天才、鬼才、努力家がそろう英国で発明・発見されたモノ15選
18 世紀後半〜19 世紀前半に英国で起こった産業革命で革新的な技術が生まれたことは広く知られているが、それ以外の時代にも優れた発明や発見がたくさんあった。知能がずば抜けて高い技術者、何度失敗をしても努力を惜しまなかった研究者など、多くの天才や秀才が英国で生まれ、現代に生きる私たちの生活をより豊かにしてくれた。本特集では、今日の生活でよく知られたもので「こんなものまで英国生まれなのか」と思うものを厳選して集めてみた。
(取材・執筆: 英国ニュースダイジェスト編集部)
参考: www.nobelprize.org、www.nbcnews.com、 www.ed.ac.uk、www.bbc.co.ukほか
産業革命における開発について簡単におさらい
この時期の主な技術革新
産業革命は18世紀後半〜19世紀前半に英中西部マンチェスターから始まり、国内各地に工業都市が生まれ、英国の歴史でも重要な出来事の一つである。同時期にさまざまな技術革新が生まれ、機械化によって生産性が一気に上がり、大量生産が可能になった。
この時代の主な技術革新の例を挙げると、大工で発明家のジェームズ・ハーグリーブスが発明したジェニー紡績機により、それまで糸車で1本しか紡げなかった糸が8本になり、後にリチャード・アークライトによって水車を動力とした水力紡績機が発明。そしてスコットランド出身のジェームズ・ワットにより、蒸気機関技術を利用した「力織機」が生まれ、効率よく布を織ることができるようになった。また、この技術を元に蒸気機関車の実用化が進み、ジョージ・スチーブンソンにより公共鉄道を走らせることに成功。物資の輸送に欠かせない道路はこれまでぬかるんだ泥道が多く、冬の悪天候では通行不可になることも多々あったが、ジョン・マカダムにより舗装道路が作られ、鉄道と共に交通網を発展させた。
1825年に乗客を運ぶ最初の蒸気機関車となったロコモーション1号
英国で工業化が一気に進んだ理由
発明家の活動が存分に発揮できる社会環境が整っていたことが何よりも大きい。例えば同時期のフランスは、政府が発明事業を支援をする場合は軍事目的や国家への直接的な利益になるものに限定されていた。一方、英国では多くの発明家が投資家からの活動資金援助を受けることができた。この当時、投資家は「プロジェクターズ」と呼ばれていたが、これは現在でいうベンチャー・キャピタリストに近いもので、投資家たちは、生産効率を向上させて利益を上げるための方法を生み出す発明家を常に探していたという。
またそれとは別に、純粋な利益の追求、社会への貢献などを動機として、自己資金で地道に活動を続けた発明家もいた。また、研究開発のための融資にかけられた金利が低く、融資を受けるハードルが低かったこと、特許に対する保護制度がしっかりと整っていたことも、結果的に国全体の工業化を進めることができた理由に挙げられる。
未知なる「ヒト」を知る医学
現在より深い宗教観が社会に根ざしていた時代に、ヒトとは一体何なのかを知るために多くの研究者たちが功績を残してきた。
1. DNAの二重らせん構造
DNAの二重らせん構造を発見した人物の一人がフランシス・クリック(Francis Crick、1916〜2004年)。ロンドン大学で物理学を専攻したのち、第二次世界大戦で海軍に従事したため研究は中断されたが、残りの人生は生命科学を追求したいと1947年にケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所に入所した。51年、DNAが生命とは何かを解く鍵になると考えていた米研究者ジェームズ・ワトソンが同地を訪れ、2人は意気投合。X線を使った解析データを元に53年に「ネイチャー」誌にDNA構造を解いた論文を発表し、ワトソン、X線写真を提供したモーリス・ウィルキンスと共に1962年のノーベル医学・生理学賞を受賞した。クリックは「脳の構造が明らかになれば、人間と世界の本質に対し誤った概念を持つキリスト教は存在できなくなる」と予測するなど、キリスト教に対し批判的だった。
