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Wed, 26 March 2025

時代区分から知る 激動と変革のなかで スチュアート朝時代の英国

スチュアート朝時代は、政治的には王政と共和制の交替、名誉革命による立憲君主制の確立といった大きな変化があり、社会的にはペストやロンドン大火などの災害にも見舞われた。一方で、科学や文化の発展も著しく、アイザック・ニュートンの業績や、ロンドンの再建、劇場文化の復活など、近代への礎が築かれた時代でもあった。今回は激動のスチュアート朝時代を紹介する。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: https://walk.happily.nagoya/tag/stuartwww.english-heritage.org.uk/learn/story-of-england/stuartshttps://stuarts-online.com、 「イギリス社会史 1580-1680」キース・ライトソン著 ちくま学芸文庫、「ピューリタン 近代化の精神構造」大木英夫著 中公新書 ほか

バンケティング・ハウス前で行われたチャールズ1世の公開処刑の様子を描いたドイツの銅版画バンケティング・ハウス前で行われたチャールズ1世の公開処刑の様子を描いたドイツの銅版画

スチュアート朝時代とは

スチュアート朝時代(Stuart Era 1603~49年、1660~1707年)はチューダー朝時代に続く約100年を指す。スチュアート朝時代の名前の由来は、14世紀から続くスコットランド王家の姓から。1603年にスコットランド王のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世を兼ねることで、イングランドとスコットランド両国を統治するスチュアート朝が成立した。以降、国王の処刑、共和制への移行、疫病、大火、革命、王政復古とドラマチックな出来事の連続だった。また、清教徒革命や名誉革命といった国王と議会の権力争いは、結果的に立憲君主制と議会主権が確立したため、現在の英国の国の形を決めた時代ともいえる。

*「Stewart」はスコットランドのつづりだが、フランス宮廷で育ったメアリー・スチュアート(Mary, Queen of Scots)がフランス風に「Stuart」とつづったため、以後この表記が定着

英国の時代区分

スチュアート朝時代という111年

目まぐるしく権力が変遷したスチュアート朝時代を、政治を中心に社会、文化の側面から光を当てる。

政治

王権神授説

1603年、エリザベス1世(在位1558-1603年)の死去により、スコットランド王のジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイングランド王位を継承。イングランドとスコットランド、アイルランドは同じ君主のもとに統治されることになった。当時のイングランドはフランスなどの欧州大陸の絶対王政とは異なり議会が一定の力を持っており、国王が統治を行うにあたり、議会の承認が必要とされる慣習があった。また、1215年に制定されたマグナ・カルタ(大憲章)によって、国王の権力には一定の制限が設けられるべきだという意識もイングランドに根付いていた。しかし、ジェームズ1世はこの伝統を軽視し、スコットランド国王としての統治経験をもとに、王権神授説に基づく強力な君主権を主張。「君主の権力は神から授けられたものであり、議会の制約を受けるものではない」とする考え方は、従来のイングランドにおける国王と議会の関係と相容れず、たびたび対立を引き起こした。

13世紀に制定されたマグナ・カルタの複製13世紀に制定されたマグナ・カルタの複製

火薬陰謀事件

16世紀の宗教改革以来、イングランドではカトリックとプロテスタントの対立が続いていた。特にエリザベス1世の治世ではイングランド国教会が確立され、カトリックへの圧力が強まった。1603年にエリザベス1世が死去したことで、カトリック教徒の母を持つ次の国王ジェームズ1世が、宗教政策を緩和してくれるのではないかとカトリック教徒たちの期待は高まったが、政策は変わらず圧力は続いた。教徒たちの失望が高まるなか、カトリック急進派のロバート・ケイツビー(Robert Catesby)を中心とするグループが、カトリックの支配を回復しようと画策。1605年11月5日の国会開会式で国王と議員が集まる議事堂を爆破する計画を立てた。ガイ・フォークス(Guy Fawkes)は実行役として雇われ、地下室に火薬を仕掛けた。しかし、陰謀を密告する匿名の手紙によって計画は事前に露見。これによりカトリックへの監視と抑圧がさらに強化されることとなった。これは火薬陰謀事件(ガイ・フォークス事件)と名付けられ、陰謀が発覚した11月5日は今もガイ・フォークス・ナイトと呼ばれ、各地で花火が上がる。

