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Fri, 29 March 2024

フローレンス・ナイチンゲール生誕200年 ナイチンゲールの衛生学

クリミア戦争で負傷兵たちを献身的に介護し、公衆衛生や看護教育の分野で大きな改革を起こしたフローレンス・ナイチンゲールが生まれて今年で200年。ここでは、ナイチンゲールによるさまざまな医療改革の中から衛生の分野に焦点を当て、ヴィクトリア時代の劣悪な衛生環境や公衆衛生の概念がナイチンゲールによっていかに向上したかをご紹介する。(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

1906年、ベッド上のナイチンゲール1906年、ベッド上のナイチンゲール(86歳)。
クリミアでプラリア熱という病にかかったナイチンゲールは、
38歳ごろからずっとベッドの上で寝ながら仕事をした

フローレンス・ナイチンゲールとは

フローレンス・ナイチンゲーフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日~1910年8月13日)は、ヴィクトリア時代の英国で看護婦としてばかりではなく優秀な教育学者としても活躍し、近代看護教育の母と呼ばれる。裕福な家庭に生まれながらクリミア戦争に看護師として従軍し、負傷兵たちを献身的かつ進歩的な方法で介護するほか、統計に基づく医療衛生改革でも大きな評価を受けた。戦時中に作られたナイチンゲール基金でロンドンの聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校を作り、英国ではそれをモデルに現在に近い看護師養成体制が整った。ナイチンゲールの誕生日は国際看護師の日とされている。

ヴィクトリア時代の衛生状況

ナイチンゲールの生きたヴィクトリア時代の英国は、産業革命で近代化する一方で生活環境が悪化。人々の階級格差も大きく広がり、弱者は街でも戦場でも劣悪な状況に甘んじ苦しんでいた。

都市はスラム化していた

19世紀の英国は産業革命により都市に急激に労働者が流入したものの、街にはそれを受け入れる環境もシステムも整っておらず、低賃金で働く労働者たちの生活水準は劣悪を極め、非人間的なレベルだった。しかも当時はそうした下層労働者や貧民層に対する支援は「国庫の無駄遣い」と政府から切り捨てられ、貧しいのは自身の努力が足りないのが原因と考えられていたため、事態はいっこうに改善されることはなかった。

ケンジントンのスラム街ロンドン西部ケンジントンのスラム街。借りられる家があればまだましで、
貧しい人々は数時間から滞在できるドス・ハウスと呼ばれる汚い宿で体を休めては働いた

そんな都市部を避けて中流階級の人々が郊外に引越して行く一方で、労働者たちはより狭い面積により多くの人間を収容できるように建てられた通風も採光もない粗末で狭い建物に、多人数で押し合うようにして暮らした。そのため、あらゆる感染症が広まったほか、下水道も発達していないことから道には汚水が流れ出し、ペストやコレラといった伝染病も蔓延。この時代の中流階級男性の平均寿命が45歳なのに対し、労働者階級のそれはその約半分だった。1840年の国勢調査によると、英北西部マンチェスターの労働者とその家族の平均寿命が17歳という驚くべき記録も残っているという。

19世紀にロンドンには4度のコレラ大流行が起こり、1853~54年には1万人以上もの犠牲者を出した。工場排水や下水がテムズ川に流れ込み井戸水が汚染されたのが原因だが、テムズ川は当時ひどい悪臭を放っていたため、腐敗物の不快な臭いを吸い込むことでコレラに感染すると考える人々もいた。

この時代、コレラは空気感染すると思われていたこの時代、コレラは空気感染すると思われていた

コベントガーデンのセブン・ダイアルズかつてロンドン中心部コベントガーデンのセブン・ダイアルズは悪名高いスラム街。
雨が降れば地下の家には容赦なく汚水が押し寄せた

クリミア戦争の死者の多くは実戦からではなかった

そんな時代に起きたクリミア戦争(1854~1856年)は、黒海に面するクリミア半島を舞台に、英国、フランス、サルディーニャ(イタリア)がオスマン帝国の連合軍として参加した対ロシア戦。その一進一退を繰り返す持久戦は、敵と戦う以外にも兵士たちに多くの負担と犠牲を強いるものだった。将校たちは比較的快適な生活を送っていたものの、一般の兵士は極寒の時期にも満足な供給物はなく、地面の上で眠るなど悲惨な日々だったという。また、英国軍はイスタンブールのセリミエや近郊のスクタリに基地を置き、陸軍の野戦病院も設立されていたが、膨大な数の負傷兵や病人に対処する能力を持っておらず、前線で傷ついた兵士たちは十分な手当もされず放置された。その結果、その多くが戦いそのものではなく、感染症や伝染病、飢餓で死亡するという状況だった。

