詩人・芸術家・預言者、と呼ばれる英国の巨星
ウィリアム・ブレイク
について知らない5つのこと
ウィリアム・ブレイク(William Blake 1757〜1827年)は詩人、芸術家、さらには預言者などとも呼ばれ、英国ロマン主義の先駆者と言われている。生きている間は、その独特で難解な作風のために狂人とすら見なされ、美術界や文学界から無視されていたが、後に作品に秘められた哲学的で神秘的な意味とその創造力が再発見され、批評家たちから高い評価を受けるようになった。現在では、英国で最も重要な芸術家の一人とされており、2002年にはBBCの「最も偉大な英国人100人」で38位にランクされた。来月9月11日からはロンドンの美術館テート・ブリテンで大規模なブレイクの回顧展が開催されるが、ここでは一足早く、ウィリアム・ブレイクがどのような人物だったのか、その知られざる素顔をご紹介しよう。
文:英国ニュースダイジェスト編集部
参考:Blake Societyなど
「ニュートン」(1795年 版画に彩色)科学一辺倒の当時の世相を批判し描かれた。
手にコンパスを持つ物理学者アイザック・ニュートンの体は、岩と同化を始めている
1生粋のロンドナーだった
ウィリアム・ブレイクは1757年11月28日、ロンドンの繁華街であるソーホー地区の28 Broad Street(現在のBroadwick Street)に7人兄妹の3番目の子供として生まれた。父親のジェームズは靴下屋を営んでおり、一家の暮らしは裕福とは言えないまでも比較的快適だったとされている。母親のキャサリンは英国国教会とは異なるプロテスタント分離派を信仰しており、ブレイクはこの母親から大きな影響を受け、その宗教観がその後の人生を決定した。
ブレイクが70年近いその生涯でロンドンを離れたのは、イングランド南部サセックスの海沿いの村に住んだ3年間のみ。ロンドンの街の暗さや悲惨な部分を嫌ったブレイクだが、同時にロンドンだけが「自分の研究を続けることができ、空想を追い、夢を見ることができる」場所なのだと後に書いている。
ブレイクは生涯の最後の6年間を、トラファルガー広場から東へ延びる大通り、ストランドに近い3 Fountain Courtで過ごした。もう存在しないが、パブ「ザ・コール・ホール」の真後ろに当たり、パブの裏に回れば、ブレイクが日々眺め、「黄金の棒」と呼んだ変わらぬテムズ川の流れを今も見ることができる。
「自画像」(1802年 鉛筆、水彩)ブレイク45歳のころの作。現存する唯一の自画像といわれている
2銅版画の新しい技法を開発
少年の頃から絵や詩作の勉強を始め、1772年には銅版画家のジェームズ・バシーアのもとに弟子入りしたブレイクは、一時期は画家を目指しロイヤル・アカデミーに入学したことがあったものの、銅版画家を職業に選び、自身の生活を支えた。当時の版画家たちの主な仕事は、画家から提供された原画を忠実に複製することだったが、あふれるような創意や宗教的で過激なヴィジョンを持つブレイクにとって、そのような仕事は満足のいくものではなかったようだ。
やがてブレイクは、1787年ごろに新しいレリーフ・エッチングの方法を発明し、その方法を自身の詩作の公開に応用する。それは、耐酸性の液体で銅板に絵の輪郭と文章を描き、それを酸に浸けることで、耐酸液が塗られていない部分が溶け、絵の輪郭と文字がくっきりと浮かび上がる色彩印刷だった。その手法を応用した彩色印刷(Illuminated Printing)によって、ブレイクは詩とイメージの融合を実現することが可能になった。さらには、出版社を使わず、自分の印刷機で安価に自分の本を印刷することもできるようになったのだ。ブレイクはこの新しい方法を使って、「無垢と経験の歌」などの詩画集を次々と発表。独自の芸術理念を追求した。
「虎」(1794年 版画に彩色)「無垢と経験の歌」の中の一編
「憐み」(1795年ごろ 版画に彩色)シェイクスピアの「マクベス」の中の一節
