英国への理解が深まる知っておきたい薔薇戦争の基本
ヘンリー・アーサー・ペインによる「ヘンリー六世」の宣戦布告の場面
「テンプルの庭で赤と白の薔薇を選ぶ」(1908年)
1455年から30年続いた中世イングランドの薔薇戦争は、複雑で分かりづらいことで知られる。リチャード、ヘンリー、エドワードという名前の国王が何人もいるうえ、フランスやスペインの王族と血縁関係にあったり婚姻関係を結んだりと、なかなか頭に入ってこないことばかり。しかし白薔薇のヨーク家と赤薔薇のランカスター家の権力争いは、日本でいえば源平合戦のようなもの。源氏と平家の争いが後世に詩歌などの日本文化を形作る上で重要な役割を果たしたように、薔薇戦争も英国の文化を語る上でかかせない歴史の一幕だ。この特集では、戦いのきっかけや結末、主な登場人物に焦点を当てた。旅先で見つけた薔薇戦争にまつわる遺跡、シェイクスピア作品の鑑賞時など、知っておくと理解が深まる薔薇戦争の基本を取り上げる。
(取材・執筆: 英国ニュースダイジェスト編集部)
参考: www.britannica.com/event/Wars-of-the-Roses、https://richardiii.net ほか
The War of Roses 薔薇戦争 (1455-85)
15世紀のイングランドで起こった薔薇戦争は、ヨーク家とランカスター家という共にエドワード3世の血を引く家柄の間で30年にわたって続いた内乱。近代国家が形成される過程で起きた、国家統一のための王権争いだった。ヨーク家の紋章が白薔薇、対してランカスター家の紋章は赤薔薇だったことから薔薇戦争と呼ばれる。最終的にランカスター家が勝利し、同家のヘンリー7世と、ヨーク家のエリザベス・オブ・ヨークが婚姻関係を結んだことで、戦争は終わりを迎えた。ここからチューダー朝時代が始まるが、王家の紋章は紅白交じり合った薔薇であり、チューダー・ローズともいわれる。
薔薇戦争のそもそもの原因は?
薔薇戦争の原因やきっかけは一つではない。イングランドとフランスが王位継承権を巡り約116年間争った百年戦争(1339~1453年)の時代から、ヨーク家とランカスター家はいがみ合っていた。
1. 百年戦争に対する考え方の違い
ランカスター家
ランカスター家は、百年戦争に積極的に参戦。同家のヘンリー5世は1415年のアジャンクールの戦い(The Battle of Agincourt)で大勝し、仏国内での勢力を拡大した。続いてヘンリー6世も領土の維持を目指したが、仏オルレアン包囲戦での敗北やジャンヌ・ダルクの台頭により仏国内での支配が次第に失われた。フランスでの影響力を失ったランカスター家は、イングランド国内での権威も損ない、特にヘンリー6世の精神的な不安定さが問題視され、国内の対立が激化した。
ヨーク家
ヨーク家は、ランカスター家の政策や戦争の進め方に批判的な立場。特にヨーク公リチャード・プランタジネットは、戦争が財政的に負担であると考えていた。また、ヨーク家は百年戦争よりも国内問題、特に王位継承や権力の分配に強い関心を持っており、フランスとの戦争よりも、イングランド国内での政治的な安定と自らの地位向上を重視していた。ヨーク家は、ランカスター家のフランスでの失敗を利用し、その失策をもとに同家の弱体化を図り、自らの正当性を訴えるための材料にした。
2. 王位継承問題
ヨーク家とランカスター家は共にイングランド王位の正当な継承権を主張し、対立が深まった。プランタジネット朝の国王エドワード3世の四男エドマンド・オブ・ラングリーは、ヨーク公を名乗るプランタジネット朝の分家。ランカスター家もエドワード3世の血筋で同朝の分家だが、ランカスター家のヘンリー6世が王位を継いでいた。しかし、ヘンリー6世は精神的に不安定で統治能力が欠けており王権が低下していた。そこで、ヨーク家を継いだリチャード・プランタジネットがイングランド王位を要求。財産や爵位、王位継承権もそろっていたリチャード・プランタジネットだが、ヘンリー6世を守るランカスター家が拒否したため、王廷における主要なポストは与えられなかった。こうしてヨーク家は1455年にランカスター家と内戦に突入した。1455~85年の30年間で、イングランド国内で約15回の戦いが起きている。
3. 貴族間の権力争い
フランスとの百年戦争が終結した後、帰国した兵士や貴族たちが国内で権力を巡って争うようになった。エドワード3世の孫たちが複数の系統に分かれており、それぞれが王位継承を主張することで、争いがさらに複雑化。貴族たちがそれぞれの勢力を拡大し、王位に対する野心を持つようになったことから地方の対立が激化した。戦争や不作による経済的な不安定も社会全体の不満が増大させた。
1461年に英北部ノース・ヨークシャーで起きた
タウトンの戦い(The Battle of Towton)の記念碑。
3万人近い死傷者が出たという
最終的にはどうなった?