スクタリの病室1856年、フローレンス・ナイチンゲールによって整備された後の、
快適な環境になったスクタリの病室。太陽光が差し込む

その様子は新聞社の特派員たちによって本国にも伝えられた。特に「タイムズ」紙の従軍記者ウィリアム・ハワード・ラッセルが、前線の負傷兵たちの極めて悲惨な状況を鮮明に描いた記事に、本国の市民たちはショックを受け、当時大きな反響を巻き起こした。ドイツの看護師養成施設で研修後、ロンドンの慈善施設で管理者としてすでに活動を始めていたフローレンス・ナイチンゲールも心を動かされた一人で、この新聞記事がきっかけで、自ら従軍看護師として現地に赴くことを決意した。

ロシア軍のセヴァストポリ要塞を攻める連合軍ロシア軍のセヴァストポリ要塞を攻める連合軍。セヴァストポリは小高い台地にあり、
土塁と塹壕で固められていたため、連合軍は苦戦し大量の犠牲者を出した

ナイチンゲールが取り組んだこととは

上流階級出身でロンドンのメイフェア地区に住む身ながら、親の反対を振り切り貧民施設などを訪れ、何とか社会のためになれないかと考えていたナイチンゲール。クリミア行きで隠された能力が開花した。

当時の「看護婦」のイメージを一新

1854年にナイチンゲールが24名の修道女と14名の病院看護経験者とともにイスタンブールのスクタリ野戦病院に乗り込んだとき、英軍は諸手を挙げて歓迎したわけではなかった。当時の英国で看護師は専門知識の必要がない職業と考えられており、人の嫌がる不潔な仕事につくしかなかった意地悪でがさつな年配の女性というのがそのころ定着していた看護師のイメージだったという。軍としてもそのような集団に来てもらう理由もなく、医務官が指示を出し、雑役兵が看護をするという、これまでの規律を崩そうとしなかった。

そこでナイチンゲールはどの部署の管轄でもなかったトイレ掃除に目をつけ、それを皮切りに病院の内部に入り込んでいく。負傷兵の食事の世話や不潔なシーツの洗濯など、医療行為以前の基本問題に取り組むことで、着任当時42%だった負傷兵の死亡率が、3カ月後には5%にまで低下した。ナイチンゲールはこうしてスクタリ病院のスタッフ総責任者に昇進。看護婦のイメージを根底から覆しただけではなく、重要なのはまず衛生であることを上層部に気づかせた。

ナイチンゲール写真左)クリミア戦争勃発直後、34歳のナイチンゲール
写真右)ナイチンゲールがスクタリの野戦病院に持って行った薬箱

病院の看護システム改善に一生を費やす

1856年の終戦とともに帰国したナイチンゲールは、戦地で成し遂げた偉業を認められ、国民的英雄として迎えられた。クリミア戦争の悲劇を繰り返したくないという思いから、ナイチンゲールはその後も統計学を駆使し、兵士の死因ごとに死者の数をひと目で分かるように工夫した「コウモリの翼」と呼ばれるグラフを作り報告書をまとめたほか、戦時中に始められた「ナイチンゲール基金」に集まっていた多くの寄付金を使って1860年に看護学校をロンドンの聖トーマス病院内に設立。また、「看護覚え書き」をはじめとした看護の仕事に関わる多くの執筆も行った。ナース・コール、病室に設置された水とお湯の出る蛇口、ナース・ステーションを中心とする現代の病院でも使われている病棟のシステムを開発したのもナイチンゲールで、90歳で死去するまでその一生を医療衛生学に費やし、公衆衛生の発展に尽力した。

ナイチンゲールの編み出した円グラフその形から「コウモリの翼」と呼ばれる、ナイチンゲールの編み出した円グラフ。
クリミア戦争における死者数を視覚で訴えるために作られた

ナイチンゲール誕生200周年記念エキシビション
Nightingale in 200 Objects, People & Places

ナイチンゲール誕生200周年記念エキシビション

1860年に建てられたナイチンゲール看護学校の跡地に作られたミュージアムでは、5月12日のナイチンゲールの誕生日を記念したエキシビションが開催中。あいにく現在は新型コロナウイルスの感染拡大で休館中だが、展示の様子をオンラインで公開中だ。ナイチンゲール自身や同時代の人たちの声を聞くことができるほか、クリミア戦争に持参された薬箱や、見回り時に使われたランプ、ナイチンゲールが飼っていたペットのふくろう「アテナ」のはく製、体調を崩したナイチンゲールが過ごしていたベッドなども見ることができる。

Florence Nightingale Museum
St Thomas’ Hospital
2 Lambeth Palace Road London SE1 7EW
Tel: 020 7188 4400 
www.florence-nightingale.co.uk/200exhibits

ナイチンゲール誕生200周年記念エキシビションペットのふくろう「アテナ」。クリミアに発つ日に死んでしまい、
ナイチンゲールはショックで出発を2日遅らせたという

参考:フローレンス・ナイチンゲール博物館、www.nationalarchives.gov.uk、「19世紀イギリスの日常生活」クリステン・ヒューズ著ほか

 

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