一方ではより純粋なプロテスタントの教会を目指し、国教会の改革を求めるピューリタン(清教徒)らもおり、宗教的自由を求めた一部のピューリタンは、新天地を求めて1620年にメイフラワー号で北米へ向かった。

火薬陰謀事件火薬陰謀事件を計画したテロリストたち。ただ1人現行犯逮捕されたのがガイ・フォークス(右から3人目)だった

ジェームズ1世 / 6世 James I and VI

ジェームズ1世 / 6世
母親はメアリー・スチュアート

ジェームズ1世/スコットランド王ジェームズ6世(1566年6月19日~1625年3月27日、在位1603~25年)は、スチュアート朝時代のスコットランド、イングランド、アイルランドの国王。母親はカトリックを信仰するメアリー・スチュアート(Mary, Queen of Scots)。1歳でスコットランド国王になるが、イングランドのエリザベス1世に跡継ぎがいなかったことから、36歳でイングランド国王も兼任。以降、ジェームズ1世以後のイングランド君主、英国君主は全員ジェームズ1世と妻であるアン・オブ・デンマークの血を引く。

徳川家康と同時代人

ジェームズ1世と徳川家康は同時代人であり、英政府と幕府は外交関係を持っていた。日本にいる三浦按針から手紙をもらったジェームズ1世は、貿易船「クローブ号」を日本へ向かわせ、徳川家康、秀忠親子と交渉して1613年に平戸に英国商館を築いた。秀忠からは鎧などが贈られ、これは現在もロンドン塔に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、クローブ号を指揮したジョン・セーリスの日本航海記を5回も読むほどだったらしい。

爵位を販売した

ジェームズ1世は、自分の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費によって逼迫ひっぱくした国家財政の要因を作った。アイルランド北部アルスター地方ではイングランドとスコットランドの入植者が土地を開拓していたが、先住のアイルランド人との対立が続き、反乱の危険もあった。そのため、ジェームズ1世は軍隊を維持するための財源確保と、新たな貴族層の創出を兼ねて、金銭で購入が可能な準男爵位を設け、富裕層に向け一般に販売した。

清教徒革命(イングランド内戦)

ジェームズ1世の後を継いだ息子のチャールズ1世も、父と同様かもしくはそれ以上に専制的な統治を進めた。度重なる宮廷の支出や外交政策のために財政難が深刻化し、議会に増税を求める場面が増えた。しかし議会側はこれに強く反発し審議が難航したため、チャールズ1世は議会の同意なしに税を徴収するなど、国民に不当な負担をかけた。これに対し、議会は権利の請願(Petition of Right)を提出して、国王の悪政に対抗した。権利の請願は、国王の独断による課税や不当な逮捕などの停止を要求した文書で、今ではマグナ・カルタや権利の章典とともに英国の3大法典の一つとされており、英国憲法の一部になっている。

清教徒革命は王権と議会の対立が頂点に達した結果として勃発した、イングランドで発生した内戦だが、直接の引き金は1642年にチャールズ1世が軍を率いて議会に乗り込んだことで始まった。貴族や伝統的な保守層による王党派と、ピューリタンを中心とする新興の商工業者や地方の地主層による議会派が戦った。当初拮抗した戦いは、政治家で軍人のオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が率いる鉄騎隊の活躍によって議会派が優勢となり、46年にチャールズ1世は捕らえられた。その後、王党派の反乱が続くなか、議会内の急進派は国王処刑を決断。49年にチャールズ1世が処刑され、共和制(イングランド共和国)が樹立されるという英国の歴史の中でも特異な結末を迎えた。絶対王政に対する議会の勝利を象徴する出来事であり、のちの立憲君主制の確立へとつながる重要な転換点となった。清教徒革命、ピューリタン革命とも呼ばれるが、英国ではイングランド内戦と表記される。

