柔らかな陽光を反射する、穏やかに凪いだ水面。日の光や雨、風や霧とともに刻一刻と表情を変える水と緑の姿に、自然が持つ奥深さを見る。湖水地方は、美しい。「時間」の質を考える暇もない忙しない大都市を離れ、この夏、懐深い自然に身をゆだねてみてはどうだろう。
(本誌編集部: 國近絵美)
ロンドンのユーストン駅からオクセンホルム駅まで約3時間30分
湖水地方の列車の玄関口であるオクセンホルム駅に降りた瞬間、冷たく芳醇な空気に癒される。自然の美しさにすでに圧倒されつつも、「未開拓の魅力」を探すため、まずは日本人観光客があまり訪れることのない湖水地方北部の町コッカマスと、西部のマンカスターに向かった。
インタラクティブに楽しむ詩人の生家
湖水地方の大自然を愛し、その景観を何よりのインスピレーションとした桂冠詩人、ウィリアム・ワーズワース。英国が誇るこのロマン主義の詩人は、1770年、湖水地方北西部に位置する人口約7000人の小さな町、コッカマスに生まれた。そして観光の中心部であるウィンダミアよりもずっと北に位置し、落ち着いた雰囲気が楽しめるこの町の中心部に、ナショナル・トラストが所有する詩人の生家がある。
ワーズワースが幼少期を過ごしたこの家は、1770年代の生活様式をロール・プレイ式に紹介するという珍しい仕組みと共に公開されている。受付を抜けるとまず来場客を出迎えるのは、キッチンから流れてくる香辛料と油の香り。石炭を焼くべた旧式のコンロには鍋が置かれ、パチパチと油が爆(は)ぜている。「あれはハーブ入りポテトの揚げ物で、テーブルの上にあるのはマジパンのケーキ。でも子どもたちが触ったから、食べないでくださいね」。18世紀当時のメイド服に身を包んだガイドが笑顔で教えてくれる。
台所や家具、寝室や書斎には今でも人が住んでいるかのように日用品が展示されているが、注意書きされている場合以外は触っても良い、というのがこの家のうり。小麦を磨りつぶす石臼の重みを手で確かめられるし、子ども部屋のクローゼットを開ければ、ちゃんと当時の服が吊るされている。しかも、子どもは実際に服を試着することもできるというから驚きだ。
だがこの建物で一番の見所は、なんといっても裏庭にある、丁寧に手入れされたガーデンだ。ハーブの茂みでぐるりと野菜畑を囲んでいるのは、昔から害虫対策として伝わってきた知恵が生きている証拠。「オーガニック」という生き方がそのまま継承されたこの屋敷には、自然を愛したワーズワースの思いとそれを後世に残そうとする人々の情熱が満ちている。
地ビールに見る175年の伝統の味
ワーズワース・ハウスから歩いて5分ほどの距離にあるのが、カンブリア地方最大の醸造所、「ジェニングス・ブルワリー」。1828年にコッカマスにほど近い村ロートンで創業し、1874年に同地に場を移して以来、湖の清水と伝統的な製法を使用したエールを製造してきた由緒ある醸造所だ。表には、地ビールの要である新鮮な水が汲み上げられる井戸が設置されている。
観光シーズンの間は1日2回のガイド付きツアーがほぼ毎日敢行されているので、香ばしいホップの匂いを嗅ぎながら、工程を見学してみよう。もちろんツアーの最後には、醸造所見学の一番の楽しみである試飲が待っている。また、ジェニングスでは現在、毎月新作エールを1カ月限定で発表中。地ビールを扱う酒屋であればロンドンでも同社の商品を手に入れることができるが、期間限定のものは今のところ湖水地方でしか手に入らないというから、試さない手はないだろう。
景勝と人の温もりが味わえる古城
コッカマスから車で海岸線沿いに1時間ほど下った南西部の町、ラベングラス近郊に位置するマンカスター城。去年は世界各地から9000人もの来客を集めたというこの城は、過去800年以上にわたり、所有者であるペニントン一家が代々住んでいる。1800エーカーにも及ぶ広大な敷地を有するこの城の手前には野趣に富んだ渓谷が広がり、この光景を見るだけでもこの地を訪れる価値がある。
現在でも一家3世代が住む城は一部が開放されていて、古城ならではの重厚な造りをじっくりと見学することができる。おとぎ話に登場しそうな「これぞ貴族」といったインテリアに、歴史的価値の高い絵画や調度品がずらりと並ぶが、見学の途中で見知らぬ老夫に声をかけられても驚いてはいけない。彼こそが、城の名物おじいちゃんにして現城主のパトリック・ゴードン=ダフ=ペニントンさんなのだ。レシーバーでガイドに聞き入る観光客をおもむろに止めては挨拶するパトリックさん。「今日は来てくれてありがとう。楽しかったですか?」最初は訝しげな目を向けた来場者たちも、城主の笑顔に緊張を解き、一期一会の会話を楽しみ始める。
