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Thu, 28 March 2024

アール・デコや花模様の陶器を生み出したクラリス・クリフが夢見た世界

2008年にロンドンのオークションハウス、ボナムズで行われたクラリス・クリフのティーカップのオークション2008年にロンドンのオークションハウス、ボナムズで行われたクラリス・クリフのティーカップのオークション

クラリス・クリフ(Clarice Cliff、1899年1月20日〜1972年10月23日)という20世紀に活躍した英国の陶芸家を知っているだろうか。プレートやピッチャーなど、普段使いのテーブルウエアに元気の出るようなカラフルな色調とユニークなパターンや、アール・デコ様式を採用した商品を数多く残し、女性が本当に使いたかったテーブルウエアを世に放った異彩の女性だ。その名は戦後になって広く知られるようになった。伝統に凝り固まった陶器のデザインの風潮を一蹴し、野心的に商品開発に取り組んだクリフが亡くなって今年で50年を迎える。今回は、クリフという一人の女性の生涯と、後世に与えた影響も併せて紹介しよう。(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: 「Clarice Cliff」Peter Wentworth-Sheilds&Kay Johnson著 L'Odeon London、https://claricecliff.comwww.theguardian.comwww.christies.com ほか

従来のデザインを一蹴し、唯一無二の存在となるまで

現在の一般家庭では、シンプルでモダンな食器が広く使われているが、「英国らしい」老舗テーブルウエアといえばエレガントなデザインのものが多い。19〜20世紀前半もそんなデザインが大量に流通していたが、そこに彗星のごとく現れたクリフは一体どういう存在だったのだろうか。

才能を努力で伸ばした青年期

1899年1月20日、クラリス・クリフは陶器産業で有名な英中部ストーク・オン・トレントのタンストールで、7人兄妹の4番目として生まれた。父親のハリーは鋳物工で、母親のアンは収入を補うために洗濯業を営み一家を支えていた。町には瓶の形状に似た巨大な釜が立ち並んでおり、クリフは自然と陶器のある環境で育っていったが、生活は決して裕福なものではなかった。クリフの両親に特筆すべき芸術的な素養はなかったものの、クリフは学校生活のなかで絵を描く楽しさを見出し、13歳で学校をやめ、自宅近くのリンガード・ウェブスター社で、エナメル職人の見習いとして働き始める。

3年間の勤務で、同じデザインをエッグカップやプレート、ミルク・ジャグなど、サイズや形状ごとに縮小拡大する術を学び、フリーハンドで絵付けする技術を養った。16歳で同社を退職し、焼成前に印刷した模様を転写するリトグラフのスキルを学ぶため、奨学金を使って夜間の美術学校へ進学するも、陶器産業の見習いは劣悪な仕事環境で有名で、クリフは卒業を待たずしてA・J・ウィルキンソン社で働くこと決意した。就職したらそこで一生を終えるのが普通だった当時、転職に踏み切ったことは異例の決断だった。

ストーク・オン・トレントの風景ストーク・オン・トレントの風景

男性優位の職場で頭角を表す

1916年、クリフは陶器会社A・J・ウィルキンソン社にリトグラファーとして就職。デザインに対するクリフの飽くなき探究心はここでも発揮され、フィギュアや花瓶の模型作り、金メッキの技術やアウトラインの引き方などあらゆるスキルを吸収しつつ、パターンなどの型紙を集めていった。1920年代初頭、いつものように就業時間となったある日、退出際にクリフは筆を手に取り陶器にさらりと蝶を描いた。流れるような筆使いが装飾部門のマネージャー、ジャック・ウォーカーの目に止まり、ウォーカーは同社を兄弟で経営していたアーサー・コリー・オースティン・ショーターにクリフの存在を進言する。

それまで社内の上層部は男性ばかりだったため、クリフの性別からショーターをはじめその実力を疑う同僚も多数いたが、クリフの創造力と真新しいアイデアに次第に魅せられていき、やがてクリフは同社の中枢を担う人物として活動を展開していく。クリフの実力を認めたショーターは、1927年にクリフをロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートへ送り彫刻を3カ月学ばせた後、専用のスタジオを与えた。1928年10月、試験的に60個のテーブルウエアが市場テストに出され、二人はその反応を見ることにした。

