5月8日は「VE DAY」75周年記念 第二次世界大戦・欧州戦勝記念日のロンドンで何が起こったか
5月8日、第二次世界大戦で英国を含む連合国がドイツを降伏させた戦勝記念日、通称VEデー(Victory in Europe Day)は今年で75周年を迎える。同大戦で敗戦国となった日本と異なり、当日のロンドンは祝福のムードに包まれていたが、一方で身内を亡くした人々も多く、手放しで喜べる国民ばかりではなかったという。複雑な思いが絡み合うその日に、当時の人々は何をしていたのか調べてみた。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)
参考資料: winstonchurchill.org、www.bbc.co.uk
道端で勝利を祝う人々
VEデーとは?
1945年5月8日、第二次世界大戦でナチス・ドイツが降伏文書に署名し、欧州における第二次世界大戦が終わった日。太平洋戦争での日本軍の抵抗はこの時点でまだ続いているので、あくまでも欧州においての戦勝記念日となる。ソ連軍によって包囲されたベルリンは陥落し、亡きヒトラーに代わりカール・デーニッツ海軍元帥が設立した臨時政府、フレンスブルク政府は国防軍に署名の許可を与え、5月8日、ベルリンで無条件降伏を受け入れた。降伏文書調印が成立してからも、各戦線での降伏には時間差があり、最終的に欧州内での戦いが幕を閉じたのは同11日のプラハの戦いであった。
現在も英国をはじめ、欧州の連合国では祝日となっているが、時差の関係からロシア(旧ソ連)では9日が対独戦勝記念日となっている。
1943年 2月 | ドイツ、スターリングラードで敗北 |
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7月 | 連合軍、シチリア上陸 |
9月 | イタリア、無条件降伏 |
11月 | テヘラン会談 |
1944年 6月 | 米英主力の連合軍、ノルマンディーに上陸 |
8月 | 連合軍、パリを解放 |
1945年 2月 | ヤルタ会談 |
4月 | アドルフ・ヒトラーが自殺 |
5月 | ソ連軍、ベルリン占領 |
5月8日 | ドイツ、無条件降伏 |
何千もの人々がトラファルガー広場に集まった
あの日…
ウィンストン・チャーチル首相は
時代が選んだリーダー
英国の最も著名な政治家の一人で、今なお人気のあるウィンストン・チャーチル首相(1874~1965年)。チャーチルといえば、「鉄のカーテン」など、印象的な言葉を散りばめた記憶に残る演説を行ってきた宰相で、2002年に行われたBBCの世論調査で「最も偉大な英国人」の1位に選出されるほど、英国民の間で長きにわたり英雄視されている人物だ。
第二次世界大戦勃発時、ネヴィル・チェンバレン内閣の海軍大臣だったチャーチルは、ナチス・ドイツ軍が軍需産業で必要とする鉄鉱石輸送の拠点であったノルウェー北部ナルヴィクの占領に失敗。チャーチルはチェンバレンを擁護したものの、責任を負ってチェンバレン首相は辞任してしまう。ドイツとの全面的な戦争に対し、当時対独強硬路線を提唱していたチャーチルが他党や世論の後押しを受け、首相の座に着く。
ホワイトホールに集まる約5万人の聴衆に向けて、勝利のVサインを示したチャーチル首相
つかの間の喜びを国民と分かち合う
VEデー当日、チャーチルは15時からBBCラジオ放送と、保健省(The Ministry of Health)の建物があったホワイトホールに集まる群衆に向かって2回スピーチを行っている。ラジオ放送では、冒頭でナチス・ドイツ軍の無条件降伏の事実を伝え、この勝利が本戦争における一時的な喜びであり、日本がまだ降伏しておらず、英国はまだまだ戦い続ける、という強い意志を持って結んでいる。一方、大勢の聴衆を前にしたスピーチでは、国民への熱い労いの言葉を中心に、英国全体で戦っていることを強調。国民を鼓舞する劇的な言葉を多用し、ドラマティックな印象を残した。
VEデー当日のスピーチ(抜粋)
God bless you all. This is your victory! It is the victory of the cause of freedom in every land. In all our long history we have never seen a greater day than this. Everyone, man or woman, has done their best. Everyone has tried. Neither the long years, nor the dangers, nor the fierce attacks of the enemy, have in any way weakened the independent resolve of the British nation. God bless you all ...and later ...
My dear friends, this is your hour. This is not victory of a party or of any class. It's a victory of the great British nation as a whole. We were the first, in this ancient island, to draw the sword against tyranny.