議会派の勝利が決定した1645年のネイズビーの戦い議会派の勝利が決定した1645年のネイズビーの戦い

イングランド共和国の誕生

1649年、イングランドは共和制へと移行し、護国卿クロムウェルの指導のもとスコットランド、アイルランドを含むイングランド共和国(コモンウェルス)が誕生した。やがてクロムウェルは王党派だけではなく人民主権を唱える平等派議員も弾圧し、中流市民の権利や利益を擁護する姿勢を取るようになる。貴族や教会から没収した土地の再分配を行ったり、反議会派の拠点であるカトリックのアイルランドへ侵攻を始め、49年8月にダブリンに上陸。各地で住民の虐殺を行いアイルランドはイングランドの植民地的な存在となる。以降、クロムウェルの統治は独裁的になり、議会や国民の不満が高まるなか、58年にクロムウェルはインフルエンザで死亡。ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルは翌59年に議会を召集したが、反議会派の反抗を抑えきれずまもなく引退し、イングランド共和国は11年の短い歴史に幕をおろした。

アイルランドの最後の戦いの場となった1651年のゴールウェイアイルランドの最後の戦いの場となった1651年のゴールウェイ

チャールズ1世 Charles I

Charles I
ジェームズ1世の次男

チャールズ1世(1600年11月19日~1649年1月30日、在位1625~49年)は、1600年、スコットランド王ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)と王妃アンの次男として生まれる。兄のヘンリー・フレデリックが18歳で急死したため、王位継承者となった。王太子の頃から政治に関わり始め、21歳で貴族議員に。25年にジェームズ1世が死去すると、チャールズ1世としてイングランド王に即位した。

熱心な芸術愛好家

チャールズ1世は熱心な芸術愛好家として知られ、英国史上有数の美術収集家の一人としても名を残している。ルーベンスやヴァン・ダイクといった北方フランドルの著名な画家を宮廷に招き、イングランドの宮廷文化の発展に貢献した。特に、フランドル出身のアンソニー・ヴァン・ダイクを宮廷画家に迎え、ヴァン・ダイクが描いたチャールズ1世の騎馬像や優雅な肖像画は、後世のチャールズ1世のイメージに強い影響を与えている。多くの美術品はクロムウェル政権によって売却されたが、一部は王政復古後のチャールズ2世の時代に取り戻され、ロイヤル・コレクションの重要な所蔵品となっている。

公開処刑された唯一の国王

チャールズ1世の処刑は1649年1月30日、通常のロンドン塔ではなくロンドン中心部のバンケティング・ハウス前で行われた。バンケティング・ハウスは、天井に父ジェームズ1世と王権神授説にまつわる絵画が描かれており、これはチャールズ1世自身がルーベンスに描かせたものだった。クロムウェルは人々に君主制の終焉を知らせる目的で、この場所を国王処刑の場として選んだという。チャールズ1世は寒さによる震えが処刑の恐怖に見えることを嫌い、厚手のシャツを2枚重ねにして臨んだといわれている。死後は、王党派と国教会の一派によって「チャールズ殉教王」として聖人に祭り上げられた。

王政復古による変化

1660年、イングランドにおいて11年間の共和制を経て王政が復活した。これは王政復古(Restoration)と呼ばれ、チャールズ1世の息子でフランスに亡命していたチャールズ2世がイングランド王として迎えられたところから始まる。だが王政復古は単なる国王の帰還ではなく、あらゆる側面で大きな変化をもたらした。まず、共和制時代にはさまざまなプロテスタント諸派が力を持っていたため、すっかり鳴りを潜めていた国教会がこれを機に復活。王政を支持する体制が再構築された。61年には議会も王党派が優勢となり、62年の統一法(Act of Uniformity)によって、国教会の礼拝様式を守ることが義務付けられた。これにより、ピューリタンやカトリックに対する弾圧が強まり、多くの非国教徒が公職を追われることとなった。