ヨーク家とランカスター家の戦いは単なるお家騒動にはとどまらず、イングランド中を巻き込んだ戦いとなった。ランカスター家の勝利によって、英国は近代国家へと歩み始める。
1. 両家の争いに決着
薔薇戦争の勝敗は、1485年8月22日のボズワースの戦い(The Battle of Bosworth)で決まった。ランカスター家であり、後のヘンリー7世であるヘンリー・チューダーがヨーク家の最後の王リチャード3世を打ち破った。その結果、チューダー家がイングランドの王位を獲得し、薔薇戦争は終結。プランタジネット朝時代も終わりを告げ、チューダー朝時代が始まった。
ヘンリー7世はヨーク家とランカスター家の間の争いを終わらせるため、エリザベス・オブ・ヨークと結婚。ちなみにエリザベスは王位を追われロンドン塔に幽閉された幼い兄弟、エドワード5世とヨーク公リチャードの姉にあたる。この結婚によって両家の対立が終息し、イングランドは比較的安定した時代を迎えることになる。やがてヘンリー7世とエリザベスの間に生まれるのが、型破りな行動で英国の歴史を変えたヘンリー8世だ。
ボズワースの戦いがあった場所といわれている、英中部レスターシャーのフェン・レインズ・ファーム
2. 中央集権が強化される
薔薇戦争の結果、王権の強化とともにイングランドの法律や制度に対する改革が進んだ。特にヘンリー7世は中央集権を強化し、貴族の権力を制限するための法律を整備。これが後のイングランドの政治制度に影響を与えることになった。これにより、土地を持たない農民や新興の商人階級が力を持つようになり、社会の階層構造に変化がもたらされた。中世が終わりを告げ、近代国家の始まりとなったといえる。
薔薇戦争で重要な役割を担った5人
敵との同盟や味方の裏切りが複雑に絡み合った薔薇戦争は、多くの兵どもが権力を巡ってしのぎを削った。ここでは、その中でも後世に語り継がれる印象深い人物5人を紹介する。
1 悪役の代名詞
リチャード3世
Richard III, 1452-85
薔薇戦争といえばまず名前が挙がるのがリチャード3世。自分が王権を握るためには親族を殺害、追放、投獄する徹底ぶりで知られるが、その治世は2年と短く、ボズワースの戦いで敗れ、ヨーク家、そしてプランタジネット朝時代の最後の王となった。
リチャード3世の肖像 (1500年ごろ)
即位リチャード・プランタジネットの八番目の子。兄のエドワード4世が1483年に急死した後、リチャードは甥である12歳のエドワード5世の後見人として任命された。しかしすぐにその王位を狙い始め、エドワード5世とその弟ヨーク公リチャードの王位継承権に難癖をつけてロンドン塔に幽閉。リチャード3世として即位した。幽閉された幼い王子たちは「塔の王子たち」として知られるようになり、リチャード3世は残酷な人物として著しく評価を落とした。
行政改革悪者呼ばわりされているが、その行政改革は公正さと効率性を重視していると、改めて歴史家からの評価が高まっている。ただ在位は2年に過ぎないため、それらの改革が長期的に実を結ぶことはなかった。改革は法律が中心で、①法的手続きの簡素化と公正さの向上を目指し、庶民が簡単に訴訟を起こせるようにした、②透明性を高めるため、法律を文書化。一般に利用可能にし法の安定化を図った、③特定の利益団体や個人が影響力を行使して陪審員に干渉できないようにした、など。このほかにも、貧困者に対する支援を強化し、貧しい人々が食糧や居住地を得られるようにする政策を打ち出すなど、平和な時代であれば良い国王になった可能性がある。
肖像画と容姿リチャード3世は脊椎側弯症だったため、しばしば背中が曲がった姿で描かれた。中世の西洋では悪者の髪や瞳を黒くすることが多く、リチャード3世もそのように描写されたが、最近発見された遺骨のDNAを調べたところ、90パーセント以上の確率で金髪、青い瞳であったことが分かっている。敵であったランカスター家、つまり後のチューダー朝がリチャード3世を悪者としたこと、さらにはシェイクスピアの戯曲によって悪役としてのイメージが強調され過ぎた結果だろう。
