第162回 背広の襟穴とサヴィル・ロウ
背広の左襟にあるボタン穴。日本では昔そこに社章を着けることもありました。英語ではフラワー・ホールと呼び、求婚のため男性が渡したブーケを女性が承諾の返事にそこに差し戻す習慣があったそうで、今でも結婚式では男性が花を差します。ところが知人が、「襟穴は元々、軍服や狩猟用コートで防寒用に襟立てするためのボタンの名残だ」と言い出しました。そこで紳士服の聖地サヴィル・ロウで歴史を調べていくと、英国の服装の歴史そのものが浮かび上がって来ました。
背広の襟穴は軍服の名残?
18世紀前半、ロンドンのピカデリー・サーカス周辺で、バーリントン伯爵が自宅の改修と都市開発を行い、妻のドロシー・サヴィルの名を採ったサヴィル・ロウという通りが作られました。ちなみに同夫妻は音楽家ヘンデルなどの芸術家を支援し、捨て子養育院の設立に貢献した偉大な慈善家でもあります。夫妻の暮らすバーリントン・ハウス周辺はすぐに貴族や軍部将校の邸宅街になりました。
現在のバーリントン・ハウス
やがて19世紀半ば、現在サヴィル・ロウの最古の仕立て屋であるヘンリー・プールが転居してきました。ヘンリーの父で創業者のジェームズは、かつて1815年のワーテルローの戦いにも従軍した軍服職人。そのためここはしばらく軍服街になりますが、1870年に王立地理学会がサヴィル・ロウ1番地に移ると変化が生まれます。当時の英国は世界中に植民地を建設し秘境を探検していました。貴族たちは植民地の視察旅行の際に、地理や天候の助言を地理学会に求めましたが、その際、服装の相談に乗ったのがサヴィル・ロウの仕立て屋たちでした。こうして、相談を受ける=Be spoken=ビスポーク(注文仕立て)がサヴィル・ロウの仕立て屋のお家芸になるのです。
サヴィル・ロウ最古の仕立て屋ヘンリー・プール& Co.
ズボンにプレスをするヘンリー・プールの職人(1944年)
また、1876年にはおしゃれで愛煙家として知られる当時の皇太子エドワード7世が、サヴィル・ロウでカジュアルな燕尾服を注文。それはスモーキング・ジャケットと呼ばれ、タキシードや背広の原型になったと言われています。こうしてサヴィル・ロウは軍服から背広まで、時と場所、場合に応じた服装を顧客と発展させてきました。
現在はロンドン西部ケンジントンに移転している王立地理学会
ちなみに日本に西欧の服飾が普及したのは文明開化のころ。江戸時代に洋服を蘭服と呼んでいたので、明治時代から学生服は学蘭と呼ばれました。早くに海軍士官型の詰襟の学生服を採用したのが公家教育の学習院、背広型で開襟の学生服は商人教育の慶應義塾幼稚舎。うわ、襟にも校風のカラーが出ていたのですね。