第68回 アンコ椿は春の花
今年の2月9日は告解の火曜日。謝肉祭の最終日に当たり、当地ではパンケーキ・デーと呼ばれます。翌日の灰の水曜日(復活祭の46日前)から始まる断食に備え、肉や玉子、乳製品をたっぷり摂取する日です。全国至るところでパンケーキ・レースが行われ、エプロンを纏(まと)ってフライパンの中のパンケーキをひっくり返しながら町中を走り回ります。シティでも数々のギルドが協賛するレースがギルドホール広場で行われました。
ギルドホールで行われたパンケーキ・レース
15世紀に英国南東部オルニー村で始まったとされるこの伝統行事、シティという世界の商業センターのど真ん中で、中老の紳士たちが昼間からフライパンを持って駈けずり回る姿はかなり滑稽です。本来は日ごろの行いを振り返り、教会で懺悔をして赦しを請う日。仮面を被ったり、変装したりするのも本人の姿を明かさずに告白しやくするためで、決して在庫の肉や玉子を大量に消費して乱痴気騒ぎをするのがこの行事の本旨ではありません。
パンケーキ・レースは英国の春の伝統行事
ガラリと変わって翌日の灰の水曜日。司祭が厳かに信者の額に灰で十字の印を付けます。この灰は勝利の象徴であるシュロの枝を燃やして作られ、勝利や人間の生命の儚(はかな)さを思い起こさせるとともに、浄化や再生を意味します。この日から復活祭まで日曜日を除く40日間、信者は断食です。告解の火曜日と違い、ギルドホールはすっかり静寂に包まれました。どことなく静謐な気持ちでその北を歩けば、ビール職人組合ブリュワーズ(Brewers)とベルト職人組合ガードラーズ(Girdlers)が見えてきます。
ガードラーズの紋章は聖ロレンスを象徴する鉄グリル
ブリュワーズの紋章には樽と麦
エール・ビールは宗教行事や宴会に必須の飲み物でしたから、ブリュワーズは早くも13世紀には組織され、ホールは15世紀初頭からここにあります。一方のガードラーズも飾り帯や剣帯を作り、15世紀半ばには現在の場所に位置していました。思えば、告解の火曜日から灰の水曜日への落差は、宴の酔いや興奮が一気に冷め、中世のベルトで締め上げられる感じです。ふと、ガードラーズの素敵な庭園に目をやりますと、紅色に咲く椿の花。
コブシとともに咲く椿を見ると拳を握って「アンコ椿〜」を熱唱したくなります
椿は日常・非日常、慇懃講・無礼講に関係なく、季節のリズムに忠実です。日本の椿を西欧に初めて紹介したのは18世紀初頭、オランダ商館付き医師、エンゲルベルト・ケンペルでした。以降、椿は「東洋のバラ」として愛され、東インド会社により英国に運ばれてきました。そうそう、椿の灰は陶芸の釉薬(ゆうやく)や、味噌や酒・あんこの発酵に使われる麹を培養する際に最適です。アンコ椿は恋の花、浄化や再生の春の到来を告げています。