ラフマニノフを心に宿す新世代の天才チェリスト
伊藤悠貴
YUKI ITO INTERVIEW
ブラームス国際コンクールに続き、ウィンザー祝祭国際弦楽コンクールにおいて日本人初の優勝という快挙を達成した、日本を代表する若きチェロ奏者、伊藤悠貴氏。今年6月、音楽の殿堂ロンドンのウィグモア・ホールにて、同ホール史上チェリスト初となるオール・ラフマニノフ・リサイタルを行うことになった彼に、音楽家としてデビューするまでの経緯、その後の活動、そして英国と日本の生活や聴衆に関して話を聞いた。
伊藤悠貴 Yuki Ito
1989年生まれ。15歳で渡英。2015年王立音楽大学を全課程首席で卒業。2010年ブラームス国際コンクール、2011年英国の最高峰と言われるウィンザー祝祭国際弦楽コンクールで日本人として初優勝。同年フィルハーモニア管弦楽団定期公演にてデビュー以来、ウラディーミル・アシュケナージ、小澤征爾、ダヴィド・.ゲリンガスらと共演を重ね、2016年には宮沢賢治生誕120年記念NHK世界放映リサイタルを開催し、100年記念の際にヨーヨー・マが行った大役を担った。ライフワークとするラフマニノフ作品の演奏・解釈は国際的な評価を受け、今年2018年には音楽界の殿堂、ロンドンのウィグモア・ホールにて、ホール史上チェリスト初となるオール・ラフマニノフ・リサイタルを行う。OTTAVAラジオ「伊藤悠貴 The Romantic」毎週日曜夜(金曜夜再放送)放送中。ロンドンの空気を感じ
10代半ばで音楽家になることを決意
5歳からバイオリン、その後6歳からチェロを始めたそうですね。きっかけは何だったのでしょうか。
バイオリンを習い始めたころ「どうして僕が立って弾いているのに先生は座っているんだろう」と思ったんです。それで、両親に相談したところ、「そんなに座って弾きたいならチェロという楽器があるから」とチェロを渡されました。実はこれがチェロを弾き始めたきっかけです(笑)。
当時は楽器のほかにも習いごとをしていましたか。
楽器を始めた時期に、ある有名な児童劇団のオーディションも受け、最優秀の成績で合格しました。それもやってみたかったのですが、当時通っていた音楽教室の時間とかぶってしまうことになり、やむを得ず諦めました。
将来音楽家になろうと決めたのはいつごろなのでしょうか。
父の転勤で15歳のときロンドンに住み始めたことが、大きく影響していると思います。もともと表現することが好きだったこともあり、10代半ばから本場のクラシック音楽の空気を感じて、ロンドンの地で「音楽家になろう」と決めました。
渡英後、アレクサンダー・ボヤルスキー氏や名チェリスト、ダヴィド・ゲリンガス氏に師事することになった経緯は。
10歳になって間もなく、当時聴いていたCDを通してダヴィド・ゲリンガス氏の芸術に出あい、いつかこの音楽家に学びたい、と思うようになりました。ロンドンに移住した当時、ゲリンガス氏はベルリンで教鞭を執っていたため、ロンドンでゲリンガス氏と繋がりのある人が誰かいないか探したところ、出会ったのがボヤルスキー氏でした。
2010年のブラームス国際コンクールに続き、翌年にはイギリスの最高峰であるウィンザー祝祭国際弦楽コンクールでも、日本人初優勝という快挙を成し遂げられました。おめでとうございます。優勝したときはどのようなお気持ちでしたか。
ありがとうございます! 21歳で、2つの有名な国際コンクールで優勝でき、この先ソリストとしてやっていけるのかな、と自信を持てるようになりました。
ブラームス国際コンクールでは、噂で名前を聞いていた世界の強豪がたくさんいたこと、そしてウィンザーは若手弦楽器奏者の登竜門であるので、チェリストだけではなくバイオリニストたちとも同じ土俵で勝負せねばならなかったことが、最大のプレッシャーであり、また挑戦でした。
2015年には、王立音楽大学で最優秀弦楽器奏者賞を得て、全課程を首席で卒業。最も努力されたことは何ですか。