最期ボズワースの戦いで戦死。リチャード3世の軍は約8000人で、数ではヘンリー・チューダー軍の優位に立っていた。しかし本来リチャード3世に従うべきであったスタンリー家が裏切り、チューダー軍側に加勢。リチャードはヘンリーを自分で直接討ち取ろうと、重い斧を振り上げ無謀ともいえる突撃を試みた。しかしこの勇敢な行動は自殺行為となり、頭部を何カ所も負傷し、落馬したところをヘンリー・チューダー軍に取り囲まれた。リチャード3世の遺体は英中部レスターのフランシスコ会修道院に埋葬されたというが、その墓の場所は長い間判明していなかった。
死後の評価リチャード3世の遺体は500年以上行方不明だったが、2012年にレスター市内の駐車場の下で発見された。遺骨の分析から、頭部に複数の致命傷を負っていたこと、実際に脊椎側弯症を患っていたことが確認され、遺骨がリチャード3世のものであることが明らかになった。15年にはレスター大聖堂で改葬された。遺骨の発見に尽力したのは歴史家フィリッパ・ラングレー氏だが、同氏はリカーディアン(Richardian)の1人。これはリチャード3世を支持し、その治世や評価を擁護する歴史家や研究者を指す。シェイクスピアの「リチャード三世」による否定的な描写のおかげで冷酷で残忍なイメージが強いが、それに対抗する形で、リチャード3世を再評価しようとする動きがある。
2015年、レスター大聖堂に安置されたリチャード3世の墓
2 息子と夫のために戦う悪役の代名詞
マーガレット・オブ・アンジュー
Margaret of Anjou, 1430-82
マーガレット・オブ・アンジューはヘンリー6世の王妃として知られるフランス出身の貴族で、薔薇戦争において重要な役割を果たした。夫ヘンリー6世の精神的な弱さを補うために積極的に政治に関与し、ときに戦争を激化させた。
マーガレット・オブ・アンジューの銅版画
出身フランスのアンジュー公ルネ・ダンジューとイザベル・ド・ロレーヌの娘として誕生。当時のフランスで重要な地位を占めていた家系で、1445年にヘンリー6世と結婚し、イングランド王妃となった。当初は百年戦争中のフランスとの和平を目的とした政治的結婚だったが、やがてイングランド内政に深く関与するようになる。
野心非常に強い意志を持ち、政治的野心がもともとあったことから、戦いが嫌いで精神的に不安定なヘンリー6世に代わり、実質的にイングランドの治世を担った。フランスとイングランドの和平を重要視するあまり抗戦派の貴族たちを遠ざけ、歯向かう者は容赦なく獄死させた。やがてそれが原因で内乱が悪化。薔薇戦争ではランカスター軍のリーダーとして積極的に行動し、幼い息子であるエドワードを王位に就けるために何度も軍を指揮した。また、庶民は助命したが貴族は容赦なく処刑し、ヨーク公やソールズベリー伯をはじめ多くの親族の首も城壁にさらした。部下たちが処刑命令に躊躇するほどだったともいわれる。
3 平和が好きで家に籠っていたかった
ヘンリー6世
Henry VI, 1421-71
ヘンリー6世は百年戦争末期から薔薇戦争の中期にかけての国王で、ランカスター家の君主。精神的に不安定で統治能力に欠け、薔薇戦争の原因となる国内の混乱を引き起こした。何度も幽閉されたが最終的にヨーク軍に王位を奪われ、ロンドン塔で死去。妻はマーガレット・オブ・アンジュー。
温和で戦いを嫌ったヘンリー6世
即位1421年にヘンリー5世とキャサリン・オブ・ヴァロワの子としてウィンザー城で誕生し、生後9カ月でイングランド王に。2カ月後には母方の祖父シャルル6世の死により、フランス王位を同時に継いだ。