シャイな性格だったクリフはあまり写真に写りたがらなかったというシャイな性格だったクリフはあまり写真に写りたがらなかったという

世間の度肝を抜いた「Bizarre」の眩さ

一見つながりのないアイデアや技法を一つの陶器に落とし込むことに長けていたクリフは、ぐらついた形状の木々や太陽光など、さまざまなモチーフを色鮮やかなキュビズムやアールデコの技法で表現した。クリフの商品は初めて見た人に奇妙な印象を与えたことだろう。市場テストでは、芸術作品を商業事業に体現した目新しさ、加えて一般家庭で使うために中価格設定だったことが特に女性バイヤーの心をつかんだという。クリフのアール・デコ商品の大部分は、1927〜36年に生まれており、この期間の商品は大まかに「Bizarre」(奇妙)シリーズとして知られている。

1928年、クリフはブラシを巧みに使ったクロッカスの花のパターンを制作。発表した途端注文が殺到し、2年後の30年には需要を満たすために新たに装飾部門が設立されたほどだった。クリフが生んだこれらの商品には本人のサイン入りのバックスタンプが押され、クリフは陶器産業で自分の名前のラインを立ち上げた最初の女性の1人になった。今でこそ女性主導のブランドはたくさんあるが、当時の風潮としてはありえないことで、ましてや労働者階級の家庭に生まれた若い女性がデザイナーとして自分の作品に自分の名前を付ける前例はほぼなかった。

「クロッカス」のさまざまなテーブルウエア。かわいらしい色合いで特に女性に好まれた「クロッカス」のさまざまなテーブルウエア。かわいらしい色合いで特に女性に好まれた

クリフが作った「Bizarre」シリーズ

シリーズはパターンや制作年度によって「Bizarre」「Fantasque」「Fantasque Bizarre」など、呼び方が異なる

「スライス・フルーツ」パターンの花瓶(1930年ごろ)。暖色系の多い「Bizarre」の中ではかなり珍しく、青色を基調としている

「スライス・フルーツ」パターンの花瓶(1930年ごろ)。暖色系の多い「Bizarre」の中ではかなり珍しく、青色を基調としている

「Fantasque Bizarre」シリーズの「トルフィン・ヴァース」(花瓶)。1本の木が生えた「ソリチュード」という珍しいパターンだ

「Fantasque Bizarre」シリーズの「トルフィン・ヴァース」(花瓶)。1本の木が生えた「ソリチュード」という珍しいパターンだ

鮮やかなリンゴが描かれた持ち手付きの楕円状の皿。極太の黒い線に鮮やかなオレンジと緑のリンゴのコントラストが美しい

鮮やかなリンゴが描かれた持ち手付きの楕円状の皿。極太の黒い線に鮮やかなオレンジと緑のリンゴのコントラストが美しい

ステンドグラスのパターンが美しい「Latona Bizzare」のコニカル・ボウル。オレンジの丸い台座が特徴的

ステンドグラスのパターンが美しい「Latona Bizzare」のコニカル・ボウル。オレンジの丸い台座が特徴的

ホノルル・パターンと呼ばれる円錐のシュガー・シフター。極端に太い黒線と木々の縞模様がマッチしている

ホノルル・パターンと呼ばれる円錐のシュガー・シフター。極端に太い黒線と木々の縞模様がマッチしている

「レッド・ツリー&ハウス」パターンのミルク・ジャグ。独特の形状をなぞるように縁取る茶色の線が印象的だ

「レッド・ツリー&ハウス」パターンのミルク・ジャグ。独特の形状をなぞるように縁取る茶色の線が印象的だ

ヨーヨー・ヴァースと呼ばれる特徴的な形の花瓶。クリフは25個ほどのヨーヨー・ヴァースを作ったが、「クロッカス」パターンは2つしか存在しないそう

ヨーヨー・ヴァースと呼ばれる特徴的な形の花瓶。クリフは25個ほどのヨーヨー・ヴァースを作ったが、「クロッカス」パターンは2つしか存在しないそう

画期的な宣伝法

どんな業界でも新商品を発売するときはリスクを覚悟で世に出すが、人気のBizarreシリーズもそれにもれず、売り出し当初は半ば「賭け」だった。発表直後は採算が取れず、経営者の立場から決意が揺らいだこともあったショーターだが、クリフの才能を信じた。コスト意識の高いショーターは、同社ではBizarreを出す傍ら、手堅くホテル用のテーブルウエアも発売しており、後に軌道に乗ったBizarreでも特定の形状やパターンの売れ行きが悪い場合はデザインの変更を指示。クリフもショーターの思いを汲み取り、変更を快く受け入れていたという。