チャールズ2世は即位に際し、ブレダ宣言(Declaration of Breda)に基づいて、共和制政府に協力した者への恩赦を約束していたが、ブレダ宣言はチャールズ2世が無血でイングランド王位に復帰するために練り上げた政治的な宣言文に過ぎず、実際には父親チャールズ1世の処刑に関与した者たちは厳しく処罰された。さらに、1665年の大疫病(The Great Plague)や66年のロンドン大火(The Great Fire of London)といった大災害が続き、国は深刻な社会不安に見舞われた。経済面では、イングランドは対外進出を強め、60年に王立アフリカ会社(Royal African Company)が設立され、アフリカとの貿易が拡大。また、64年にはオランダとの間で第2次英蘭戦争が勃発し、北米のニューネーデルラント(現ニューヨーク)をイングランドが獲得するなど、海外植民地政策が推進された。

名誉革命と立憲君主制

チャールズ2世の死後、1685年に弟のジェームズ2世が即位した。するとジェームズ2世はカトリック信仰を公然と擁護する方向に舵を切り、これはプロテスタントの国教会を支持する議会にとって大きな懸念材料となった。もともとジェームズ2世は父であるチャールズ1世の処刑後、兄とともにフランスに亡命し同地でカトリックに感銘を受け改宗していた。チャールズ2世の存命中である79年にジェームズ2世の王位継承を阻止しようとする王位排除法案(Exclusion Bill)が議会から提出されたが、議会を解散することで成立は阻止された。こうして国王となったジェームズ2世は、信仰の自由を掲げてカトリックへの制約を緩和し、王権によって宗教政策を進める姿勢を強めた。87年には寛容令を発布し、カトリックや非国教徒への公職就任の道を開き、さらに、王は軍隊の要職にもカトリックを信仰する者を任命し、議会の意向を無視して独裁的な統治を試みた。

こうしたジェームズ2世の政策に対し、イングランド国内では反発が強まったが、決定的だったのは88年に生まれたジェームズ2世の息子ジェームズであった。それまで王位継承者と目されていたのはジェームズ2世のプロテスタントを支持した娘メアリーだったが、新たに生まれた男子が成長すれば、イングランドのカトリック支配が続く可能性が高まる。これを危惧した議会の指導者たちは、メアリーの夫でオランダ総督のオレンジ公ウィリアム3世に支援を求めた。ウィリアムはプロテスタントの擁護者として欧州での影響力を確立しており、この招きを受けて88年11月、軍を率いて英南西部へ上陸した。ジェームズ2世は軍を動員しようとしたが、軍人や貴族の多くがウィリアム側に寝返った。ジェームズ2世はフランスへ亡命し、事実上の退位となった。この出来事は、血を流さずに政権交代が実現したことから、名誉革命(Glorious Revolution)と呼ばれている。その後、議会は89年に権利の章典(Bill of Rights)を制定し、王権の制限を明確に定めた。これによりイングランドは立憲君主制への道を確立し、議会の権力が国王を上回る近代国家への一歩を踏み出すことになった。

1688年、オレンジ公ウィリアム3世とオランダ軍が英南西部ブリクサムに上陸1688年、オレンジ公ウィリアム3世とオランダ軍が英南西部ブリクサムに上陸

オリヴァー・クロムウェル Oliver Cromwell

Oliver Cromwell
英雄か暴君か

オリヴァー・クロムウェル(1599年4月25日~1658年9月3日、任期1653~58年)は、イングランドの政治家で軍人、イングランド共和国初代護国卿(Lord Protector)。英国の歴史の中でも英雄と暴君の両面を持つ、今も評価が分かれる人物。厳格なピューリタンであり、信仰に基づいた強い意志を持つ。個人的な生活は質素であり、華美なものを好まず、演劇やクリスマスの祝祭を禁じた。一方で、政治家や軍人としては、冷徹で目的のためには徹底的に行動する現実主義者。自らが神の摂理*に導かれていると確信していたため、自分の行動に迷いがなく、反対者に対しても容赦のない態度をとることが多かった。

