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Tue, 26 November 2024

ザ・ブリッツから80年
ロンドン市民を戦火から守った
エア・レイド・シェルター

今から80年前、第二次世界大戦時の1940年9月7日から約8カ月の間、ロンドンを中心に英国各地でドイツ空軍(Luftwaffe)による大規模な空襲、通称「ザ・ブリッツ」があった。この熾烈な空爆により多くの尊い命が失われてしまったが、一方で生き残った人々の命を救ったのは、街のいたるところに造られたエア・レイド・シェルター(防空壕)だった。 今回は、需要に合わせ変化(へんげ)していったシェルターについて触れてみたい。
文:英国ニュースダイジェスト編集部 参考: The Blitz Operations Manual by Chris McNab

1940年、エレファント&キャッスル駅の構内。多くの人がプラットフォームに直接寝転がっている1940年、エレファント&キャッスル駅の構内。多くの人がプラットフォームに直接寝転がっている

ザ・ブリッツとは

ザ・ブリッツの背景

第二次世界大戦勃発直後、英国本土での陸上戦はなく、政府と国民との意識の間に大きなズレが生じていたころ、ドイツは1939年9月のポーランド侵攻から1年と経たないうちに、フランスを含む欧州西部のほとんどの国を占領。破竹の勢いで勢力を広げ、1940年、ついに英国本土の制圧に動き出す。本土上陸を前に開始されたのが、1940年7月10日から10月31日にかけて英国の制空権をかけた空中戦、バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain)で、その最中に行われたロンドンなどへの一連の空爆が「ザ・ブリッツ」(The Blitz)だ。ドイツ語で稲妻を意味するこの作戦は、1940年9月7日の白昼に始まり、以後、夜間を中心にロンドン、バーミンガム、ブリストル、コヴェントリー、リヴァプールなどの工業都市、港を激しく攻撃。16もの主要都市とその周辺の町など、英国全土が標的となった。英国空軍は粘り強い反撃で応戦、同時に東部戦線へ意識を向ける必要に駆られたドイツ軍は、翌年41年の5月に作戦を中止して撤退、英国の勝利で幕を閉じた。

1940年9月7日、ロンドン東部のワッピングとアイル・オブ・ドッグス上空を通過し、爆撃に向かう独空軍のハインケル He 1111940年9月7日、ロンドン東部のワッピングとアイル・オブ・ドッグス上空を通過し、爆撃に向かう独空軍のハインケル He 111

被害状況

8カ月の空爆で延べ3万の爆弾が英国全土に投下され、負傷者数は約13万9000人、死者数は約4万3000人となり、約25万戸が全壊、200万戸以上が損害を被った。ロンドンは267日間のザ・ブリッツのうち71回も攻撃の標的にされ、長いときは57日間に渡って爆弾が降り注いだ。空爆が開始された9月7日、ロンドン上空には、348機の独空軍の爆撃機が確認された。空爆は翌朝6時で収束したものの、たった一夜で約430人が死亡、約1600人が負傷した惨事となった。

シティのモニュメント付近の様子。建物自体は残っているものの、ガラス窓は全て吹き飛んでしまっているシティのモニュメント付近の様子。建物自体は残っているものの、ガラス窓は全て吹き飛んでしまっている

戦争に消極的な市民たち、ガスマスクが配布されたが......

ミッキーマウスと呼ばれた2~4歳半用の子ども用ガスマスク「ミッキーマウス」と呼ばれた2~4歳半用の子ども用ガスマスク。臭くて蒸れて息苦しいものだった。見た目のおかしさから笑いを誘ったという(帝国戦争博物館所蔵)。

第一次世界大戦で空爆の威力を理解し、ロンドンの街の規模感から全てを守り切れないと判断した英政府は、社会的弱者の疎開を早い段階から積極的に進めていた。1939年9月1日の疎開者数は約150万人。児童のほか、5歳以下の幼児とその母親、妊婦、ハンディキャップのある人が含まれていた。しかしまだ空襲が始まっていなかったこともあり、市民は疎開に消極的だったという。

また、先の対戦で毒ガスが使用されたことから、ザ・ブリッツ開始の前には政府によるガスマスクの配布も行われたが、息苦しい使用感を嫌う子どもも多かった。

爆撃に耐え、生き延びた市民たち

戦時中の独特なマインドセットとエア・レイド・シェルターへの避難

さて、無慈悲な爆撃のなか、ロンドン市民はどうやって自分の心身を守ったのだろうか。さまざまな手段があったが、ここでは主な二つを取り上げてみたい。

一つは戦時中における不思議なマインドセットだ。市民の多くはもちろん爆撃そのものに対するストレスは感じたものの、同時に現実からどこか一線を引くような冷静さも保っており、なかには「(爆撃を見て)今日も荒れてるなぁ」とつぶやく者までいたという。一種の英国人気質に加え、政府にも奨励されたこのような精神は「ブリッツ・スピリット」(Blitz Spirit)と呼ばれるが、これを維持することで目の前の現実に対する精神的なダメージを緩和させ、また協調性を保つ効果があったと言われている。