死ぬ直前まで論文を書き続け、人類の進歩に貢献したフランシス・クリック
2. IVF(体外受精)
婦人科医パトリック・ステップトー博士(Patrick Steptoe、1913〜88年)と生物学者ロバート・エドワーズ博士(Robert Edwards、1925〜2013年)のチームが地方病院で体外受精胚移植(IVF-ET)を成功させ、1978年に「試験管ベビー」と呼ばれた健康な女児が誕生した。その後2人は英東部ケンブリッジシャーのボーンに80年に不妊治療センター「ボーン・ホール・クリニック」を開業。不妊治療を行いつつ、治療を行える専門家の育成にも励んだ。これらの功績が認められ、ステップトーは87年に、エドワーズは88年に大英帝国勲章を授与された。世界初となったこの技術の成功には19世紀末から多くの研究者による貢献も大きい。数々の失敗を繰り返した結果、最初の実験から100年も経たずして人間の体外受精が成功したことは、不妊に悩む多くの人々に希望の光を与えた。
試験管ベビーを抱くロバート・エドワーズ博士(写真左)とパトリック・ステップトー博士(同右)
3. 哺乳類のクローン
1996年に「羊のドリー」(Dolly the sheep)を作ったのが、発生学者イアン・ウィルムット(Ian Wilmut、1944〜2023年)、生物学者キース・キャンベル(Keith Campbell、1954〜2012年)のチームだ。哺乳類のクローン技術は再生医療や遺伝子治療分野などに大きな影響を与えた。チーム・リーダーのウィルムットは農学専攻から動物科学に転向し、人間の治療用タンパク質を含んだ乳を出す羊を作る計画に参加。より効率的に遺伝子組み換えの羊を作るため、クローン技術の研究に取り組んだ。ドリー発表後は再生医療のための幹細胞をクローン技術で作ることに専念。一方キャンベルは、動物生理学部の動物発生という分野にて胚の成長と分化について研究を続けた。クローンの誕生は世間に賛否両論を巻き起こしたが、全ては人間の治療に使える技術を探した通過点に過ぎない。
羊のドリーの剥製は現在エディンバラのスコットランド博物館に展示されている
4. MRI
磁気共鳴画像法(Magnetic resonance imaging= MRI)はロンドン生まれのピーター・マンスフィールド(Peter Mansfield、1933〜2017年)によって開発された。マンスフィールドは、進路指導の教師から「科学に向いていない」と言われたために、印刷工として働いたという異例の経歴の持ち主。後にロケット工学に興味を持ち、軍隊へ装備品を供給する補給省(Ministry of Supply)へ入省。国家奉仕のため軍隊に従事後、夜間学校でAレベルの勉強をし、ロンドン大学クイーン・メアリー校で物理学部の核磁気共鳴(NMR)を専攻した。これらは地球の磁場を測定する分光器を作るための選択だったが、のちにMRIの装置を作るための英医学研究評議会から助成金を受け、医療に応用された。MRIの安全性を調べるため、自らの体を実験台としてスキャンさせた男気あるエピソードも有名。
紆余曲折の経歴でMRIを開発したピーター・マンスフィールド
より早く、より効率的に工学&科学技術
すでに存在していた技術をさらに高めたり、なかったものを一から作り出したりと、機械にまつわる技術革新を集めた。
5. ホバークラフト
英デザイナー、ウィリアム・モリスの秘書を務めた父を持つクリストファー・コッカレル(Christopher Cockerell、1910〜99年)は、ロンドン北部アレクサンドラ・パレスから放送されていたBBCの機器開発などに携わった人物だ。発明のきっかけは小型ボートのレンタル会社を買収したことから。利益増大のためにボートをより速く走らせる方法を探求した結果、ホバークラフトが生まれた。特許を取得したものの、国家防衛への利用を政府に持ちかけたために設計図が機密扱いになり公開不可となる。後に欧州で同様の開発が行われていることが判明したことで機密扱いは解除され、コッカレルは試作品を作ってドーバー海峡の横断に成功。特許を管理し民間企業にライセンスを付与する会社を作った。類まれな知能と商才があった一方でホバークラフトのイベントに参加したりと積極的に活動した。