* 神が世界の出来事や人間の運命を計画し導いているという、ピューリタンに広まる概念

議会政治の基礎を築いた

絶対王政に対抗し、国王チャールズ1世を処刑したことで、王権神授説を否定し、議会の力を強める礎を築いた。これは後の名誉革命や立憲君主制の発展につながった。「議会政治の父」としてロンドンのウェストミンスター宮殿前には19世紀に作られたクロムウェル像が立っている。軍事的な天才ともいわれ、鉄騎隊を率いイングランド内戦で勝利。また、軍の近代化を進め、実力がある者が昇進するシステムを導入した。しかし共和制を樹立したものの護国卿という称号を用い、自身が王に代わって事実上の独裁者となった。

アイルランド政策の残虐性

ユダヤ人のイングランド帰還を許可し、英国社会の多様化に貢献した一方で、カトリック、特にアイルランドに対しては非常に厳しい政策をとった。1649年のアイルランド遠征では、数千人のカトリック住民が虐殺され、土地が没収された。現代のアイルランドでは、「虐殺者」として強く嫌われている。

社会

ペストの大流行

1665~66年、ロンドンを中心にイングランドを襲ったペストの大流行(The Great Plague)は、14世紀の黒死病以来、英国で最も壊滅的な被害を出した疫病の一つだった。ペスト菌を媒介するノミがネズミを通じて人々に感染を広げたのが原因と考えられているが、当時のロンドンは衛生状態が極めて悪く、人口密集地では病気の蔓延まんえんが加速した。これによりロンドンの経済と社会は大混乱に陥った。富裕層や政府関係者は次々と都市を離れ、チャールズ2世や宮廷も英東部オックスフォードへ避難した。反対に貧しい人々は都市にとどまらざるを得ず、その多くが感染して命を落とした。

最初の感染者は65年4月ごろで、ロンドン東部で確認された。感染が最も早く広がったのは、当時はスラムのような場所だったウェストエンドのセント・ジャイルズ地区(St Giles-in-the-Fields)。貧しい労働者階級が密集して暮らす環境が病気の拡大を助長したとされている。

また、ロンドン東部の貧困層が住むスピタルフィールズ(Spitalfields)やホワイトチャペル(Whitechapel)でも広がった。この地域は港に近く、外国からの船が頻ひんぱん繁に出入りしており、疫病が侵入しやすい環境だったともいえる。やがて夏にはペストの感染がロンドン中心部に波及。8月には、毎週7000人以上が死亡するなど、ロンドンは完全に崩壊状態に陥った。死体が街中にあふれ、死者を運ぶペスト運搬人が遺体回収のために「Bring out your dead」(死者を出せ)と叫ぶ光景が日常となったという。死者の多さから、通常の墓地では埋葬が追いつかず、大規模なペスト集団墓地(Plague Pits)が作られた。代表的な埋葬地はフィンズベリー(Finsbury)やクラーケンウェル(Clerkenwell)などにあった。66年になると、冬の寒さも影響し、感染は次第に減少していった。しかし、ロンドンの人口の約20パーセントが死亡し、社会は大きな打撃を受けた。

ペストが蔓延し、往来にも死体が放置されたロンドンの街ペストが蔓延し、往来にも死体が放置されたロンドンの街

ロンドン大火

ペストの悪夢もまだ冷めやらない1666年9月2日に起きた大火事で、4日間にわたり燃え広がり、ロンドンの街は灰燼かいじんに帰した。火元はシティ内のプディング・レーン(Pudding Lane)にあるパン屋で、強風や乾燥した気候も災いし、火はすぐに木造建築が密集するロンドン市内へ広がり、聖ポール大聖堂を含む市内の大部分を焼き尽くした。火災は9月6日まで続き、約1万3200軒の家屋、87の教会が焼失し、死者は6人、家を失った市民は7万人(数字は諸説あり)、燃えた範囲はロンドンの5分の4に及び、金融や商業の中心地が壊滅した。市民も消化活動に協力したものの、当時は消火設備が未発達で、強風により延焼が早まった。最後の手段として建物を破壊し延焼を防ぐ方法が試みられ、最終的に火の勢いを抑えることができた。また、当時は火災の原因が分かっておらず、カトリック教徒や外国人による放火説が流れた。