大学在学中はとにかくできる限り色々なことに挑戦したいと思い、チェロ以外のこと(指揮や編曲、楽譜の研究を始め、音楽哲学、心理学、音楽史など)にも多くの時間を費やしました。イギリスの教育は、一つのことだけではなく、多方面からのアプローチを大事にしていることもあり、「チェロを極めるにあたり、色々な角度から勉強を進めていく」という僕の姿勢が、認めてもらえたのかもしれません。
ロンドンにて、自身が芸術監督を務めるナイツブリッジ・フィルの指揮(世界的チェリスト J.ロイド=ウェバーをソリストに招いて)
ウィグモア・ホールでの初リサイタルは
オール・ラフマニノフで
過去には「生まれ変わったらラフマニノフのチェロ・ソナタになる」と発言されるほど、セルゲイ・ラフマニノフの演奏に魅かれているそうですが。
ラフマニノフの音楽とは、出あったときから自分自身が作品を書いたかのような、自分と重なる不思議な感覚があります。今では「ライフワーク」と表現していますが、ラフマニノフ作品を研究し始めたときは、そのような感覚を常に抱いていました。
22歳で録音したデビュー・アルバムは「ラフマニノフ: チェロ作品全集」ですが、全世界でもラフマニノフのチェロ作品全集を録音している人は5人もいないのではないでしょうか。もちろん、それがデビュー盤だった音楽家は、世界で僕一人だと思います。
そして6月には音楽家にとって憧れの「殿堂」であるウィグモア・ホールで、史上初となる「オール・ラフマニノフ」チェロ・リサイタルを演奏されますね。デビュー時から、現在に至るまでの経緯をお聞かせください。
21歳のときに、エリザベス女王の公邸の一つであるウィンザー城で、名門フィルハーモニア管弦楽団との共演でデビューしました。その後のロイヤル・フェスティバル・ホールで、指揮者故ロリン・マゼール氏のコンサートの前座として行ったリサイタルや、ロイヤル・アルバート・ホールのエルガー・ルームでのリサイタルなど、良い思い出がたくさんあります。
今回いよいよウィグモア・ホールでリサイタル・デビューすることになり、自分の音楽家人生の中でも思い出に残る公演となるのであれば、やはり自分が一番自信を持って臨めるプログラムにしたいと思いました。そして最終的に「オール・ラフマニノフ」という思い切った案に到達しました。
この演奏によって歴史に名を刻むことができるのは、僕にとって最大級に光栄なことです。それに加えて、ラフマニノフが28歳のときに書いたメインの「チェロ・ソナタ」を、僕もまた28歳で、この記念すべき公演で演奏することになりました。これは間違いなく「チェリストになって良かった」と思えることです。
演奏家として多忙な日々を過ごされているとは思いますが、体調や精神状態の管理で、普段から心掛けていることはありますか。
ステージ前はもちろん緊張しますし、逆に緊張しないと良い演奏はできません。普段から「周りを気にしない」「ネガティブなことは、長く心の中にとどめない」といったようなことを心掛けるようにしています。
今まで多くの音楽家と共演されていますが、自身の演奏に影響を受けた音楽家は。
僕にとって昔から憧れの芸術家は、ダヴィド・ゲリンガス氏、ウラディーミル・アシュケナージ氏、そして小澤征爾氏の3人です。僕は幸い20代半ばまでに彼らと共演させていただく貴重な機会を得ましたが、その共演がやはり僕にとって、最も感動的で刺激的な時間だったことは間違いありません。
小澤征爾氏(写真後方)の下、「鳥の歌」を演奏
共演されたときのエピソードをお聞かせください。
それぞれとても思い出深いのですが、アシュケナージ氏とラフマニノフのチェロ・ソナタを共演した際、彼が「この曲は何年も弾いていないからなあ」と言いながら全部弾いてしまったんです。それを聴いて「本当の天才」の次元が、異次元であることを体感しました。
チェロを演奏するにあたり、最も大切なことは何だと思いますか。
「人の心に届く音楽を作ること」です。チェロは僕にとって「芸術を音楽という形で作り出す」ための「相棒」だと思っています。
ステージから感じる
日本とイギリスの違い
日本とイギリスで活動されていますが、両国において伊藤さんが感じた最も大きな違い、または共通点などがあれば教えてください。
