英国特有のスタイルであるビクトリアン様式とは、ハノーバー朝・ビクトリア女王(在位1837~1901)時代の建築様式のこと。産業革命以降、世界の「工場」として大英帝国が飛躍的に繁栄した時代に、その栄華を世に示すがごとくこの様式は発展したのである。
産業革命の功績
極めて装飾的なデザインが特徴であるビクトリアン様式が発達した19世紀、大量輸送機関である鉄道の発達により、ロンドンでは市街化が格段に進んでいった。そして、産業革命により大量生産が可能となった鉄やガラスが建築素材として使用され始めたのもこの頃からだ。「太陽の沈まぬ国」と称えられるほど、大英帝国ではかつてないほどの勢いで都市化が進み、それを象徴するかのように華やかなビクトリアン様式が広まったのである。
しかし残念ながら、富が蓄積し建築に巨万の資金が投入出来たにも関わらず、この時代が建築史に残した功績は意外にも乏しい。これは、石造・組石造による建築が限界に近付いていた結果であったとも言えるのではないだろうか。産業革命がもたらした鉄の生産が本格的に建築スタイルに影響し始めるのは20世紀になってからで、ビクトリアン様式はルネサンス様式の延長線上として、古典建築のモチーフを断片的にデザインに散りばめたに過ぎなかった。ただ、ビクトリアン様式が英国において一時代を築いたことは、紛れもない事実。ナイツブリッジなどを中心に現存する縦長屋の建物は、往時の栄華を今日に伝えている。
ビクトリアン様式から新古典様式へ
ビクトリアン様式と時を重ねるようにして、当時の西欧社会では「新古典主義」と称される建築様式が支配的になっていった。歴史上の様々な様式が混在するなどして多様化したこのスタイルを、1つのセオリーに沿って説明することは容易ではない。だが各国の共通点として、依然として古代ギリシャ建築や古代ローマ建築が模範とされていたことが挙げられる。
例えば、18世紀以降の英国では、豪華絢爛なバロック調やロココ調の建物が否定的に見られるようになっていた。そこで英国的様式の確立を目指すべく、西洋建築の原点であるギリシャやローマの建築が再び注目を浴びた。スタイルは多様化していき、古典だけに捉われずゴシック建築を復興させる「ゴシック・リバイバル」という様式も生まれた。
ビクトリアン・ゴシックの大家ジョージ・ギルバート・スコット卿(1811-1878)は、構造体に鉄骨造を駆使することで、英国を代表する建築を築き上げた。ユーロスターの新しい発着駅であるセント・パンクラス駅の赤レンガの駅舎は、彼の代表作である。また、ほぼ同じ時期にチャールズ・バリー卿により設計された国議事堂も、ゴシック・リバイバル様式だ。
余談になるが、先述のジョージ・ギルバート・スコット卿の家系は何代にもわたる建築家一族である。ジャイルズ・ギルバート・スコット卿(1880-1960)は彼の孫にあたり、テムズ河沿いにそびえ立つバタシー火力発電所やバンクサイド火力発電所(現テート・モダン)を設計している。都市に大建築をもたらす火付け役となった産業革命の功績は時と世代を超え、現在も鮮やかに英国を彩っているのだ。
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