世界中のスクルージたちを改心させた
チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」がかけた魔法
文豪チャールズ・ディケンズが著した名作「クリスマス・キャロル」。170年以上にわたって世界中の読者を魅了し続けてきたこの作品が持つ意義は、単に英国の国民的作家が出したベストセラー書籍であるという点に留まらない。ディケンズはこの作品を通じて当時の社会を変えようとし、また何人もの人々がその呼び掛けに応じた。「クリスマス・キャロル」が残した社会的影響を振り返る。
Sources: Charles Dickens Museum,「Christmas Carol」 by Charles Dieckens,「Dickens」by Peter Ackroyd, The Daily Telegraph, The Guardian ほか
左)チャールズ・ディケンズ
右)1843年に刊行された「クリスマス・キャロル」の初版
「クリスマス・キャロル」
Chirstmas Carol - Charles Dickens
1843年12月19日に発表された、英作家チャールズ・ディケンズによる初の書き下ろし小説。物語の舞台はロンドン。主人公は強欲で意地が悪く、周囲から忌み嫌われている初老の男性スクルージ。彼がクリスマス・イブに3人の幽霊との出会いを通じて改心し、慈悲にあふれた人間へと生まれ変わるまでを描く。同作品は発売直後から大ベストセラーとなり、現在に至るまで何度も映画化または舞台化されている。
かつてクリスマスはクリスマスではなかった
今年も英国のクリスマス・シーズンが始まった。テレビをつければクリスマス・プレゼント用の商品を宣伝するCMが盛んに流れ、各地の大通りではクリスマス・ツリーと芸術的な装飾を施した冬仕様のウインドー・ディスプレーが買い物客を出迎える。英国人たちは帰省する計画を立て始 め、レストランはクリスマス・ディナーの予約受付を開始するころ。今年一年お世話になった人々に贈るクリスマス・カードもそろそろ用意しなければならない。
本来であれば最も忙しなく、そして気が滅入りそうになるほどに日照時間が短い季節だ。それでも英国人たちは、クリスマスに向けて、多少の無理をしてでも家族や友人との絆を確かめ合い、他者に対して温かくそして優しくあろうと努める。恋人同士が高級レストランで食事をする日と化した日本とは事情が異なり、英国のクリスマスにはどこか博愛的な雰囲気が漂う。
だが、私たちが知っているこうしたクリスマスの風景が形作られたのは、チャールズ・ディケンズが生きた19世紀初頭のヴィクトリア時代以降のことだという。それまで労働者階級の人々は家族そろってクリスマス・プディングを食べるといった習慣を古くから続けていた一方で、都市部の中産階級においてはそうした風習が廃れ始めていた。当時、街中でツリーを見かけることはない。カードを贈り合う習慣さえない。詰まるところ、そのころのクリスマスは、現代の私たちが知るクリスマスではなかったのだ。そして、一度は廃れかけたクリスマスを英国に蘇らせた一人が、英国の国民的作家であるチャールズ・ディケンズだった。
ヴィクトリア時代に運営されていた「ラゲッド・スクール(ボロボロの学校の意)」。
ディケンズが訪問したフィールド・レーン貧民学校もその一つだった
社会問題が噴出していた19世紀のロンドン
ディケンズが生きた19世紀の英国は、まだ産業革命を経たばかり。急速な工業化や都市化の影響を受けて、失業者の増加、疫病の流行、スラム街の発生、長時間労働に児童労働といった都市問題が噴出していた時代でもあった。
ディケンズは、そうした一連の社会問題をつぶさに観察していた。父親の借金問題に悩まされた彼自身、12歳で靴墨工場へと働きに出ている。新聞記者時代には、機械打ち 壊し運動や農民による食料暴動といった階級対立に端を発する事件の数々に毎日のように触れていた。専業作家となってからも、イングランド北部マンチェスターや同中部バーミンガムといった工業地帯を訪問。実体験や取材を通じて知った社会の暗部を小説の中に描き込むことで、その実態を広く世に知らしめようとした社会派作家だった。
1843年10月、ディケンズはロンドン北部のカムデン地区にあるフィールド・レーン貧民学校を訪問する。福音主義者による慈善事業として運営されていた同校は、当時の児童たちを取り巻く劣悪な環境の縮図だった。生徒たちは、不潔で、非常識で、読み書きができない子供たちばかり。自ら窃盗や売春に手を染めて生計を立てている者さえいるという有様だった。