また、ここマンカスター城は、英国で初めて「幽霊教室」なるものを開講したほど、英国では名の知れた「ホーンテッド・キャッスル」なのだそう。少女の幽霊が住むという、いわくつきの寝室「タペストリー・ルーム」では、1日1組(6名まで)限定で宿泊できるので、英国流の肝試しを体験したい方はぜひ参加してはどうだろう。
旅人を惹きつける湖水の魅力
Dry Stone Wall
「ドライ・ストーン・ウォール」とは、自然の形のままの石を計算しながら積み上げていき、壁の外側の重量バランスを中心部に傾けることで、モルタルを一切使用せずに強度を保つという手法で造られた壁のこと。さらに、年月とともに隙間に苔が発生し強度が増すという、まさに人間の知恵と自然の合理が一体となった伝統技術だ。湖水地方では家や塀の建設にも多用されていて、ウォーキング・パスに沿ってどこまでも続く石塀には、旅情をかきたてるなんとも温かな趣がある。
Ginger Bread
一般にジンジャー・ブレッドといえば、人形のかたちをしたサクサクのクッキーを想像しがちだが、湖水地方のそれは味も 姿も似つかぬもの。体がすぐに温まる強いしょうがの味と、ねっとりとした食感が特徴だ。
Herdwick Sheep
丘で良く見かけるこのハードウィックという種類の羊は、赤ちゃんの時は真っ黒の毛で生まれ、次に茶色、そして灰色へと、成長とともにお色直しするとても珍しい品種だ。かつては絶滅寸前だったが、絵本「ピーター・ラビットのおはなし」の作者、ビアトリクス・ポターが保護に努めたことでも知られる。雨や厳しい寒さに強く、他種の羊が生息できないような高地でも放牧できるという、湖水地方の環境で飼育するには最適なハードウィック。また、一般の羊肉よりも割高だが、濃厚な味わいは一度食べたら病みつきになるはずだ。
Kendal Mint Cake
ケンダルという町が発祥地の、ミント風味の砂糖水を棒状に固めたお菓子。ケーキとは名だけで、口に入れるとゆっくり溶ける「砂糖の塊」といった方が近い。ミントがリフレッシュ効果抜群、かつエネルギー補給として最適なので、ウォーキングなどのお供として重宝される。
ウィンダミア湖の西に位置し、いわゆる「メイン・ストリート」が2本しかないという小さな町、コニストン。とはいっても見所は多く、ここを拠点にホークス・ヘッドやヒル・トップへ足を運ぶこともできる。そしてこの町の魅力は、観光地にありがちないやらしさとは全く無縁な、懐(ゆか)しい、手付かずの素朴な自然が堪能できること。荒涼とした山々を背景に、かつてのスレート採掘場や銅鉱山の跡地を訪ね、同地を愛した偉人たち縁(ゆかり)の地を巡ってみよう。
大自然に抱かれたラスキン邸
コニストンを語る上で最も重要な人物は、アーツ・アンド・クラフツ運動の父であり、芸術評論家にして詩人、そして社会思想家として世に多大な影響を与えたジョン・ラスキンだろう。創作活動を行いながら、鉄道が湖水地方に延伸することに反対し自然を守ったラスキンは、ビアトリクス・ポター同様、ナショナル・トラストの設立に大きく貢献した人物でもある。
そんな彼が、1900年に死を迎えるまでの28年間を過ごした邸宅「ブラントウッド邸」が、博物館として一般公開されている。深い森に身を隠すように建つその邸宅の眼下にはコニストン湖が広がり、屋敷からの景観が素晴らしいと聞いたラスキンが、実際に建物を見ることなく購入を決意したというのも頷ける。館内にはラスキンが手掛けた絵画や仕事場として利用していた書斎などが展示され、「自然をあるがままに見ることの大切さ」を説いた故人と同じように屋敷からの景色を見ようと、世界各地からファンが訪れている。
一方、町の中心部にあるラスキン・ミュージアムでは、ラスキンのアート界や社会への影響力、そして急進的な思想を考察することができる。また、故人の墓は観光局付近の墓地にある。アーツ・アンド・クラフツ運動が支えた「職人技」による、凝ったデザインが彫られた墓石が目印だ。
ウォーキングで堪能する自然という至極の芸術
湖水地方の天気は変わりやすい。なのでウォーキングを最大限に楽しむには、防水の上着やトレッキング・シューズが必要となる。とはいえ、雨が降りだしても晴天の時とはまた違う自然の表情を見ることができるし、またすぐに止むことが多いので落胆してはいけない。そしてしっとりとした雨上がりの空気は、懐かしい甘い土の匂い。静謐な美しさに心が洗われる瞬間だ。