平和主義者非常に信心深く、学問や宗教に熱心だったという。平和主義であり、軍事や政治に対する興味や能力に乏しかった。性格は内向的で、強いリーダーシップを発揮することもなかった。ヘンリー6世の治世中にイングランドはフランスでの支配権を失い、百年戦争で優位だったイングランドは撤退を余儀なくされた。これが国内の不満を増大させ、薔薇戦争の原因の一つともなった。
精神的不安定祖父のシャルル6世からの遺伝で、しばしば精神的に不安定になった。百年戦争での撤退時には発狂したといわれる。続く1453年にも精神崩壊を経験。この間は王としての責務を全く果たすことができず、国内の政治が混乱した。国王が幼少であったり病気だったりすると、一部の貴族が代わって実権を握ることになる。ウォリック伯やサマセット伯など一部の有力貴族が力を持つのを恐れたランカスター家は、敵対はするが同じプランタジネット朝のヨーク家のメンバーを利用したことすらあり、両家の関係は複雑化した。内乱の中でヘンリー6世はしばしばヨーク軍に捕らえられたが、61年の第2次セント・オールバンズの戦い(The Second Battle of St Albans)では戦闘の最中に笑い出したり歌ったりの錯乱の発作を見せた。
最期ヘンリー6世は1471年に幽閉されたロンドン塔で謎の死を遂げた。ヨーク家のエドワード4世の命令で暗殺されたといわれている。
評価だめな国王というレッテルを貼られているヘンリー6世だが、教育を重視しイートン・カレッジとケンブリッジ大学のキングス・カレッジを設立した。また、王位にありながら何度も幽閉されロンドン塔で死去したことなどから、当時の庶民から「平和を愛する気の毒な国王」、転じて「聖人」へと評価が変わった。墓のあるウィンザー城には多くの巡礼者が集まるようになり、ヘンリー6世の持ち物である赤いベルベットの帽子は聖遺物にされた。その帽子を被ると頭痛が治るという噂まで流布したという。
4 気さくでハンサムな女好き
エドワード4世
Edward IV, 1442-83
エドワード4世はヨーク家から出た最初の国王。戦には強いものの、自分が好きな女性を勝手に王妃に選んだことで有力貴族である従兄から反乱を起こされ、一時期退位するはめになった。また、息子であるエドワードの王位継承権を実の弟に奪われるなど、親族に翻弄された生涯を送った。
ハンサムといわれたエドワード4世の肖像画
出身ヨーク公リチャード・プランタジネットとセシリー・ネヴィルの次男で、末の弟はリチャード3世。従兄はウォリック伯リチャード・ネヴィル。母親のセシリーは遠くランカスター家とも血縁関係にある。
即位1460年のウェイクフィールドの戦い(The Battle of Wakefield)で命を落とした父の遺志を継ぎ、61年にタウトンの戦いでランカスター家のヘンリー6世から王位を奪った。だが69年から従兄であるウォリック伯との対立が深まったことから、ヘンリー6世が復位。しかし71年にテュークスベリーの戦いでランカスター軍を再び破り、王位を取り戻した。
結婚騒動ウォリック伯は、エドワード4世の王妃としてフランスのルイ11世妃の妹との婚約話を進めていた。ところが、エドワード4世は1464年にランカスター軍の騎士の未亡人で、2人の子持ちであるエリザベス・ウッドヴィルと秘密裏で結婚してしまう。エリザベスの父親はランカスター家の元侍従で、ヘンリー6世によって爵位を得たばかりの新興貴族だった。身分が違う上、敵方の息がかかった女性との結婚は、ほかの貴族の不評を買った。また、ルイ11世妃の妹との正式な婚約まであと一歩というところまで話を詰めていた、ウォリック伯の面目も丸つぶれとなった。