「そして、世間の同情とはまるで、突風にまたがる生まれたままの赤子のようだ。
あるいは、目に見えぬ早馬に乗る天の智天使のようだ」を基にしている
3進取の気性に富んだアナーキスト
その作品の多くが聖書や神話を題材にしているため、ブレイクは神秘主義者、幻視者などと呼ばれることが多い。しかしブレイクは現実社会に背を向けていた訳ではなく、神や悪魔は自分たちの暮らす現実社会にいると考えていた。ブレイクの生きた時代、欧州では産業革命(1760~1830年代)とフランス革命(1789〜1799年)という大きな社会的変化が起きており、英国では工業化による都市の成立、労働者階級の誕生、中流階級の成長、消費社会の定着、さらには奴隷貿易を含む貿易の拡大が始まっていた。こうした近代化には多くの負の側面もあったため、とりわけ変化の大きかった首都ロンドンに生まれ育ったブレイクが、それを見過ごすはずはなかった。
生涯を通じ、人種や性の平等を信じていたブレイクは、既成の政治グループには参加していなかったものの、その政治的な見解を神秘的な象徴主義に落とし込み、普遍的なものとして作品で表現した。女性解放運動に共鳴し、奴隷制度に異を唱え、結婚という制度が女性の奴隷化につながるとして、自由な愛の形を追求する人々を応援した。また、罠や網で捕まえられていないものを食べるべき、という考えから菜食主義者でもあった。
「蚤の幽霊」(1819年 鉛筆、金粉)占星術師のジョン・ヴァーリーに頼まれて降霊術の会で描かれた。左手にはドングリの実で作られた杯、右手には植物のトゲを持つ
4盛り上がるプロムス最終夜の曲の歌詞に
英国の音楽の祭典「BBC プロムス」最終夜で、毎年観客総立ちで合唱する曲としておなじみの「エルサレム」は、英国クラシック界の発展に貢献した重鎮チャールズ・ヒューバート・パリーが1916年に作曲した聖歌だ。第一次世界大戦中、国民の愛国心を高揚させる曲を、との依頼を受けたパリ―だが、自由主義者のバリーは戦争を賛美することに疑問を持っていたため、「あらゆる権威や権力に屈することのない自由な精神活動を続ける決意」を謳ったといわれるブレイクの1804年の預言書「ミルトン」の序詞を選び、これに曲を付けた。その詩は下のようなものだ。
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And did those feet in ancient time,
Walk upon England's mountains green:
And was the holy Lamb of God,
On England's pleasant pastures seen!
And did the Countenance Divine,
Shine forth upon our clouded hills?
And was Jerusalem builded here,
Among these dark Satanic Mills?
Bring me my Bow of burning gold:
Bring me my Arrows of desire:
Bring me my Spear O clouds unfold:
Bring me my Chariot of fire!
I will not cease from Mental Fight,
Nor shall my Sword sleep in my hand,
Till we have built Jerusalem,
In England's green and pleasant Land. -
古代 あの足が
イングランドの山の草地を歩いたというのか
神の聖なる子羊が
イングランドの心地よい牧草地にいたなどと
神々しい顔が
雲に覆われた丘の上で輝き
ここに エルサレムが 建っていたというのか
こんな闇のサタンの工場のあいだに
我が燃える黄金の弓を
渇望の矢を
群雲の槍を
炎の戦車を 与えよ!
