第222回 シチュー・レーンとクロス・ボーンズ
シティにはテムズ川に向かって走るシチュー・レーンという小道があります。通りの名の由来は、そこにおいしいシチューの店があったからではありません。シチューは中世の隠語で特殊な「混浴風呂」を意味し、川向こうのサザック地区にはシティでは営業禁止のシチュー店がたくさんありました。小道の端に波止場があり、渡し船で店に行けるようになっていました。川向かいには、渡し船の船頭が待ち合い時に座る椅子が今も残っています。
現在のシチュー・レーン
そもそもサザックはどんな場所だったのでしょうか。1066年にウィリアム征服王がイングランドを征服する際、サザック地区では現地の住民の執拗な抵抗に遭い、なかなか攻め落とせませんでした。その教訓からか、征服後はウィリアム王の異父弟にあたるオドに土地を管理させました。サザックはシティの対岸にありますから、軍事的にも経済的にも重要な場所です。王様の信頼が最も厚い人物にサザックの管理が委ねられたのです。
テムズ川沿いのシチュー店(1520年の地図)
仏バイユーの司教だったオドは、サザックに多くの修道院を建て、信仰心のあつい平和な街作りを目指しました。でも、12世紀初頭にこの地区はウィンチェスター司教ウィリアム・ギファードの支配に代わります。ギファードは大法官を務めた後、当時のイングランド屈指の都市ウィンチェスターの司教の座を射止め、サザックを「ウィンチェスター自由区」に変えました。つまり高い税金を王様に支払うことで、自治の権利を買ったのです。
サザックを再建したオド司教
サザックはテムズ川の水運に恵まれ、シティと英国南部を結ぶ陸の交通の要所ですから旅人が多く、宿屋や飲食業、娯楽施設に商売の需要がありました。労働許可や居住権に厳しいシティと異なり、ウィンチェスター司教は自分の権限で前歴や国籍を問わず働き手を招き入れ、大きな歓楽街に変えました。特にシチューは1546年にヘンリー8世が疫病を理由に禁止令を出すまでとても繁盛し、バンクサイドだけで22件の店が営業していました。
クロス・ボーンズの塀に供養の品々
シチューで働く人が何人いたのか記録はありません。ただ、1990年代にサザックの外れに変電所を建てようと空き地を掘ったところ、推定で1万5000体の人骨が発掘されました。この人骨は娼家だったシチューで働き病死した女性、およびその幼児と判明しました。そこは元々女子修道院の場所でしたが、シチューなどで働いた女性たちが病死し、引き取り手のなかった無縁遺骨がそこに運び込まれました。この狭い場所に無数の無縁仏のお墓があったとは言葉を失います。現在はクロス・ボーンズと呼ばれ、供養に訪れる人が絶えません。
墓地を見守るマリアさま
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