日本とイギリスは実は多くの共通点があると思います。英語にはいわゆる日本語でいう「敬語」はありませんが、相手を敬う表現、遠回しの表現など、言葉に関していくつもの共通点があります。また車の運転は右ハンドルで左側通行など、プラクティカルな面での共通点も多数ある。そのため、生活している上では日本にいるときとイギリスにいるときと、それほど大きな違いを感じることはありません。
しかし、コンサートになると、ステージから感じる雰囲気はかなり違いがあります。日本のお客様は終止真剣に静かに聴いてくださるイメージが強いですが、イギリスの観客は真剣に静かに聴く、というよりは、演奏者側と一体になろうとしている雰囲気があります。そのため演奏者側と聴衆の「距離」という意味では、イギリスの方が近く感じます。
イギリスの作曲家の作品についてはどう思われますか。
日本で知られているイギリスの作曲家や作品と言えばエルガー、ブリテン、そしてホルストの「惑星」くらいですが、15歳でイギリスに来て、ブリッジ、ディーリアス、アイアランドといった名作曲家たちについて知りました。今では日本での公演でたびたび、イギリスのまだ日本であまり知られていない作曲家の作品を演奏していますが、皆さんとても喜んでくださいます。
ロンドンでの生活で好きなところ、困ったところはありますか。また、ロンドンで一番好きな場所は。
ロンドンでの生活はとても好きです。最近はおいしいレストランもたくさん増えて、もはや「イギリスはごはんがおいしくない」というレッテルは何も意味がありません(笑)。ロンドンの中心部に行くときは必ず立ち寄るカフェがある、ハイド・パークが一番好きな場所です。
映画や本、アートなど、音楽以外で好きなアーティストや影響を受けた作品はありますか。
文学作品ではシェイクスピアの「十二夜」がお気に入りです。特にロマンティックな喜劇設定が気に入っています。またその舞台である、架空のユートピアである「イリリア」という場所のチョイスも好きですね。あとはコナン・ドイル。どちらもイギリスの作家ですね。コナン・ドイルに関しては、とにかくその英語使いの妙に魅せられました。シャーロック・ホームズ・シリーズは、「こんなかっこいい英語を話せるようになりたい!」と、英語勉強のスピードを更に加速させてくれました。
将来の予定、抱負などをお聞かせください。
今後は、チェリストとしてだけでなく、指揮の公演など、自分ができることをいろいろ挑戦していきたいと思っています。今年1月から日本のラジオ番組でパーソナリティーを務めさせていただいていますが、ラフマニノフ作品だけでなく、イギリス音楽全般を紹介するように心掛けています。
ファンや今音楽を勉強している人たちにメッセージをお願いします。
音楽はほかのものにない「パワー」を持っています。それは人に「忘れてはいけない何か」を思い出させてくれるパワーだと僕は思っています。音楽家を志すすべての人には「音楽を通じて誰かを幸せにする音楽家になってください」と伝えたいです。
お気に入りのハイド・バークにて
Avex Recital Series 2018
伊藤悠貴(チェロ)
ソフィア・グルャク(ピアノ)
2018年6月2日(土)13:00開演
チケット: £20
会場: Wigmore Hall
36 Wigmore Street W1U 2BP
最寄駅: Bond Street
● チケットお問い合わせ先
Tel: 020 7935 2141
http://wigmore-hall.org.uk
● コンサートに関する問い合わせ先
エイベックス・クラシックス・インターナショナル
www.avexrecitalseries.com
オール・ラフマニノフ・プログラム
チェロのための2つの作品(前奏曲 / 東洋の踊り)作品2
エレジー 作品3-1*
メロディー 作品3-3
セレナーデ 作品3-5
前奏曲 作品23-10
ロマンス
朝 作品4-2*
夜のしじま 作品4-3*
リラの花 作品21-5*
ここはすばらしい 作品21-7*
春の水 作品14-11*
チェロ・ソナタ ト短調 作品19
*伊藤悠貴編