第195回 グラッドストーン元首相像の赤い手
ロンドン東部ストラトフォードにあるボウ教会の敷地の西端に19世紀の政治家、ウィリアム・グラッドストーン元首相の銅像があります。幹線道路A11(ボウ・ロード)をシティから東に向かって走ると銅像が教会と共に正面に迫ってきますのでこの像をご存知の方も多いかもしれません。また、像の右手だけ赤く染められていることには遠目でも気が付きます。でもなぜ、グラッドストーン像の右手は赤いのでしょうか。
グラッドストーン像の赤い手
1868年、グラッドストーン第一次内閣は財政赤字再建のため、新しい税金としてマッチ税の導入を提案します。しかし当時はまだ電気が普及しておらず、ろうそくやガス灯、オーブンに火を点けるにもマッチを利用しており、生活必需品のマッチに税金が課せられることに市民が大反対しました。大激論の末、グラッドストーン内閣はマッチ税導入を見送り、1871年には新税導入失敗の責任を取って財務相が辞任しました。
ウィリアム・グラッドストーン元首相
それから約10年後の1882年、グラッドストーン首相の銅像がボウ教会の西端に建てられます。この銅像は近くのマッチ製造会社ブライアント&メイ社から寄贈されました。同社はボウ教会近くのマッチ工場で地元の雇用を支え、「安全な商品」と宣伝してマッチを製造販売していました。マッチ税導入を見送ったグラッドストーン首相への感謝の表れとして銅像の除幕式には数万人もの地元民が集まったと当時の新聞が伝えています。
元ブライアント&メイ社のマッチ工場の建物(現在は住居)
ところが同社のマッチ工場では1888年、大きなストライキ運動が発生します。少女たちが過酷な労働条件で働かされ、工場内に蔓延する有毒物質の白リンにより、多くの健康被害が出ていたからです。少女たちのストライキはその後、女性解放運動や社会主義運動に発展しました。そしてその100年後の1988年から、この事件を風化させないよう銅像の右手が血のように赤く染められるようになり、今も毎年、赤色が塗り重ねられています。
1888年、マッチ工場で働く少女たち
アンデルセン童話「マッチ売りの少女」(1845年)のように、19世紀の欧州は産業革命で多くの労働者が必要になり、貧しい子どもたちは過酷な労働を強いられました。「マッチ売りの少女」も少女たちによるマッチ工場ストライキも悲しいお話です。でも、胸を痛めるだけでなく、こうした悲劇を繰り返してはならないと後世に伝えていくことが大切です。私たちが健全な精神を失わないよう、守護天使となった少女たちが見守っています。
マッチ工場の様子を描いた銅版画
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