デザイナー、乗り手と共にホバークラフトのモデルを触わるクリストファー・コッカレル(写真中央)
6. ジェット・エンジン
英空軍の将校で技術者のフランク・ホイットル(Frank Whittle、1907〜96年)は、英空軍に入隊後、航空機のエンジンの理論を学ぶ。同時にその優れた飛行技術も認められ、優秀なパイロットになった上にケンブリッジ大学のピーターハウス校に入学し首席で卒業した。そして後に国有化されるパワージェッツ社を創業しタービンを利用したエンジンを製造。しかし資金繰りの難しさに加え、長年の苦労から神経衰弱に陥ってしまい、空軍を去り、米国へ移住した。ここで奇しくも同様のターボ・ジェット・エンジンで初飛行に成功したドイツの技術者ハンス・フォン・オハインに出会う。オハインはホイットルに「もし君に十分な資金が与えられていて、時速500マイル(約800キロ)で飛ぶエンジンが開発中だとヒトラーやゲーリングが知ったら、第二次世界大戦は起こらなかっただろう」と伝えたという。
エンジンに対する情熱や執拗なまでのこだわりがあったために一部の人とは反りが合わな かったフランク・ホイットル
7. 戦車
アーネスト・スウィントン(Ernest Swinton、1868〜1951年)は、第一次世界大戦中に戦車の開発に貢献した英陸軍将校。工学分野の出身ではなく、軍公認の従軍記者として同行し、前線で起きたことを報道機関に発表する記事を書いていた。スウィントンは戦後の1932年に戦地での体験を綴った著書「Eyewitness」(目撃者)の中で、フランスで車を運転中に突如「戦車を作る」というアイデアが浮かんだと記している。戦場で機関銃で多数の兵士が倒れていくさまを目撃し、「キャタピラがあり、硬化鋼板で装甲したガソリン・トラクター」という戦車(Tank)の構想を上官に話したところ即却下され、納得のいかなかったスウィントンは、大佐に報告した。これが当時海軍相だったウィンストン・チャーチルに伝わり、新しい戦闘機の開発が認められ、戦車の仕様書を書いたのもスウィントンだった。
アーネスト・スウィントンは戦後にオックスフォード大学の軍事史教授になった
8. パイロットACE
第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの暗号機エニグマによる暗号文の解読に大きく貢献したアラン・チューリング(Alan Turing、1912〜54年)は、コンピューター科学の父、人工知能の父とも呼ばれる優れた数学者にして暗号解読者だ。その機密性からこうした偉業は長年公にされることはなく、近年再評価されている人物でもある。数ある優れた開発の中でも、プログラム内蔵式コンピューターの初期の設計の一つACE(Automatic Computing Engine)は特に有名。これはチューリングが戦後に英国立物理学研究所に勤務していたときのプロジェクトで、ACEのプロトタイプ版のパイロットACEが同研究所で作られたが、完成を待たずしてケンブリッジ大学に移籍した。後に同性愛の罪に問われ、41歳で自ら命を絶ったチューリング。長く生きていたら、世の中はもっと進歩していたに違いない。
現在はロンドンのサイエンス・ミュージアムに所蔵されているパイロットACE
生活を豊かにした発明日用品
今や日常生活で当たり前のように使われている機械や日用生活品も英国発のものがたくさんある。それらは発明家だけから生まれたものではなかったようだ。
9. ATM