その様子を見て衝撃を受けたディケンズは、直ちに新作の執筆作業に取り掛かる。その作品こそが「クリスマス・キャロル」だった。強欲なスクルージは言わば「持つ者」。スクルージの書記として薄給で働くボブ・クラチットや、その息子である障害を持つ少年ティムは「持たざる者」。クリスマスのロンドンを舞台としたこの物語には、持つ者は持たざる者へ助けの手を差し伸べるべきという明確なメッセージが込められていた。
「クリスマス・キャロル」が世の中を変えた
「クリスマス・キャロル」は、発売後約1週間で6000部を売り上げる大ベストセラーとなった。年が明けてからも本の売れ行きは止まらなかったという。単に多くの人々がこの本を手にしたというだけではない。改心したスクルージの姿に感銘を受けて、自らも心を改めようと決心する者が続出した。
「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作者として知られるスコットランド作家のロバート・ルイス・スティーヴンソンは、同作を読了後にこれまでよりも多くの寄付を行うと宣言。歴史家のトーマス・カーライルは、人付き合いが悪いことで有名であったにも関わらず、クリスマス・ ディナーを一度ならず二度も開催するに至る。巷では「メリー・クリスマス」という挨拶が流行し、国内の寄付金額は急増。ブームは米国にまで飛び火し、クリスマス期間に全社員に対して特別休暇と七面鳥をプレゼントする経営者まで現れ始めた。ディケンズの「クリスマス・キャロル」を読んだ現実世界のスクルージたちが、小説の登場人物のように生まれ変わろうとしていたのだ。
ときを同じくして、英国のクリスマスの風景に変化を起こす様々な出来事が起きていた。「クリスマス・キャロル」が刊行された同年には、後にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の初代会長を務める発明家のヘンリー・コールが世界初の商業用クリスマス・カードを制作。その4年後となる1847年には、ロンドンの菓子職人がクリスマス・クラッカーを発明した。また1840年にヴィクトリア女王と結婚したドイツ生まれのアルバート公は、同国の伝統であったクリスマス・ツリーを飾る習慣を英国へと導入。1848年のクリスマスには、ヴィクトリア女王を始めとする王室メンバー一同が、ウィンザー城内に設置されたクリスマス・ツリーの前に集まる様子を描いた版画が大手新聞に掲載された。またアルバート公は、ウィンザー城近郊にある学校施設や軍の兵舎にもツリーを寄付。やがてクリスマスになると英国中にツリーがあふれるようになる。
こうして、クリスマス・キャロルの刊行からわずか5年間で英国のクリスマス事情は激変。階級や住む地域を問わず、誰もが幻想的な雰囲気に包まれながら他者に対して温かな眼差しを向ける季節へと変わっていった。
左)世界で初めて商業用クリスマス・カードを制作したヘンリー・コール
右)ドイツから英国にクリスマス・ツリーを導入したアルバート公
クリスマス・キャロルに始まりそして終わる
クリスマスの物語を通じたディケンズの啓蒙活動は、「クリスマス・キャロル」の執筆後も続いた。まず彼は第二の「クリスマス・キャロル」を求める読者の要望に応じ続けるという宿命を負うことになる。彼が友人に書いた手紙には、読者たちが期待していることを知っておきながら、クリスマスをテーマとした新作を執筆しないことに罪悪感を覚えるといった内容が記されていたという。自身が編集長を務め る週刊文芸誌ではクリスマス特別号の発行を定例化。その生涯で5冊に及ぶクリスマスの物語を刊行、クリスマスの風景を描いた中短編は総計20作を超える。
またディケンズは、当時まだ極めて異例であった著者本人による朗読会を再三にわたり開いていた。最初の朗読会で選んだ著書は、やはり「クリスマス・キャロル」。かつて俳優になることを志していたこともあるというディケンズの朗読ぶりは、身振り手振りを交えながら登場人物によっ て声色を変えるといった具合に本格的なものだったという。
