2016年はウィリアム・シェイクスピアの没後400年でした。シェイクスピアがロンドンにやって来たのは1580年代の終わり、20代後半のころです。そして演劇界を引退してストラトフォード=アポン=エイボンに帰郷するのが1613年で49歳。世界中に知られる作品と違い、彼の過ごしたロンドン生活の20年余りは今も多くが謎に包まれています。
今回は、ロンドンに残るシェイクスピアの残像に迫ってみました。寅七が驚いたのは、400年過ぎても残る彼の残像の鮮明さもさることながら、ロンドン市民がシェイクスピアの息吹を決して絶やさず、大切に守り続けている、ということでした。
シティ公認ガイド 寅七
『シティを歩けば世界がみえる』を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫
実地調査 1
シェイクスピアは右利きで
身長は167.6センチ?
まずは1970年から1993年まで流通した旧20ポンド札にご注目。そこにはシェイクスピアの全身像が描かれています。実はロンドンにはシティ・ギルドホール、旧ホルボーン公会堂、カクストン・ホール、クロイドン図書館、ウィンダムズ劇場など数々の場所に彼の胸像や顔像がありますが、全身像はとても珍しい。ロンドンで一般公開されている全身像は、旧札の原案となったウェストミンスター寺院の詩人コーナーの像、それを模倣したレスター・スクエアの噴水像、旧シティ・オブ・ロンドン・スクール玄関口の立像、サザック大聖堂の横寝した像と、寅七の知る限り全部で4つだけです。羽根ペンを右手で持つ仕草から彼は右利きと推察できる一方、ウェストミンスター寺院の説明によれば、石像の身長は実物大と同じ5フィート6インチ(=167.6センチ)。現在の英国人男性平均より10センチ程低いですが、当時の平均だそうです。
実地調査 2
出世の足掛かりはシティ北東側の
ホーリーウェル特別区
1585年から1592年はシェイクスピアの消息記録のない謎の期間。恐らく当時はレスター伯やストレンジ卿の一座に加わり、流浪の生活をしていたと思われます。英国の演劇は教会で宗教劇を演じたのがその始まりですが、宗教改革後は貴族のお抱えとなって各地の宿屋の中庭や山車で巡業し、公演を打つようになります。興行として演劇が本格化するのは、役者兼興行師のジェームズ・バーベッジがシティ北東側のショーディッチにあった教会管轄区のリバティ・オブ・ホーリーウェルに常設の劇場を建ててから。1576年にホーリーウェル修道院跡地にシアター座、翌年にはその近くにカーテン座が開かれます。「ロミオとジュリエット」の人気が出たのはカーテン座と言われますし、またシェイクスピアの所属した宮内大臣一座の主たる活動場所がこのシアター座とカーテン座です。彼の出世物語はここから始まりました。
実地調査 3
ロンドンでの住まいの記録
1593年には彼がロンドンに住んでいたことがほぼ確実視されています。同年、ペスト流行で劇場が閉鎖され、彼は詩で生計を立てていました。同郷のリチャード・フィールドが営むブラックフライアーズの印刷所で1593年「ビーナスとアドニス」、翌年「ルークリース凌辱」が出版。さらに1597年と1598年の税金未納リストから、彼がシティの聖ヘレン教会ビショップスゲート区に1596年以降住んでいたことが判明しています。1599年にグローブ座が完成したテムズ南岸サザックのリバティ・オブ・ザ・クリンクに移ったようですが、1604年にはシティのシルバー・ストリートに住んでいたことも裁判の宣誓書から分かります。1607年8月、末弟エドムンドの息子がシティの聖ジャイルズ教会で、また同年12月、エドムンド自身がサザック大聖堂に埋葬され、いずれも本人が同席したと言われます。
実地調査 4
「ファースト・フォリオ」と検閲制度
シティの聖メアリー・オルダーマンベリー公園にはシェイクスピアの同僚、ヘンリー・コンデルとジョン・ヘミングスのメモリアルがあります。当時は作家が劇団に台本を売ってしまえば所有権は劇団に移り、劇団間で転売されることも普通で、気が付けばシェイクスピアの台本が全部、手元にそろっていないことが彼の死の直後に判明します。そこで2人は駆け回ってすべての台本をかき集め、36作品をまとめて1623年に印刷しました。これが「ファースト・フォリオ」です。当時の出版物はシティの書籍出版商ギルドで厳しく検閲・登録されましたが、演劇の台本や戯曲は祝典局長(マスター・オブ・ザ・レベルズ)が劇の公演を含めて管轄していました。祝典局長の上司の宮内大臣が一座のパトロンでしたから、国がその他の表現の自由を厳しく統制しながらも、演劇に対してはある程度の自由度を持たせていたようです。
実地調査 5
サザックとブラックフライアーズでの活躍
宮内大臣一座はシアター座の土地貸借権を更新できずに1599年、テムズ川南岸のサザックに旧グローブ座を建てます。サザックは巡礼者で栄える宿屋街でしたが、当時、ローズ座、スワン座、その他の遊技場がたくさんできました。グローブ座で「ジュリアス・シーザー」「お気に召すまま」「ハムレット」が次々に大ヒット。1603年にジェームズ1世が即位すると劇団のパトロンになり、宮内大臣一座は国王一座に昇格しました。戴冠式用にシティにあった王室財産管理府から深紅の布が配られたと言います。1608年にブラックフライアーズ座が完成すると、夏は屋外のグローブ座、冬は室内のブラックフライアーズ座と国王一座は人気の頂点を極めます。そんな最中、シェイクスピアは娘のためにブラックフライアーズ座の近くの家を1613年に購入。6つし か現存しない彼の貴重な署名のうち、2つがこの不動産関連書類に残されています。
実地調査 6
シェイクスピアと所縁ある居酒屋
シェイクスピアの作品に最も多く登場する酒はサック、つまりシェリー酒です。登場人物の中でも人気の高いフォルスタッフもシェリー酒が大好きで、飲む場所はイーストチープのボアーズ・ヘッド亭。シェイクスピアもここで飲んでいたことでしょう。また、フライデー・ストリートのマーメイド亭にはシェイクスピアを含めた当時の識者が集まり、飲みながら談義していたと言われます。シティの南岸サザックにある老舗酒場のジョージ亭も彼が頻繁に訪れた場所であり、中庭で演劇も行われました。この北にあった白鹿亭は「ヘンリー6世第2部」に登場する宿屋。さらに南にあったクイーンズ・ヘッド亭は現在、ハーバード・ハウスという看板のある法律事務所になっています。ここはシェイクスピアと同郷で幼なじみのキャサリン・ロジャーズがロバート・ハーバード氏と結婚して開いたお店。この夫婦の息子ジョンが、後に世界屈指のハーバード大学誕生の礎を築きます。