。お雇い英国人の造幣首長トーマス・キンドルと対立して一旦辞職するも、復帰して造幣局長に就任。1893年に退官するまで、日本人技師による洋式新貨幣の製造に尽力した。桜の開花時期に合わせて一般公開される大阪造幣局の「桜の通り抜け」を発案。この風習は現在も継承されている。

2.井上勝(いのうえまさる)

鉄道の父(1843~1910年、渡英時20歳、旧名は野村弥吉)
長崎で兵学を、江戸で砲術を、函館で英国領事館員に英語を学ぶ。1868年に帰国すると長州藩で鉱業管理に従事したが、伊藤に請われて明治新政府に出仕し、1871年に鉄道寮が設けられると鉱山頭兼鉄道頭に就任。鉄道局長、鉄道庁長官を歴任し、1893年に退官するも鉄道一筋は変わらず、1896年には機関車の国産化を目指して汽車製造合資会社を設立。鉄道院顧問として視察中のロンドンにて客死。葬儀には恩師ウィリアムソン教授の夫人も参列した。

3.伊藤博文(いとうひろぶみ)

内閣の父(1841~1909年、渡英時22歳)
少年時代に松下村塾に学び、英国公使館焼き討ち事件に参加するなど尊皇攘夷の志士として活動するが、1863年に渡英してUCLに学ぶ。帰国して倒幕運動を率いたのち、明治新政府で要職を歴任する。大日本帝国憲法の起草・制定にも尽力し、1885年には初代内閣総理大臣に就任、のち第5、7、10代と、4期にわたって総理大臣を務める。日清・日露戦争を経て初代韓国総監に就任、これを辞した直後の1909年にハルビン駅で凶弾に倒れた。

4.井上馨(いのうえかおる)

外交の父 (1836~1915年、渡英時28歳)
藩校明倫館で学んだのち、江戸で蘭学を学ぶ。尊皇攘夷に共鳴して高杉晋作らと英国公使館焼き討ち事件にも参加。渡英して国力の差を目の当たりにしたことで開国論に転じ、下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して講和談判に尽力した。明治新政府では大蔵省で財政に携わるが、尾去沢銅山の汚職事件で辞職。しばらく実業界にあったが、伊藤に請われて官職に復帰し、外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任する。外務大臣として不平等条約改正に努めた。

5.山尾庸三(やまおようぞう)

工学の父(1837~1917年、渡英時26歳)
江戸で航海術を学び、渡英してUCLへ。のちにグラスゴーで造船技術を学ぶ。ネピア造船所の見習工として技術を身に付ける傍ら、アンダーソンズ・カレッジ(現在のストラスクライド大学)の夜学で工学を学んだ。1868年に帰国すると明治新政府で工学卿や法制局の初代長官などを歴任。1871年には東京大学工学部の前身となる工学寮を創設した。ネピア造船所では聾唖の職人が働いていたことから、盲聾学校の設立にも尽力した。

幕府派遣の留学生たち


長州藩や薩摩藩だけでなく、もちろん幕府も西欧列強の知識や技術を学ぶ必要性を感じていました。1862年に、鎖国中も交流を保っていたオランダへ15名の留学生を、1865年にはロシアへ7名の留学生をそれぞれ派遣しています。そして1866年に海外渡航の禁が解かれると、英国へ14名、次いでフランスへ10名の留学生を送り出しました。英国への留学生は幕臣の子弟から募り、選抜試験に合格した12名、及び取締仕官2名を派遣。この中には、東京帝国大学と京都帝国大学の総長を歴任し、理化学研究所の初代所長を務めた菊池大麓(だいろく)、明治の六大教育家の一人として東京女子師範学校の初代校長などを務めた中村正直(まさなお)、1902年に駐英公使として日英同盟に調印する林董(ただす)が含まれていました。彼らは1866年12月に横浜を出発し、翌1867年2月にロンドンに到着しますが、既にUCLには西南雄藩の留学生たちが学んでいたことに驚いたことでしょう。強い使命感にあふれて留学に臨んだ幕府留学生ですが、幕府が倒れたために志半ばにして帰国。1868年8月に横浜に着いたとき、日本は薩摩・長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府側が争う戊辰戦争のさなかだったのです。

