第55回 Study to be quiet ― 静かなることを学べ
大抵の英国人宅の玄関扉にはドア・ノッカーがあり、その多くが馬蹄の形をしています。馬蹄とは馬の蹄に付けるU字型の製具ですが、これにより馬は長距離を走れるようになりました。西欧の言い伝えによりますと、中世のころ、鍛冶屋の神様、聖ダンスタンが悪魔を懲らしめるため、彼の足に馬蹄を打ち付けました。悪魔は痛みに堪えかね、玄関にそれを飾る家には訪れないと約束したと言います。以来、悪魔除けになったというわけです。
教会正面にはダンの顔とアイザックの石碑(右下)
さぞ立派なドア・ノッカーがあるに違いないと、シティの聖ダンスタン西教会を訪れました。ところが何もありません。教会には悪魔が訪れないので必要ないそうです。その代わり、玄関口には同教会世話役のアイザック・ウォルトンの石碑と司祭かつ詩人ジョン・ダンの石の彫刻がありました。ジョンの説教の一説「誰がために鐘は鳴る」は有名ですが、一方のアイザックも「釣魚大全」という350年を超えるロングセラー作品の作者です。
ドア・ノッカーは悪魔除けの馬蹄に由来
教会の近くで生地商を営むアイザックは、ジョンと出会って人生が大きく変わりました。清教徒革命の不寛容の時代、愛する妻や子供を次々に亡くし、国教徒として信心を篤くした彼は「Study to be quiet(静かなることを学べ)」という境地に至ります。彼の著書「釣魚大全」(1653年)はこの教会で印刷され、欽定訳聖書に次いで印刷数が2番目に多い英語の本と言われます。これは単なる釣りの解説本ではなく、人生の奥義が散りばめられた哲理の書です。
「釣魚大全」の著者アイザック・ウィルトン
また、この教会にはボルチモア初代男爵の墓もあります。彼はチャールズ1世の時代、カトリック教徒のための植民地を建設し、王妃の名前「メリー」からメリーランド植民地と名付けました。英国が建設したカトリック教徒の植民地はメリーランドだけです。そして王が処刑された1649年、信教の自由を認めた(キリスト教に限られますが)メリーランド寛容法が成立し、これが後に米国合衆国憲法修正第1条(信教の自由)に反映されます。
初代ボルチモア男爵
この教会の最もユニークな点は、八角形の建物にキリスト教の7つの宗派――国教会、ルター派、復古カトリック、ローマン・カトリック、ルーマニア正教、アッシリア東方派、オリエンタル派の祈祷所が設けられ、宗派の統合を謳っていることです。これまで多くの人が信教の自由を大義に殉教してきました。ときには釣りに出掛け、自然に囲まれた自分を見つめ直して「静かになる時間」が大切。もちろんその際、ドア・ノッカーは不要です。
聖ダンスタン西教会には7つの宗派が同居