この大火事により67年に再建法(Rebuilding Act)が設定され、木造家屋が禁止になりレンガや石造りの建物が推奨された。また、建築家クリストファー・レン(Christopher Wren)がロンドンの再建計画を提案し、新しい聖ポール大聖堂を含む50の教会の再建を指揮した。さらに、前年より猛威を奮っていたペストは、この火災でネズミやノミが激減したことで終息したという。

火に包まれたロンドン中心部と、避難する市民の群れ火に包まれたロンドン中心部と、避難する市民の群れ

チャールズ2世 Charles II

Charles II
若くして亡命暮らし

チャールズ2世(1630年5月29日~1685年2月6日、在位1660~85年)は、チャールズ1世と妻でフランス王ルイ13世の妹ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれた。イングランド内戦の危険が高まったため、46年に母たちとフランスに亡命し、以降欧州各地を転々とする。やがてイングランドでクロムウェルの息子が護国卿の座を降りたことから、イングランドに戻り即位したのは1660年だった。

陽気な王様

清教徒革命の後、国民はクロムウェルによる厳格な宗教的価値観に疲れていた。そこへ亡命先のフランスから戻ってきたのがチャールズ2世だった。フランス宮廷の影響を受けたチャールズ2世は、個人の楽しみや娯楽、文化を重要視したため、世の中も活気づいた。社交的な性格で機知に富み、誰にでも寛容な態度を示すチャールズ2世は、陽気な王様(The Merry Monarch)と呼ばれ庶民からも愛された。1685年に死去するが、その際にも「I'm sorry, gentlemen, for being such a long time a-dying」(諸君、こんなに長く死にかけていて申し訳ない)というジョークを言ったとされる。

たくさんの愛人

チャールズ2世は多くの愛人を抱え、多くの庶子をもうけたことでも知られる。公式に認知された庶子は12人で、その母親の1人が女優として先駆者的存在のネル・グウィン(Nell Gwyn)だった。当時の軍人で作家のサミュエル・ピープスに「かわいくて機知に富んだネル」とも呼ばれたグウィンは、庶民から国王の愛人へと駆け上がったシンデレラ的な存在として語り継がれ、王政復古時代を象徴する人物の1人となった。グウィンはほかの愛人とは異なり、国王に贈り物や称号を要求せず、庶民的なユーモアを持ち続けたことから、国王と庶民をつなぐ架け橋のような存在であったとされる。

文化

文学・演劇

ジェームズ1世の時代は、エリザベス朝時代の文化的遺産を引き継ぎつつ、新たな発展を遂げた。シェイクスピアが後期の傑作「マクベス」「テンペスト」などを発表したほか、ジョン・ミルトンが英文学史上の大作といわれる「失楽園」を著した。

イングランド内戦の間は、ピューリタンの影響で演劇が禁止されるなど文化活動が制限されたが、王政復古後のチャールズ2世の時代には、王政復古演劇というジャンルが発展。女性が舞台に立つようになり、アフラ・ベーンのような女性劇作家も登場した。また、この時代は風刺文学が発展し、ジョン・ドライデンが活躍した。名誉革命を経て立憲君主制へと移行してからは、ジョン・ロックの「統治二論」が出版された。

建築

ジェームズ1世とチャールズ1世の時代、イニゴ・ジョーンズがルネサンス建築を英国に導入し、バンケティング・ハウスやグリニッジのクイーンズ・ハウスなどを手掛けた。王政復古後、クリストファー・レンがロンドン大火後に聖ポール大聖堂を再建し、英国バロック建築の代表となる。

