第273回 ロンドンのモアゲート通りと米系銀行
シティの中心部、イングランド銀行の北側にモアゲート通りがあります。その2番地に今はプライベート・バンクとなっているブラウン・シップレー商会がありますが、その名前は壁に小さく刻まれているだけです。ほとんどの方はその看板に気付かないでしょうし、もともと一見の客を相手にしない看板不要の会社です。産業革命期に大西洋貿易が盛んになり、商人相手の貿易手形の決済や外国為替で国際的な金融会社に発展してきました。
ブラウン・シップレー商会
この会社の歴史は1800年にアイルランドから米国に移住したアレクサンダー・ブラウンが、メリーランド州ボルチモアにアレックス・ブラウン商会を設立したことにさかのぼります。アイルランドから亜麻製品を輸入し、米国産のたばこや綿花を英国に輸出する貿易会社でした。アレクサンダーの長男ウィリアムは英西部の港町リヴァプールに派遣され、同業者のジョセフ・シップレーと共に26年、ブラウン・シップレー商会を設立しました。
アレクサンダー・ブラウン
それはまさに英北東部のランカシャーで産業革命が発展する時期に重なりました。蒸気機関により大量生産される綿製品は英国のみならず米国でも人気商品になります。チクチクした毛織物やシワになる亜麻と違い、軽くて肌触りの良い綿製品は肌着にピッタリ。同商会は貿易信用状の発行や貿易手形の決済で繁忙を極め、63年にロンドンのモアゲート2番地に移転してきました。なぜなら貿易金融の中心地がシティだったからです。
産業革命時代のランカシャーの綿工場
一方、アレクサンダーの残りの息子3人は1818年にブラウン・ブラザーズ商会を米国に設立しました。次男ジョージがボルチモア、三男ジョンがフィラデルフィア、四男ジェームズがニューヨークの管轄。特に次男ジョージは英国の鉄道を研究し、30年に米国で初めて営業を開始したボルチモア・オハイオ鉄道の開業に貢献しました。ブラウン・ブラザーズ商会は繊維貿易だけでなく鉄道債の販売などの金融業でも繁盛しました。
ボルチモア・オハイオ鉄道の宣伝とジョージ・ブラウン
やがて兄たちが引退し、末っ子のジェームズはブラウン・ブラザーズ商会の本店をニューヨークに移し、投資会社にしました。時代は米国の鉄道建設ブームが一段落した19世紀末で、鉄道会社の経営統合の成功で鉄道王と呼ばれたエドワード・ハリマンが現れます。ブラウン・ブラザーズ商会は、ハリマンの息子たちが設立したハリマン銀行と1931年に合併し、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン社が生まれました。そのロンドン拠点が、モアゲート通り近くのフィンズベリー・サーカスにあります。店の外に看板はありません。
鉄道王エドワード・ハリマンと、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン社のロンドン拠点
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