第57回 人生の不幸は社会の上層と下層に最も多い
金融街のすぐ北にバンヒル墓地があります。この名前、サクソン時代から「Bone Hill=骨の丘」と呼ばれていたことに由来します。現在はシティが管理する広い公園になっていますが、17世紀半ばから19世紀半ばまで非国教徒専用の墓地として有名でした。「天路歴程」の著者ジョン・バニヤンや「ロビンソン・クルーソー」の著者ダニエル・デフォー、詩人のウィリアム・ブレイク、讃美歌の父アイザック・ウォッツら著名文化人たちがここで眠っています。
非国教徒らが眠るバンヒル墓地
17世紀、ロンドンでペストが猛威を振るい、死亡者が急増しました。英国国教会は同じプロテスタント派でも宗派の異なる非国教徒を自らの墓地に埋葬することを拒み、やむなくシティは彼らを埋葬する特別な墓地を作りました。以来、19世紀半ばまでにここに埋葬された人は12万超。宗派の違いにはあの世でも埋められない深い溝があるようです。
ダニエル・デフォーの墓
「人生の不幸は社会の上層と下層に最も多い」と喝破したダニエル・デフォーは、浮き沈みの激しい人生を送りました。商人の子としてシティで生まれ、非国教徒として商売を営み、下層から這い上がってきました。ところが1685年のモンマス公の反乱に参加してから彼の人生が変わります。政治活動に身を置き、政治パンフレットを書き始めるのです。アン女王の時代にはジャコバイト運動(名誉革命の反対派運動)や相次ぐ対外戦争を巡って政治が不安定になりました。政治家は人民を誘導できる文筆家を必要としたのです。
波瀾万丈の人生を歩んだダニエル・デフォー
政治家ロバート・ハーレー(初代オックスフォード・モーティマー伯)に支援されたデフォーはトーリー党の情宣係として活躍します。特に1707年のグレート・ブリテン王国の誕生時には、イングランドとスコットランドの連合を支持する情宣活動だけでなく、スコットランドでスパイ活動や賄賂の渡し役としても活躍しました。何を書いても珍奇(ノヴェル)な時代、彼が英国の小説(ノヴェル)を書いた先駆者とたどることも出来るでしょう。
「ロビンソン・クルーソー」はデフォーの還暦間近の作品
1711年、ハーレー蔵相が南海会社を設立したときもデフォーはその影にいました。南米大陸との貿易がいかに儲かるかを力説。この結末は、有名な南海泡沫事件になりました。その後もデフォーは小説を書きながら、事業に手を出しては失敗。借金の取り立てから逃れて、バンヒル墓地近くで息を引き取ります。彼自身、ロビンソン・クルーソーに負けない冒険人生を歩んだようです。
デフォーが最期を迎えたロープメーカー・ストリートは金融激戦区域