1870年にロンドンで開催された朗読会で「クリスマス・キャロル」を披露した際には、既に58歳になり、体調を悪 化させていたディケンズが最後に観客に向けて「これから 永遠に姿を消します」と挨拶。足踏みと大歓声が響く会場で、彼は涙を流しながら感謝の投げキスを観客席に向けて 送ったという。その3カ月後に死去。ディケンズの朗読会は「クリスマス・キャロル」で始まり、そして終わった。
彼の死から150年近くが経過した今も「クリスマス・キャロル」は増刷を続けている。そして、何よりもディケンズ が伝えようとした慈愛の精神は英国社会にしっかりと根付いている。この冬も、ツリーやウインドー・ディスプレーに彩られた街並みの中心には、きっと寄付やボランティアの手を募る各慈善団体の人々の姿を見ることができるはずだ。ディケンズがかけたクリスマスの魔法は、21世紀となった今でも、まだ解けていない。
チャールズ・ディケンズ博物館にある応接間。
ディケンズはここでも頻繁に朗読会を開いていたという
「クリスマス・キャロル」で言及されているロンドンの場所
カムデン・タウン
スクルージの書記として働くボブ・クラチットとその家族が住んでいる地域。ディケンズ自身が幼少期にこの街で家族とともに暮らしていた
コーンヒル
金融街シティ内にある大通 りで、スクルージの事務所がこの近くにあるという設定。クラチットが凍結したこの道を滑り降りたと描かれている
マンション・ハウス
金融街シティの市長の住居。物語では、この「壮大な邸宅」に住む市長が「50人の料理人と執事にクリスマスに向けての準備をさせる」と伝えている
ホワイトチャペル
スクルージの勘の良さについて、物語の語り手が「ホワイトチャペルの針よりも鋭い」と表現。かつて同地域では上質の針が生産されていた
王立取引所
3人目の幽霊に連れられて、物語の舞台は王立取引所前へ。ここで噂話をしていた人たちの会話から、最近になって評判の悪い男が死んだことが明らかになる
チャールズ・ディケンズ博物館のキュレーター
ルイーザ・プライスさんが語る「クリスマス・キャロル」
ディケンズが生きたヴィクトリア時代の英国では、いわゆる超常現象をテーマとした物語が流行していました。ディケンズは超常現象そのものには非常に懐疑的だったようですが、物語としては関心を持っていたのでしょう。「クリスマス・キャロル」に幽霊が登場するのはそうした当時の流行を反映したものだと考えられます。
またディケンズは、クリスマスの季節に様々な家族がそれぞ れの家の暖炉のそばに集い、朗読して楽しむことができるようにと願いながらこの物語を執筆しました。あらかじめ音読されることを想定して書かれているからこそ、舞台やラジオ・ドラマの題材としても相応しい作品であると言えるでしょう。
Charles Dickens Museum
チャールズ・ディケンズ博物館
ディケンズが1837年より家族とともに住み始めた自宅。「クリスマス・キャロル」を始めとする代表作の多くがこの家で生まれた。またディケンズはこの場所で著書の朗読会も頻繁に開催したという。現在は博物館となっており、1月7日までは同作品にちなんだ数々の特別イベントを実施(要予約)。1時間のパフォーマンスや、19世紀におけるクリスマスの風景を再現したクリスマス・イブのひととき、朗読会などを開催する。
Charles Dickens Museum
10:00-17:00(12月24日までは18:00 25、26日は休館)
£12.50
48 Doughty Street, London WC1N 2LX
Tel: 020 7405 2127
Russell Square駅
https://dickensmuseum.com
「ホワイト・クリスマス」もディケンズが広めた?
「クリスマス・キャロル」は「ホワイト・クリスマス」という概念さえ私たちの脳裏に焼き付けたという。そう言われても、クリスマスと言えば雪景色という視覚イメージが既に自明のものとなった現代人にはあまりピンとこないかもしれない。だが、そもそも英国では12月末は雪が降る季節ではない。とりわけロンドンにおけるクリスマスの降雪は非常に稀な現象で、気象庁の統計によるとその確率はわずか6%。それではなぜ英国の人々は毎年ホワイト・クリスマスの到来 を願うのか。その理由の一つとして、ディケンズが 「クリスマス・キャロル」の中でホワイト・クリスマスとなったロンドンの風景を印象的に描いていたということが挙げられる。著名な伝記作家であるピーター・アクロイド氏によると、実際にディケンズの幼少期には例外的に極端に寒い冬が続き、クリスマスに雪が降ることがしばしばだったという。