二人三脚で作り上げたBizarreは、1929年から約10年間はさまざまなフェアに出展、また一般の人々の目に触れるようデパートでの展示会では同僚と共にファッショナブルな洋服に身を包んで絵付けを実演、プレートや花瓶を使って作った馬の像を展示、また時に芸能人を呼びその様子を撮影して宣伝に活用するなど、さまざま工夫を凝らし人々の気を引きつけた。同時に、当時にしては画期的だった商品を印刷したリーフレットを配布。店舗やフェアなど特定の場所に行かなくても商品ラインナップが見られ、家事で忙しい一般家庭の女性も通信販売で購入できるシステムを整えた。

1938年ごろに作られたコニカル・ボウル。Bizzare発表後も精力的に商品を展開した1938年ごろに作られたコニカル・ボウル。Bizzare発表後も精力的に商品を展開した

女性たちが活躍するスタジオ

クリフは、「Bizarre Girls」と呼ばれる社内チームを率い、Bizarreシリーズを制作していった。しかしチームと言っても全てがプロのテクニックを持ち合わせた女性ばかりではなかったため、見習いの少女たちには、クリフ自らが指導して安価な塗料を使ってブラシの使い方を学ばせたのち、後にプロの女性たちによる指導を交えながら着実にチームを育てていった。クリフは全ての作業や工程に積極的に取り組むことが好きだったようで、大きなチームになるほどコミュニケーションが疎かになりやすい点を理解し、自分の意思を伝えるべく定期的に指導。

こうした活動により1931年までに1000人以上の従業員と、150人の少年少女を雇用する大規模な工場へと発展していった。後にフリーハンドで絵付けをする女性たちのことを「Paintress」とする産業用語まで生み出したという。さて、1930年にはアート・ディレクターとなり、チームの中心にいたクリフは毎日多忙な職場でどのように過ごしていたのだろうか。クリフはスタジオの隣に、リラックスしながらアートやガーデニングを研究する小さなラウンジを作り、必要とあればすぐに作業場に駆けつける体制を整えていた。バランスを取りながら日々穏やかな雰囲気で仕事に臨んでいたという。

1986年に当時クリフのもとで働いていた女性たちが再会した時の集合写真1986年に当時クリフのもとで働いていた女性たちが再会した時の集合写真

自尊心を満たされる従業員たち

当時の工場といえば厳密なヒエラルキーのもと、仕事は性別によって分類されていた。女性が模型作りやデザイナーになれることはほとんどない厳しい世界のなか、クリフは実力で足場を固め、自分のチームを持ってこれまでの暗黙のルールを打ち砕いていった。「Bizarre Girls」は地元の人々からエリートだと思われており、女性たちもこの職場で責任を持って働くことで自信や自尊心を高めることができた。常にファッショナブルなアイテムに身を包むクリフに憧れる従業員は多かったようで、クリフを真似してカラフルなスカーフを巻いて職場に来るスタッフもいた。

一方のクリフも、用事でロンドンへ出かけるとお土産を買ってきたり、従業員が病気になったときは心から心配し、仕事を早く切り上げ休息を取るように促したりと、女性たちを「家族」として扱った。仕事が終わらなくても定時で上がらせることはもちろん、たまに一緒に旅行したりと、公私を通して交流。また、職場で音楽をかけることで、「自分たちは今芸術的なことに取り組んでいる」という意識を従業員全体で共有し、文字通り明るい労働環境を作り上げたという。これにより以前より25パーセントも生産率が上がったというから驚きだ。

スタジオの女性たちは音楽を聴きながら黙々と作業に取り組んでいた(写真はイメージです)スタジオの女性たちは音楽を聴きながら黙々と作業に取り組んでいた(写真はイメージです)

戦争の荒波と、再び脚光を浴びるまで

Bizarreでデビュー後のたった10年あまりで陶器業界に異彩の存在として君臨したクリフだったが、第二次世界大戦の影響を受け、その後は粛々と働くようになり、挑戦的な作風が生まれることは2度となかった。しかし、戦後にコレクターによって再評価され、その名は広く知られることになる。

