第212回 日英交流と北極海航路 - 英国王と徳川家康
寅年生まれの人物を調べていたら、1603年にイングランド王に即位したジェームズ1世、そしてその年に江戸幕府を開いた徳川家康が共に寅年でした。家康は1542年生まれ、ジェームズ1世はその24歳年下です。実は、日英交流400年を祝して英国王室承認の下、セントヘレナで2013年に発行された金貨と銀貨の記念コインに、この両名の肖像が刻まれています。またコインの反対側にはエリザベス女王が刻まれ、3人の寅年生まれがそろい踏みしています。
ジェームズ1世と家康が並ぶコイン
かつての日英交流のきっかけといえば、三浦按針ことウィリアム・アダムズが有名です。アダムズはオランダ船の船員として東アジアを航行中、1600年に大分県沖で座礁し日本に上陸。瞬く間に家康の外交顧問に登用されたことから、故国イングランドに日英貿易の必要性を強く訴えました。その甲斐あって1613年、司令官ジョン・セーリス率いるイングランド貿易船団がジェームズ1世の国書を携えて長崎県平戸に到着しました。
ジェームズ1世が家康に宛てた手紙
イングランドは望遠鏡や毛織物、花火などを幕府に贈り、幕府は金屏風や甲冑(かっちゅう)、漆器などで返礼しました。朱印状(貿易許可証)が発行され、平戸にイギリス商館ができました。贈呈された甲冑は今でもロンドン塔に展示されており、望遠鏡は復元されて静岡県にあるそうです。ただ東インド会社に宛てたアダムズの書簡によりますと、当時の日英両国の関心は修好や通商だけでなく、仮説上の北極海航路の開拓にあったと書かれています。
1598年に作成された北極海地図
確かにイングランドは北極海航路の開拓を狙って1555年に最初の勅許会社「モスクワ会社」を作りました。北極圏を通ってアジアに進出できればスペイン、ポルトガルに遅れて航海時代を迎えたイングランドが不利な立場を挽回することができます。まずロシアへの航路距離の短縮に成功し、次に中国や日本を目指しました。一方の家康も当時は蝦夷地(現在の北海道)の地図もなく、まだ見ぬ未開の土地の開拓を夢見ていました。
ロンドン塔に展示されている江戸幕府から贈られた甲冑
ところが両国の夢はたった10年でしぼんでしまいます。北極海航路の開拓は氷に阻まれて難航し、付近の海域は捕鯨の舞台に変わりました。また日英貿易も先行した南欧やオランダからの邪魔が入り利益が上がりません。家康が没してからの日英関係は冷えるばかりで、1623年のアンボイナ事件を契機に英国は極東貿易からの撤退を決め、インド開拓に焦点を定めます。以後日英関係に春が訪れるのは19世紀になってからです。
英蘭が争った蘭領東インドのアンボイナ島
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