1930年代には現金自動預払機(ATM)の構想はすでに存在していたが、60年代に入っても実現することはなく、銀行業務には現金の引き出しなどが含まれており、営業時間中になるべく多くの顧客にサービスを提供する必要があった。この開発プロジェクトに、当時スミス・インダストリーズ社で開発エンジニアとして働いていたジェームズ・グッドフェロー(James Goodfellow、1937年〜)が参加。指紋や音声、磁気ストライプなどさまざま認証方法があったが、コスト面や非現実的な仕様であることで却下され、最終的に採用されたのが暗号化したカードを受け入れるシステムだった。カードには個別の識別番号が振り分けられ、コードはカードの受取人しか知らないという現在のATMのシステムをグッドフェローが作った。世界初のATMは1967年にロンドンのエンフィールドに設置された。
エンフィールドのバークレイズ銀行に設置された初のATM
10. テレビ
スコットランド出身のジョン・ロジー・バード(John Logie Baird、1888〜1946年)は、工業用ダイヤモンドの製造や自家製の痔の軟膏、ガラス製の剃刀など多岐にわたる発明に取り組んでは失敗していたが、一定の成功も収めていた。テレビに着手したのは34歳のころで、わずかな売上金を元手に廃材を使って実験を行った。システムの要はドイツの技術者が開発した穴が空いた大きな円盤で、この穴を通じて光を感知し、高速で回転させ画像をスキャンするというもの。感度をさらに高めるために穴にガラスのレンズを付け、巨大な円盤を採用したところ、そのバランスの悪さから勢いよく壁に飛んだレンズは砕け散り、円盤も飛び部屋はめちゃくちゃになるなどしたが、動揺もせず淡々と実験を続けたという。初期はグレーの陰影が写るに過ぎなかったが、1928年にはカラー・テレビをも開発した。
1929年、テレビのテストを行うジョン・ロジー・バード
11. World Wide Web(www)
ロンドン生まれのコンピューター科学者、ティム・バーナーズ・リー(Tim Berners-Lee、1955年〜)は黎明期のコンピューターの一つ、マンチェスター・マーク1の開発に貢献した夫婦のもとに生まれた。オックスフォード大学を卒業後、ソフトウェア開発に進んでコンピューター業界を渡り歩き、欧州合同原子核研究機構(CERN)で勤務中にコンピューター・ネットワークの設計に取り組む。リーの目標は研究者たちがメールを介さずに研究結果を共有できる場所「オンライン」を作ることだった。1990年から翌年の夏にかけて、世界初のウェブサーバーとサーバーから取得したファイルにアクセスして表示するプログラムのブラウザ「www」を構築。ウェブ経由で情報を転送できたのは同年12月25日のことだった。それから数年をかけて仕様や技術の向上を図り、ウェブの普及に努めた。
王室のウェブサイトの立ち上げにもティム・バーナーズ・リー(写真右)の協力があった
12. 歯ブラシ
ウィリアム・アディス(William Addis、1734〜1808年)という男性が暴動を起こして投獄されたときに歯ブラシのアイデアを思い付いた。刑務所にいても身なりを整えたかったアディスだったが、当時の英国では煤と塩をつけた雑巾で歯を磨く方法が一般的だったため、食事で出た動物の骨に穴を開け、ブラシの柄を作り、看守からもらった猪の毛を使って簡易の歯ブラシを作る。これをもとに釈放後の1780年ごろに会社を立ち上げ、歯ブラシの大量生産を行った。アディスが亡くなった後もビジネスは繁盛し、1880年代には米国へ輸出できるまでに成長。1938年までにはナイロン製の歯ブラシの販売が開始した。それまで動物の毛を使用していたが、より丈夫で汚れが取れるとして普及。現在も歯ブラシなどのオーラル・ケア用品を生産するWisdom Toothbrushes社として事業は続いている。
同社の商品はブーツやスーパーマーケットなどで販売されている
13. ジグソーパズル