さて、無数に存在するコースのなかから「コニストンならではのウォーキングを」と勧められたのが、「大聖堂の洞窟」という、300年以上も前からスレート採石のために掘られた洞窟を通るルートだ。滝を越え、小川や石壁を渡って行くと洞窟の入り口にたどり着く。そして暗く水浸しのトンネルを進んだ先にある洞窟の光景は、まさに別天地としか形容できない美しさだ。高い天井からは8メートルほどものスレートの柱が伸び、地上に空いた穴から差し込む光が洞窟内を照らす。その光は巨大な水溜りに反射し、荒々しい岩盤の天井に光の波を投げかける……。夢現(うつつ)のまま洞窟から出たら、石塀に沿ってさらに歩を進め、湖水地方の絵はがきでよく見かける「スレーターズ・ブリッジ」まで行ってみよう。絵本から飛び出てきたかのようにかわいらしい太鼓橋に、また感動のため息が漏れるはずだ。
英国一美しい農場 ユー・トゥリー・ファーム
06年に公開されたビアトリクス・ポターの伝記映画「ミス・ポター」で、ポターが住んだ家「ヒル・トップ」として撮影されたのがこの農場だ。かつてはポターが所有し、後にナショナル・トラストへと寄贈したもので、インテリアの家具はポター自身が揃えたものが多い。また、02年よりナショナル・トラストから委託経営しているワトソン夫婦は、農業の傍ら、ティー・ルームとB&Bも手掛ける。手作りジャムや羊毛、ハードウィックの羊肉やベルティック・ギャロウェイという牛の肉といった食材も販売しているので、地元の品や味をお土産にすることできる。
羽を伸ばすならコテージが一番!
せっかくの休息の旅、宿泊先でも思い切りリラックスしたい──そんな希望を適えるために今回お世話になったのは、良質で趣のある貸しコテージを70軒以上も所有する「コッパーマインズ&レイクス・コテージズ」。ありとあらゆるサイズやロケーションからお気に入りの1軒を選ぶことができるうえ、週単位の滞在しか受け付けない通常のコテージとは違い、週末や短期間の滞在でも利用できるのが嬉しい。
チェックインを済ませスレート葺きの瀟洒なコテージのドアを開けると、まさに「第二の我が家」に帰って来たような、なんともアットホームなリビングが迎えてくれる。ピカピカのオーブンに冷蔵庫、洗濯機にDVDプレイヤーまで完備。好きな時間に起き、ソファに身を沈めてパンをかじりながら窓越しに風景を愛でるもよし、早朝に庭に出て、身が締まるような冷たい霧に烟(けむ)る緑を、熱々のコーヒーをすすりながら楽しむもよし。そんな何気ない日常の行為を、都会では手に入れることのできない贅沢な環境で気ままに堪能できるのも、コテージならではだ。
また、外食に疲れた、あるいは節約したいという時に自炊できるのも、コテージ利用の大きな魅力だ。というわけで、最終日の夕食は、ユー・トゥリー・ファームで購入したハードウィック・ラムのローストに、地元で採れたポテトとブロッコリーの付け合わせに挑戦。自宅と変わらない環境で料理できることに感動しつつ、ラム肉の芳香に、隣のコテージの宿泊客が「今晩の夕飯はなに?」と聞きに来るという、ほのぼのとした土産話までできてしまった。「冬は地元食材をたっぷり入れた鍋を囲んで、夏は庭でバーベキュー……。」あまりの居心地の良さに、誰しもが次の旅計画に思いを馳せてしまうに違いない。
The Coppermines & Lakes Cottages
The Estate Office, The Bridge, Coniston LA21 8HJ
Tel: 0153 944 1765(24時間)
www.coppermines.co.uk
Brewery, Cockermouth, CA13 9NE
Tel: 0845 129 7185
www.jenningsbrewery.co.uk
Main Street, Ravenglass CA18 1SD
Tel: 0122 971 7222
thepennington.co.uk
写真)マンカスター城の近くにあるペニントン・ホテルでは、本格的なメニューが揃う。いちおしのアフタヌーン・ティー(2人分)は、ボリュームも満点
Coniston Pier
Tel: 0153 944 1288
www.nationaltrust.org.uk/gondola
写真)コニストン湖では、ナショナル・トラストが運営する18世紀・ビクトリア時代の蒸気船に乗ることもできる