UCLとウィリアムソン教授


日本からの留学生たちがUCLに集まったのは、当時イングランドでは1826年創立のUCLだけが、信仰や人種の違いを超えて、すべての学徒に門戸を開いていた大学だったからです。オックスフォードとケンブリッジの両大学は、英国国教徒にしか入学を認めていませんでした。UCLの自由な学風と進取の精神は、日本人留学生たちにも大きな影響を与えます。異国の地で学ぼうとする彼らを迎え入れてくれたアレクサンダー・ウィリアムソン教授は、弱冠39歳にしてロンドン化学協会の会長を務めた気鋭の化学者。同教授は長州ファイブや薩摩スチューデントを含め数多くの日本人留学生の面倒を見るだけでなく、志半ばにして客死した留学生を手厚く葬ってくれたのです。1993年にUCLの中庭に建立された記念碑には、長州藩の5名、薩摩藩の19名の名前が刻まれています。

Alexander Williamson

19人の「薩摩スチューデント」たち

薩摩スチューデント

1.畠山義成(はたけやまよしなり)

初代開成学校長(1842~1876年、渡英時23歳)
UCLで学んだのちに米ラトガース大学へ留学、1873年に訪米した岩倉使節団とともに8年ぶりに帰国する。開成学校(東京大学の前身)初代校長、書籍館(現在の国立国会図書館)初代館長、博物館(東京国立博物館と国立科学博物館の前身)館長を歴任するなど文部行政の担い手であったが、万国博覧会視察のため渡米中に33歳で病死。

2.高見弥一(たかみやいち)

(1831~1896年、渡英時31歳)
19歳で土佐藩を脱藩して薩摩藩に出仕。帰国後は大阪運上所で税関勤務ののち、1872年から鹿児島県立中学校造士館で一数学教師として生涯を全うした。

3.村橋久成(むらはしひさなり)

サッポロビール設立(1840~1892年、渡英時23歳)
帰国して戊辰戦争に従軍したのち、1871年に開拓使として北海道開拓事業の指導にあたり、有志の仲間とサッポロビールの前身となる開拓使麦酒醸造所を設立。しかし1881年に開拓使を辞して雲水となり行方知れずに。1892年に神戸の路傍で行き倒れて死去。

4.東郷愛之進(とうごうあいのしん)

(1840~1868年、渡英時23歳)
英国で海軍機械術を学び帰国するが、戊辰戦争で1868年7月8日に26歳の若さで戦死。

5.名越時成(なごえときなり)

(1845~1912年、渡英時21歳)
帰国して戊辰戦争に従軍したのち、かつて父の名越左源太が流刑にされた奄美大島に暮らした。

6.森有礼(もりありのり)

初代文部大臣(1847~1889年、渡英時18歳)
藩校造士館や江戸の開成所で英学を学び、UCLを経て米ラトガース大学へ留学。一橋大学の前身となる商法講習所を設立した明治の6大教育家の一人で、英語の国語化も提唱。第一次伊藤内閣で初代文部大臣に就任し、教育制度の整備を進めるが、1889年、大日本帝国憲法の発布式典の直前に国粋主義者の凶刃に倒れた。

7.松村淳蔵(まつむらじゅんぞう)

海軍兵学校長(1842~1919年、渡英時23歳、本名は市来勘十郎)
UCL、米ラトガース大学で学んだのち、1873年にアナポリス海軍兵学校を卒業して帰国。1876年に第3代海軍兵学校長に就任し、長崎海軍伝習所時代から範としてきた英海軍の伝統に対し、アナポリス式の方式を導入するなど士官教育を発展させた。

8.中村博愛(なかむらひろなり)

外交官(1843~1902年、渡英時22歳)
UCLを経てフランスへ留学、1868年に帰国し、薩摩開成所のフランス語教授となる。山縣有朋や西郷従道の通訳として欧州視察に同行したのち外交官となり、フランスやロシア、オランダなど欧州各国に派遣され、領事や公使を歴任した。

薩摩スチューデント

9.朝倉盛明(あさくらもりあき)

鉱業近代化(1842~1924年、渡英時23歳、本名は田中静洲)
長崎で蘭学を学び、薩英戦争に従軍。UCLを経てフランスへ留学、1867年に帰国し、薩摩開成所のフランス語教授となる。フランス人鉱山技師の通訳を務めたことを契機に1868年から生野銀山の再開発に尽力し、日本の近代鉱業の発展に寄与した。

10.町田申四郎(まちだしんしろう)