グリニッジのクイーンズ・ハウスの内部、青い手すりの螺旋階段グリニッジのクイーンズ・ハウスの内部

科学

1660年に王立協会(Royal Society)が設立。科学の発展と普及を目的としたもので、多くの著名な科学者が関わった。アイザック・ニュートンもその1人で、「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」を出版。万有引力の法則を含むこの著作は、物理学の歴史において最も重要な書物の一つになった。

アイザック・ニュートンアイザック・ニュートン

出版

英国での新聞や雑誌文化がこの時代に発展。1665年に活版印刷の「ロンドン・ガゼット」紙(The London Gazette)が英国初の公式な新聞として発行される。同紙は政府公報として、王室の布告や政府の決定事項、法律の公布などを掲載。現在も発行が続く世界最古の新聞の一つである。それ以前、ニュースや公布は主に手書きの「ニュース・ブック」や、タウン・クライヤーなどから口頭で伝えられていた。

ロンドンの大火を報じる「ロンドン・ガゼット」紙ロンドンの大火を報じる「ロンドン・ガゼット」紙

娯楽・食

もともと演劇は庶民にも人気が高かったが、劇場の再開が認められた王政復古後は風刺劇や喜劇が流行した。そのほかは、見世物小屋、闘鶏、賭け事、酒場が庶民の娯楽の場だった。また、コーヒーハウスも流行し、知識人だけでなく商人や労働者の社交の場にもなった。最初のコーヒーハウスは1652年にオックスフォードで開業。当時の最新の飲料としてコーヒーが好まれただけではなく、情報交換や政治討論の場としても重要な位置を占めていた。紅茶は一歩遅れて輸入されたが、当時は貴族の飲むものだった。

王政復古後には貴族の間でフランス宮廷の影響を受けた洗練された料理が広まった。バターやワインを使ったソースを多用する料理が普及したほか、フランスの食卓マナーも導入され、ナイフとフォークを使う習慣が貴族の間で定着した。

ジェームズ2世 / 7世 James II and VII

James II and VII
チャールズ2世の弟

ジェームズ2世/スコットランド王ジェームズ7世(1633年10月14日~1701年9月16日、在位1685~88年)は、イングランド、スコットランド、アイルランドの国王。父親はチャールズ1世。兄のチャールズ2世の死後、51歳で王位を継承した。しかしカトリック政策が反発を招き、即位からわずか3年で名誉革命が起こりフランスへ亡命した。この後、国王は国教会の信者でなければならないとする法律が制定されたため、ジェームズ2世は英国で最後のカトリック国王となった。

海軍との関わり

ジェームズ2世は王位に就く前、ヨーク公ジェームズとして海軍を指揮していた。1660年代には総司令官として当時海軍省事務次官だったサミュエル・ピープスと共にイングランド海軍の再建に尽力。近代的な海軍の基礎を築いた。65年の第2次英蘭戦争では、実際に海戦に参加し、戦場での指揮経験もあった。ヨーク公の名にちなんで、米国のニュー・アムステルダムはニューヨークに改名された。ちなみに、兄のチャールズ2世はジェームズ2世をロンドン大火の消火活動の責任者に抜擢した。

カトリック信仰

熱心なカトリック教徒であったが、政情を考慮して10年にわたりこれを伏せていた。しかし、海軍総司令官としての職務を続けるにあたり、イングランド国教会への忠誠を誓う手続きが求められたため、これを拒否して辞職。これによって、ジェームズ2世のカトリック信仰は公然の秘密となった。1669年に正式にカトリックへ改宗し、その後は公の場でも信仰を貫いた。88年の名誉革命でイングランドを追われた後は、従兄弟にあたるフランスのルイ14世の庇護を受け、ヴェルサイユ宮殿で生活。一時期はアイルランドで軍隊を編成し、王位奪還を試みたが、晩年はフランスの修道院で過ごし、宗教に没頭した。


 

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