— Whitehall, Londonにて
(日本語訳)神のご加護があらんことを。これはあなた方の勝利である! この勝利は、英国全土における自由の根源となる勝利である。われわれの長い歴史のなかで、この日に勝る最高の日を目にしたことは未だかつてない。男子、女子、一人ひとりが最善を尽くし、挑んできた。長期間にわたる危険も、敵の激しい攻撃も、英国国家の独立の決意を弱めることなど決してできない。神の恵みを、これからも……。
親愛なる諸君、この時間はあなたたちのものだ。特定の党、階級だけの勝利ではない。大英帝国の全てにおける勝利なのだ。古代から続くこの島で初めて、独裁政治に対して剣を抜いたのだ。
「ナチス」という言葉を避けた理由
演説の名手、チャーチルは初めから雄弁だったわけではない。1904年、当時保守党の下院議員であったチャーチルは、保護貿易問題に対する立場の違いから党内で浮いた存在だったが、その緊張も手伝い、同年4月22日にあった労働組合権について流暢な演説のさなか、言葉に詰まってしまった苦い経験がある。以降、暗記ではなく原稿を前もって作成するようになった。また、チャーチルは吃音にも悩まされており、「S」の発音をなるべく回避するよう、ナチスをあえて「Narzees」(ナジィーズ)と呼んだという。
勝利のVサインの秘密
第二次世界大戦中に、勝利のサインとして「V」の文字が頻繁に使われている。このVサインはもともと1941年、BBCのラジオ・ベルギーの局長であったベルギーのヴィクトル・ド・ラブレー元法務大臣がフランス語で勝利を意味する「victorie」、オランダ語で勝利や自由を意味する「vrijheid」でVサインを広めようと発言したのがきっかけ。この発言以降、ベルギー、オランダ、フランス北部でこれらのサインが街中に現れたことを受けて、BBCは「V for Victory」と題したキャンペーンを始めた。チャーチルもこのハンド・サインをメディアへ向けて積極的に使用していく。あるときは葉巻を指に挟みながら、手の甲を相手に向けたいわゆる「裏ピース」を多用していたが、これが特定の階級にとって侮辱を意味することだと知らなかったチャーチルは、指摘を受けて以降、手のひらを外側へ向けるようになったと言われている。
Vサインはチャーチル首相のイメージの一つ
(左)指令を待っている英国空軍のパイロット。搭乗した航空機には非公式にVサインが塗られている (右)米国のプロパガンダ・ポスター。「. . . —」はモールス符号でVを表す
あの日…
英国民は
喜びと安堵の気持ち
戦場の第一線にいるわけではないものの、数年にわたる配給制度や停電、爆撃など、さまざまな形で抑圧を受けていた市民たちは、8日になる前から早々に祝い始めた。カラフルなユニオン・ジャックの旗がロンドンをはじめ英国中の町や村にはためき、パブは自由を喜ぶ人であふれかえったという。
祝日となった8日、チャーチル首相は当時配給制度を担当していた食品省(The Ministry of Food)に、ロンドンで十分にビールの供給があるかどうか確認をとり、当時の商務庁(The Board of Trade)は、人々が配給切符なしで赤、白、青の旗布を購入できるよう制度を調えた。また、VEデー・マグカップなど、急ピッチで製作された記念品が出回ったほか、簡易ながら通りにテーブルを出して祝うストリート・パーティーを楽しんだ市民も多く、1942年から45年3月まで製造が禁止されていた入手経路不明のアイスクリームなど、子どもたちが待ち望んでいた食べ物も並んだ。スプーンを持参していなかったため、食べたい欲求を抑えて泣きながら家まで持ち帰った子どももいたようで、微笑ましくも心が痛むエピソードも数多く残されている。
複雑な思いを抱える人々も多かった
戦争で家族や恋人、友人を失った国民にとっては、VEデーは心の底から喜べるものではなかった。諸外国の戦地に取り残されている身内の安否を心配するものも多く、歓喜の声に耐えられず、家から一歩も出られなかった人々もいた。勝利のムードに酔いしれた人々の脳裏にすら、勝利とは配給制度など生活面における困窮を消し去ることではない、という暗黙の思いがあった。
(左)左からスターリン、チャーチル、ルーズベルトの顔と
「United for Victory」と描かれた記念マグカップ
(右)喜びにあふれ、ローリーに乗り込む大量の人々
あの日…
BBCは
戦時中はテレビ放送が休止され、報道はラジオ放送に絞られた。1939年9月より政府の影響下にあったBBCにとって、VEデーの当日の様子はもちろん、国外に派遣された戦争特派員を通じて現地の声をも拾って大々的に報道するというのはBBCの大きな挑戦でもあった。
1945年5月8日の放送スケジュールは、朝6時30分から翌日まで分単位、時に秒単位で細かく決められた。軍人による長々とした政治演説はあえて取り上げず、バーミンガムやリヴァプール、ニューキャッスルなど国内各地、また戦争特派員による国外から中継を行った。前述の通り、全ての国民が戦勝を喜べる状況ではないという事実を考慮したため、人々の悲しみにくれる様子、また敗戦国となったドイツの落ち込んだムードなど、事実をありのまま伝えることに尽力し、戦争が始まって約5年8カ月にわたる人々の思いと経験を大勢の人と共有できる報道を第一に考えた。
もちろんこれらのプログラムは、VEデー直前に驚くべき早さで準備されたもの。また政府側の放送内容の決定などを、限られた時間のなかで組み立てた上、VEデー以降も10日間にもおよぶ戦勝記念の特別番組の編成も進められた。
戦時中、ノルマンディーからの放送を試みるBBCのスタッフ(1944年)
あの日…
英国王室は
王室メンバーも国民と共に勝利を祝うため、バッキンガム宮殿のバルコニーから歓声をあげる国民の前に姿を現した。同宮殿から東へ延びるザ・マル、トラファルガー広場まで群衆で埋め尽くされ、ジョージ6世とエリザベス王妃、エリザベス王女、マーガレット王女が宮殿のバルコニーから人々に手を振った。ジョージ6世とエリザベス王妃は、合計8回も群衆の前に現れ、途中からチャーチル首相も王室メンバーと共にバルコニーに登場した。その夜、当時19歳のエリザベス王女と妹のマーガレット王女は宮殿を抜け出し、歓喜に湧く国民の中に混じり、喜びを密かに分かちあっていたという。エリザベス女王は後にこの夜の出来事を振り返り、「国民の皆さんと一緒になって、『We want the King(王様が欲しい)!』と一緒に叫びました。あの夜は人生の中で最も思い出深い一夜の一つです」と語っている。
バッキンガム宮殿のバルコニーに現れた、左からエリザベス王女、
エリザベス王妃、チャーチル首相、ジョージ6世、マーガレット王女