(1847~1910年、渡英時18歳)
町田三兄弟の次弟。帰国すると藩主島津茂久の命により家老小松帯刀の養子となり家督を一旦相続するが、のちに庶子に譲って町田家に戻った。

11.鮫島尚信(さめしまなおのぶ)

外交官(1845~1880年、渡英時20歳)
藩医の家に生まれ、オランダ医学を学ぶために赴いた長崎で英語を習得、薩摩開成所の教師を務めた。1868年に帰国してすぐに明治新政府に出仕。1870年に外務省が設置されると外務大丞、外務大輔(次官)を歴任するが、関税自主権回復交渉のために特命全権公使として派遣されたフランスで病没、享年35。

12.寺島宗則(てらしまむねのり)

自主独立外交(1832~1893年、渡英時33歳、本名は松木弘安)
江戸で蘭学を学び、1862年に幕府の文久遣欧使節に通訳兼医師として同行。2度の渡欧ののち外交官となり、明治政府では外務卿として自主外交確立と不平等条約改正に尽力。速やかな情報伝達のために電信線架設を建議したことから「電気通信の父」とも呼ばれる。

13.吉田清成(よしだきよなり)

外交官(1845~1891年、渡英時20歳)
UCLを経て米ラトガース大学へ留学、1871年に帰国し大蔵省に出仕するが、すぐに岩倉使節団の随員として再び渡米する。英米で外債募集に努め、駐米公使に任命されると関税自主権回復のために尽力した。晩年は元老院議官や枢密顧問官を務めた。

14.町田清蔵(まちだせいぞう)

(1851~1922年、渡英時14歳)
町田三兄弟の末弟。フランスへ渡り普墺戦争を観戦したのち帰国。築地の海軍兵学寮に学び、財部家の養子となる。晩年、留学の思い出を綴った「財部実行回顧談」を残している。

15.町田久成(まちだひさなり)

初代東京国立博物館長(1838~1897年、渡英時27歳)
町田三兄弟の長兄。江戸の昌平坂学問所に就学したのち薩摩藩へ帰郷。大目付となり、薩英戦争に参戦。薩摩スチューデントの総責任者を務め、帰国すると明治新政府で外務大丞、文部大丞を歴任。東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)の初代館長に就任するが、1885年に出家して近江三井寺光浄院の住職となり、1897年に世を去った。

16.長沢鼎(ながさわかなえ)

ワイン王(1852~1934年、渡英時13歳、本名は磯永彦輔)
薩摩スチューデント最年少者の長沢は、渡英時にUCLの入学年齢に達していなかったため、アバディーンの中学校に入学。のちに渡米してキリスト教共同体に入り、教団で経営していたワイン農園で成功。英国に初めて輸入されたカリフォルニア・ワインは、長沢のワインといわれる。

薩摩スチューデント

17.堀孝之(ほりたかゆき)

五代の側近(1844~1911年、渡英時21歳)
長崎オランダ通詞。日本で初めて印刷出版された英和辞典「英和対訳袖珍辞書」を作り、ペリー来航時に通訳を務めた堀達之助の次男。五代の秘書として薩摩スチューデント事業の実務交渉を代理し、五代が実業界に転じると大阪に移り住み、側近として五代の手掛ける事業に関わった。

18.五代友厚(ごだいともあつ)

大阪の父(1836~1885年、渡英時30歳)
長崎海軍伝習所で航海を学び、薩英戦争では寺島とともに英軍の捕虜となる。視察員として欧州各国を訪れたのち、帰国してしばらく官界で働くが、その後、実業界に転じた。凋落しつつあった大阪の経済発展の基礎を整え、大阪株式取引所、大阪商工会議所の設立に尽力、関西財界から「大阪の父」と仰がれている。

19.新納久脩(にいろひさのぶ)

薩摩藩に奉公(1832~1889年、渡英時33歳)
薩摩藩の軍役奉行として兵制改革を行い、薩英戦争で実績を上げて大目付に昇進。薩摩スチューデントの正使(団長)を務め、欧州各国を視察して回った。帰国すると薩摩藩家老として政治に尽力しつつ、五代とともに購入した紡績機を据えつけた近代的な紡績工場を鹿児島に設立した。

参考文献: 犬塚孝明「密航留学生たちの明治維新」NHKブックス(2001年)、門田明「若き薩摩の群像」高城書房(2010年)

 

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