亡命1469年、ウォリック伯はエドワード4世の弟クラランス公ジョージを「国王になれるよう応援する」とそそのかした上、亡命中のヘンリー6世の王妃マーガレット・オブ・アンジューにも声を掛け、エドワード4世に対して反乱を起こす。エドワード4世はネーデルランドへ亡命するが、71年に帰国しバーネットの戦いとテュークスベリーの戦いに身を投じた。
容姿世界中の貴公子の中で最も美しいといわれ、女性関係のスキャンダルが絶えず愛人も多かった。その一方で、気さくで貧富の差を気にせず、人に好かれる性格だったという。
5 慎重派でリスクは避ける
ヘンリー7世
Henry VII, 1457-1509
王位に就く前の名はヘンリー・チューダー。ランカスター家の出身で、薔薇戦争を終結に導いたことで知られる。即位によりチューダー朝が成立した。国内を安定させ、イングランドの繁栄の基盤を築いた。
1505年に描かれたヘンリー7世の肖像画
即位ランカスター家の一員として、ウェールズのペンブルック城で誕生。母はランカスター家の血を引くマーガレット・ボーフォート、父はエドマンド・チューダー。1485年に亡命先のフランスから帰国し、リチャード3世をボズワースの戦いで打倒した。これによりヘンリー7世としてイングランド王に即位し、チューダー朝を開いた。24年間王位に座り、平和な時代のまま息子ヘンリー8世が王位を継承。ちなみにヘンリー7世の長男、アーサーは1502年に15歳で急死しており、ヘンリー8世は次男。
治世ヨーク家とランカスター家の長年の争いである薔薇戦争を終結させた。エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと結婚することで、両家を統一した。外交も慎重で平和的な政策を追求。これまで失ったフランス内の領土を奪回しようとはせず、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国などと婚姻関係を通じて同盟を結び、イングランドの国際的地位の強化に努めた。また、海軍の重要性を説き、船の検査や整備、修理を行う施設である世界初の乾ドックを建設した。王権を強化し中央集権化を進めるために税制改革を行い、地方の貴族たちの権力を抑え国内の安定を図ることに成功。また、貨幣と度量衡を統一して商品流通の円滑化を進めた。
性格慎重な上に計算高い面もあり、リスクを避ける傾向があった。やっとつかんだ王位を確保するために、反乱や陰謀に対して厳しく対処し、統治においても安定と秩序を重視した。精神の不安定なヘンリー6世、豪胆なヘンリー8世の間にいて一見地味なヘンリー7世だが、この堅実なヘンリー7世なしには次のヘンリー8世の華やかなチューダー朝時代はなかった。
最期1509年、リッチモンド宮殿で死去。
後世に描かれた薔薇戦争
絵画からテレビ・ドラマまで、さまざまな媒体で取り上げられている薔薇戦争。ここでは代表的なものを紹介する。
絵画「塔の王子たち」
Princes in the Tower, 1878
ジョン・エヴァレット・ミレイ
「オフィーリア」などで知られる19世紀ラファエル前派の画家ミレイによるこの作品は、1483年に叔父のリチャード3世によってロンドン塔に幽閉された幼い兄弟、エドワード5世と弟のヨーク公リチャードの姿を描いたもの。物語性のある抒情的な作品を得意としたミレイは、不安におびえる兄弟の表情、階段の上から忍び寄る暗殺者の影といった緊迫したシーンを描き、発表当時から高い人気を博した。
幽閉後に行方知れずとなった幼い兄弟は、リチャード3世の差し向けた暗殺者によって、12歳と9歳という若さで塔内で殺害されたのではないかと長年噂されていた。実際に、約200年後の1674年にロンドン塔のホワイト・タワーの階段下3メートルの地下から、2体の子どもの骨が出土。確たる証拠はないが遺骨は兄弟のものではないかとされ、78年に権力争いの被害者としてウェストミンスター寺院に埋葬されている。ただし2023年、リチャード3世の遺骨発掘にも貢献したラングレー氏が新たな研究成果を発表した。それによると、2人の王子はロンドン塔内で死んではおらず、脱出し欧州大陸へ逃亡。ヨーク家の再興のために力を尽くしたのだという。真相は藪の中だ。