ザ・ブリッツ前には多くの医者が、空爆により市民までもが戦地に赴いた兵士が強いストレスを感じて、持ってしまうトラウマ、シェル・ショック(戦闘神経症)を発症するのでは、と予想したが、実際は1939年よりも爆撃が始まった1940年の方が精神病棟へ入院した市民の数が少なかった。

二つ目は市内各地に造られたエア・レイド・シェルターだ。日本政府は後の東京大空襲時に、「恐れるな、空襲に耐え、戦い抜け」と避難ではなく、消火活動に努めるよう市民を扇動した。一方エア・レイド・シェルターの設置に全力で取り組んだ英政府。空の守りは英国空軍に任せ、地上の市民を守ることで無駄な死を回避することを優先させた。その結果、土地に合わせ、さまざまなタイプのシェルターが生まれていく。

エア・レイド・シェルターの種類

地下室を使ったり自宅の一室を避難場所に作り替えたりと、あの手この手で対応した市民たち。年代ごとにさまざまな様式があったが、以下は特に多く利用されたシェルターだ。決して快適とは言い難いものだが、ハード面で大きな助けとなった。

Anderson Shelter アンダーソン・シェルター

1938年にデザインされた、4~6人用の家庭用シェルター。鉄の波板の半分を地面に埋め、残りを折り曲げて庭に設置する。政府による無料支給だが、高収入家庭には7ポンド(現在の約330ポンド)で販売されたという。名前の由来は発案者である当時の王璽尚書(おうじしょうしょ / Lord Privy Seal)であったジョン・アンダーソンから。1940年の夏までに約200基が支給された。

Anderson Shelterこの中で一晩を過ごすこともざらだった

Communal Shelter コミューナル・シェルター

庭のない住人のために、1940年3月ごろ構想された50人規模の共同シェルター。実際に鉄筋コンクリートの天井とレンガで造られたが、爆撃されると重い天井が落下するという欠点があり、粗雑なものは自宅のシェルターより弱い造りだったという。また衛生面にも問題があり、とにかく最低な代物だったが、ロンドンでは5000基ほど作られた。

Morrison Shelter モリソン・シェルター

長引くザ・ブリッツにより、避難場所探しに疲れた人々は非常時も自宅で過ごすことを選ぶようになった。そこで爆撃の衝撃は家屋に任せることを前提に、屋内の倒壊物から身を守るためのシェルターが1941年に開発される。動物の檻のような見た目で、平時はテーブル・クロスを掛け、ダイニング・テーブルとして活用された。

Morrison Shelter写真中央にあるのがモリソン・シェルター。この家庭では卓球台として活用していた

London Underground ロンドン地下鉄

爆撃が激しくなるに従い、自分専用のシェルターを持てないロンドンの貧民層が最終的に行き着いたのが、堅牢で安全な構造の地下鉄駅だった。一時期はシェルターとしての使用を禁止した政府だが、情勢の悪化に伴い地下奥深くを走るベイカールー、セントラル、ジュビリー、ノーザン、ヴィクトリア、ウォータールー&シティ線を中心に開放。ザ・ブリッツ開始からの数週間で、延べ17万5000人が夜を過ごした。

開放初期は、大勢の市民が利用したことで汚物が散乱し、不衛生な環境だった。また、駅そのものが爆撃を受けたり、人であふれかえった階段で一人が足を滑らせたことで将棋倒しになって死者が出たり、人種差別による喧嘩や赤ちゃんの泣き声などの騒音、そして窃盗など、混乱が続いたという。

1940年11月から本格的に政府の援助が入り、食堂列車や簡易トイレの整備、また市内の76駅に2段ベッドが設置され、利用にはチケット制を採用。そのうち映画やコンサートなどのエンターテインメントも開催されるようになった。限られた物資や自由のなかで楽しもうとする精神、またチケットを手に入れるために列に並ぶ秩序を保てたことは、ブリッツ・スピリットがあってこそだったのかもしれない。

London Underground駅構内だけでなく、駅のエスカレーターも避難場所に利用された

ディープな体験をするなら

毎年ロンドン交通博物館主催で、実際にシェルターとして使われたクラッパム・サウス駅の深部を歩ける夏季限定のウォーキング・ツアーがある。今年は新型コロナウイルスの影響で残念ながら開催はないものの、歴史好き、廃墟好きにぜひお勧めしたい。

www.ltmuseum.co.uk/whats-on/hidden-london/clapham-south

 

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