18世紀は、英国における児童書の黎明期。1760年代に彫刻家としての見習い期間を終えたジョン・スピルスブリー(John Spilsbury、1739〜69年)は、子どもたちに地理を教えることを目的としたパズルを考案した。薄いマホガニーの板に地図を載せ、境界線に沿って一つずつパーツに切り分けることで、子どもたちが自分たちで組み立て直すことができ、土地の位置関係を覚えられる。楽しい作業ながら学ぶことができる画期的な仕組みで、同地図は「切り分けられた地図」(Dissected map)と呼ばれ、後にイングランドや米国などの地域別のパズルも作られた。このアイデアはスピルスブリーが29歳で亡くなった後も、人々に受け継がれていくことになる。ちなみに「ジグソー」と呼ばれるようになったのはパズルを切り分けるのに使う同名ののこぎりが発明された1880年代に入ってから。
1766年に作られたジグソーパズルと伝えられている「王国に分かれた欧州」
(Europe divided into its kingdoms)
14. 炭酸水
1767年、炭酸水の作り方を発見したのは、化学者、哲学者、教育者、そしてキリスト教プロテスタントの一派であるユニテリアンの牧師というマルチな肩書きを持っていたジョセフ・プリーストリー(Joseph Priestly、1733〜1804年)。英北部ヨークシャーに生まれ、牧師として活動しながらも科学への興味が尽きなかったプリーストリーは、家の隣がビールの醸造所であったことからビールの泡が何であるのかに興味を持ち始める。当時、欧州の保養地では病気の治療薬として天然の炭酸水が使われていたため、プリーストリーはこれを人工的に作り出すことは可能なのかさまざまな実験で探り、ようやく見つけたのが豚の膀胱に溜めたガスを水に浸透させる方法だった。「水より味が良い」と好評を博し、航海に携帯、また誤った知識から薬局で販売されるなど一大ブームを巻き起こした。
炭酸水のほかにも酸素の発見や電気に関する著作を残したジョセフ・プリーストリー
15. 缶詰の保存技術
英商人ピーター・デュランド(Peter Durand、1766〜1822年)は、ブリキ缶を使った食品保存技術で1810年に特許を取得した。当時のフランスではガラス瓶を使った保存法が生まれていたものの、鉄の板に錫で表面をコーティングしたブリキ缶を使ったのはデュランドが初めてだった。保存方法の手順は、容器に食材を詰めてオーブンや沸騰した水に浸して缶全体を加熱させ、冷却が終わったらすぐに蓋を閉じて密閉するという流れだったが、その保存可能期間については「長い」、加熱時間は「容器や食品のサイズによって異なる」と記されたのみだった。デュランドは特許を取得した後、缶詰の製造は行わず、12年に同じく缶詰を利用した食品保存に取り組んでいたブライアン・ドンキンらに特許を売却。デュランドは18年に米国で特許を申請して認可され、同国へブリキ缶による保存方法を伝えた。
ブライアン・ドンキン社による1812年製のブリキ缶(サイエンス・ミュージアム所蔵)
元祖のギロチンが英国にある? ハリファックス・ギベット
18世紀のフランス革命で断頭処刑が行われるより前に、英北部ウェスト・ヨークシャーのハリファックスに「ハリファックス・ギベット」(Halifax Gibbet)というギロチンがあった。16世紀に設置されたのが最も有力な説のようだが、1286年からの処刑記録が残されているために、実際に何人がこのギロチンで処刑されたか詳細は分かっていない。フランス革命で使われたギロチンの刃が三角形であるのに対し、ハリファックス・ギベットは斧状だったこと以外はほぼ同じ形状をしていたという。しかし、刃が十分にとがれていないために、重さと落下の勢いを利用して首を引きちぎるように切断するという凄惨極まりないものであり、加えて盗みを働いた軽犯罪者に対しても執行されていたことは確かなようだ。17世紀半ばにオリバー・クロムウェルが禁止するまで、このギロチンは使われていた。17世紀ごろに描かれたハリファックス・ギベット