演劇「ヘンリー六世」「リチャード三世」
ウィリアム・シェイクスピア
劇作家シェイクスピアは百年戦争の後期から薔薇戦争の末期までを「ヘンリー六世」(1590 ~91 年)「リチャード三世」(92 ~94 年)の2作品で描いた。初期作品である「ヘンリー六世」はエドワード・ホールの「年代記」(48年)や、ラファエル・ホリンズヘッドの「年代記」(77年、87年)などを参考にして描いた歴史劇で、3部構成となっている長編の悲劇。3部全てが一気に上演されることは滅多にないが、権力の座を巡った愛憎入り混じる骨肉の戦いが、冗舌で辛辣な、シェイクスピアならではのセリフ回しで進行する作品だ。しかしながら「ヘンリー六世」はシェイクスピアが初めて書いた戯曲。役者になるべく地方からロンドンに出てきた弱冠26歳の青年が、いきなりこのような長い歴史ドラマを書いたという事実を疑問視する研究者も多い。エリザベス朝時代は戯曲の共同執筆が当たり前だったことから、今では当時活躍していた劇作家クリストファー・マーロー(Christopher Marlowe、64~93年)との共同執筆という説が有力視されている。
「リチャード三世」は、王座に就くためには何でもする狡猾で残忍なヨーク家出身の国王、リチャード3世の姿を描く。役者にとっては「ハムレット」のハムレット役と並んで最も演じがいのある役柄として、多くの名優が演じてきた。
ドラマ「ホロウ・クラウン/嘆きの王冠」
Hollow Crown : The War of Roses, 2016
BBC制作のこのテレビ・ドラマ・シリーズは、2012年に放送の第1シリーズで百年戦争を、16年放送の第2シリーズで薔薇戦争を扱っている。シェイクスピアの「ヘンリー六世」三部作と「リチャード三世」を基にしている。演劇とは異なり視覚的にも豪華なうえ、ベネディクト・カンバーバッチがリチャード3世を、ソフィー・オコネドーがマーガレット・オブ・アンジューを演じたほか、ジュディ・デンチやマイケル・ガンボンなどベテラン俳優もこぞって出演し大ヒットした。
ドラマ「ホワイト・クイーン 白薔薇の女王」
The White Queen, 2013
フィリッパ・グレゴリーの原作を基にBBCで放送されたミニ・ドラマ・シリーズ。薔薇戦争を女性たちの視点から捉えた。ヨーク家のエドワード4世に嫁いだエリザベス・ウッドヴィル、リチャード3世の妃となるアン・ネヴィル、そして薔薇戦争を終結に導いたヘンリー7世の母マーガレット・ボーフォート、この3人の女性それぞれの野望や戦いを描く。
ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」
Game of Thrones, 2011-19
米作家ジョージ・R・R・マーティンのSFファンタジー小説「氷と炎の歌」シリーズを原作とした、米テレビ・ドラマ・シリーズ。薔薇戦争そのものを舞台にしているわけではないが、世界観は強い影響を受けている。
映画
「ロスト・キング 500年越しの運命」
The Lost King, 2022
リチャード3世の遺骨が500年の時を経て発見された実話をもとにしたヒューマン・コメディー。芝居を観たことで、理不尽なまでに悪役となっているリチャード3世に魅了されたアマチュア歴史家フィリッパ・ラングレーが、遺骨の発掘に成功するまでを描く。ラングレーを「シェイプ・オブ・ウォーター」や「パディントン」シリーズのサリー・ホーキンスが演じる。監督は「クィーン」(The Queen)のスティーヴン・フリアーズ。