精神の闘いから ぼくは一歩も引く気はない
この剣をぼくの手のなかで眠らせてもおかない
ぼくらがエルサレムを打ち建てるまで
イングランドの心地よいみどりの大地に
(訳「エルサレム」ウィキペディアより)
「エルサレム 巨人アルビオンのエマネーション」
(1820年 レリーフ・エッチングに彩色(部分))預言書「エルサレム」の28枚目
「涜神者カパネウス」(1820年代 鉛筆、ペン、インク)ダンテの「神曲」 地獄篇の挿絵の1枚。
ギリシャ七王の1人カパネウスは、死んで地獄に堕ちても、傲慢にふてぶてしく炎の上に横たわっている
5安住の地が定まったのは2018年
1827年8月12日に死去し、ロンドンのバンヒル・フィールズ共同墓地(Bunhill Fields: 38 City Road London EC1Y 1AU)に埋葬されたブレイクだが、第二次世界大戦で墓地が損傷を受け一部が後に公園になったことから、長らく正確な墓の位置が分からなくなっていた。これまでは「この近くに画家で詩人のウィリアム・ブレイクと妻のキャサリン・ソフィア眠る」という仮の墓碑が立っていたのみだが、ブレイクの研究者たちが運営する団体「ブレイク・ソサエティー」と、熱心なファンの尽力により正しい位置が判明。
クラウド・ファンディングを使い、その墓から20メートルほど離れた場所に、2018年に新しい墓碑が建立され、命日に合わせて除幕式が開催された。墓碑には「ウィリアム・ブレイクここに眠る 1757~1827 詩人・芸術家・預言者」という文言とともに、ブレイクの詩「エルサレム」の2連が刻まれている。ブレイク・ソサエティーの主催によるこの式には、小雨にもかかわらず多くのファンが集まり、スピーチ、合唱、献花などが盛大に執り行われた。
2018年に建立された新しい墓碑。命日に除幕式が行われた
「キャサリン・ブレイク」(1802年 鉛筆、水彩)自画像と同時期に描かれた妻キャサリンの肖像。
キャサリンはブレイクを崇拝し、作品制作の手伝いもした
ウィリアム・ブレイクの生涯
1757 | 11月28日、ロンドンの 28 Broad Street に誕生 |
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1765 | 木の上に天使などを見るなど、神秘体験が始まる |
1767 | ストランドにあるドローイング・スクールに通い始める |
1772 | 銅版画家のジェームズ・バシーアのもとに弟子入りする |
1778 | 開校したばかりのロイヤル・アカデミーに学ぶ |
1779 | 銅版画家として、J・ジョンソンに雇われる |
1781 | 将来の妻キャサリン・ブッチャーと出会う |
1782 | ロンドン南部バタシーの聖マリー教会で結婚。23 Green Street に入居 |
1787 | 新しいレリーフ・エッチングの技術を使い、彩飾印刷(Illuminated Printing)を開始 |
1789 | 「無垢の歌」を発表 |
1790 | 「天国と地獄の結婚」を発表 |
1793 | ロンドン南部ランべスの 13 Hercules Buildings (現在の 23 Hercules Road)に引っ越し |
1794 | 「無垢と経験の歌」を発表 |
1797–9 | 銅版画家としての仕事難に苦しむ |
1800 | 英南部サセックスのフェルパム (現ウェスト・サセックス)に移住 |
1803 | ロンドンに戻り、17 South Molton Street に入居 |
1804 | 預言書「ミルトン」と「エルサレム」の制作開始 |
1808 | 「最後の審判」の水彩画を完成 |
1809 | 実家の靴下屋の2階で水彩画の展覧会を開催。「不運な狂人」と週刊紙「ジ・エグザミナー」に評される |
1821 | 最後の住まいとなる 3 Fountain Court に引っ越し |
1825–6 | ダンテの「神曲」の挿絵の依頼を受ける |
1827 | 8月12日、肝不全により死去 |
ウィリアム・ブレイク展
2019年9月11日(水)~2020年2月2日(日)
10:00-18:00(毎月1週目の金は22:00まで)
£18
Tate Britain
Millbank, London SW1P 4RG
Tel: 020 7887 8888
Pimlico駅
https://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/exhibition/william-blake-artist