2021年にはクリフの華々しい時代をまとめた映画「The Colour Room」が公開された2021年にはクリフの華々しい時代をまとめた映画「The Colour Room」が公開された

ショーターとの結婚

1929年の世界恐慌をものともせずさまざまなシリーズを次々と展開していったクリフ。30年代後半から、ネイティブ・アメリカンの間で使われていたバスケットをモチーフにした商品など、作品のテーマは時代とともに変化していった。第二次世界大戦の始まりが近づくころには、以前のような大胆なデザインは影を潜め、コーヒーカップの形状も次第によく見かけるものに変化していった。そんななか、1939年11月2日、ショーターの妻アニーが亡くなる。長年いくつもの試練を共に乗り越えてきたクリフは迷わずショーターと結婚した。まだ「キャリアウーマン」という言葉が存在しなかったときから、仕事に明け暮れていたクリフにとって、家庭での生活はこの上ない幸せと共に新たな冒険の始まりであった。

戦争の影響

幸せも束の間、ショーターはナチス・ドイツによる本土侵攻に備えて民兵組織に加わることになった。工場生産は政府によって厳密に管理され、1941年には英中部ニューポートの工場は政府の倉庫として使用されることになり閉鎖されてしまう。戦後、再び陶器産業は稼働を始めたものの、戦前からの6年のギャップに加え、ミッド・センチュリーの流行によりシンプルなものがもてはやされ、創造的な仕事はもはやなかった。時に過去を懐かしむこともあったクリフだが、生活のために仕事に従事。しかし1963年に最愛の夫ショーターを亡くし、64年には工場を売却した。ショーターを失った代償は大きく、家のなかを装飾する以外楽しみをなくし、憔悴し引きこもる生活が始まった。そしてクリフは1972年10月23日、心不全により突然この世を去った。73歳だった。

コレクターによる再評価

クリフがまだ生きていた1960年代後半から、コレクターによって、クリフの過去のテーブルウエアが注目され収集活動が活発化したが、当の本人はこれらの声に答える元気はなく、世間からの注目を避けていた。本人にはなぜいまさらという思いもあったのだろう。しかし、世間は作品の再評価に動き出し、1972年には英南部ブライトン博物館にてクリフの展覧会を開催。また死後の76年にはクリフの作品をまとめたカタログ「クラリス・クリフ」が出版され、1982年にはクラリス・クリフ・コレクターズ・クラブ(CCCC、https://claricecliff.com)が結成。クリフと工場で働いていた女性がこれを機に集まりテレビやラジオ番組に出演して、当時の話をしたり、商品の魅力を伝え続けた。

後にクリフの所有権を引き継いだウェッジウッドが、コレクターに向けて過去のコレクションを小ロットで複製し期間限定で発売したこともあったが、コレクターの間ではその真性をめぐって賛否両論となったという。

1992年に撮影されたCCCCのメンバー1992年に撮影されたCCCCのメンバー

クリフの生き方を映画で知ろう

2021年11月12日、クリフの1920〜30年代の目覚ましい活躍に焦点を当てたドラマ映画「The Colour Room」が公開された。主人公クリフの夢がドラマチックに展開していく様子や、成功できると信じて挑戦し続けることの大切さを丁寧に描いている。現在はSkyグループが運営する有料のサブスク「Now TV」で見られる。

アンティーク・マーケットで見つけてみよう

クリフが手がけた商品は英国のアンティーク・マーケットで比較的簡単に見つけることができる。本当にレアなものはオークション行きとなってしまいなかなかお目にかかれないが、「クロッカス」のパターンは売り上げの良いクリフのアイコニック的な商品だったため、比較的多く出回っている。主に高値で売買されているのは1920〜30年代のもので、かつ珍しいパターンや生産数の少ないものほど希少価値が高い。

一方、戦後に作られたものはほとんど価値がないそうだ。価格は十数〜数万ポンドと幅広いので、予算に合うものが見つかれば吉。ちなみにクリフのバックスタンプは1925〜63年に制作された陶器に使用されており、選ぶ時は最低限バックスタンプが削れてないかはチェックしよう。

アンティーク・マーケットで見つけてみよう

 

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