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Tue, 22 September 2026

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カウンシル・フラットの光と影 - 英国公営住宅の建築事情

英国の住宅事情 カウンシル・フラットの光と影

1960〜80年代に建てられたブルータリズム建築を筆頭に、公営住宅の多くはその建物の無骨さや古さから、かつて低所得者向けの安っぽい住居と思われていたイメージを離れ、今やレトロでおしゃれな存在と一部の人々から認識されている。だが一方で、その背景には建物の老朽化や地域の再開発によって公営住宅が壊されていき、昔からの住人たちがジェントリフィケーションの波を受け行き場を失いつつあるという問題もある。そして2026年の現在、英国はより切実な社会賃貸住宅の不足に直面している。まずは、公営住宅がどのように生まれ、変遷してきたのかを歴史的・文化的な面から振り返りたい。
(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Municipal Dreams: The Rise and Fall of Council Housing by John Boughton、英国の公営住宅の歴史と政策に関する調査研究報告書 by一般財団法人 住宅改良開発公社ほか

ロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワーロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワー

カウンシル・フラットとは

カウンシル・フラットは、英国の地方自治体によって建てられた低所得者向け公営住宅で、カウンシル・ハウス、カウンシル・エステートなどとも呼ばれる。割安な家賃で、低所得者のほか、失業者、シングル・マザー、生活保護対象者などが優先的に入居できる仕組みだ。一戸建てから高層のタワー・ブロックまで、時代や地域によりさまざまな種類があり、その多くは1919年の住宅法改正後から1980年代にかけて建設された。以来カウンシル・フラットの建設は大幅に減少しているといわれている。

もともとカウンシル・フラットは、1875年の公衆衛生法で定められた地方都市のスラム解体政策の一部であり、当初の目的は労働者階級の暮らしを向上させ、同時にスラムをなくすことで近隣の土地の価値を上げることだった。その後、第2次世界大戦による住居の破壊、急激なインフレーション、兵士の復員による新婚世帯の増加などが原因で、深刻な住宅不足が起きる。これを受けた政府は1946年、住宅法を制定し公営住宅の建設を積極的に推進。51年までに英国全土で約90万戸のカウンシル・フラットが建設された。やがて1960年代に入ると、再び都市部のスラム解体政策に重点が置かれるほか、核家族化に伴う若年層・高齢者用住宅の建設も開始。住居の大量供給のためカウンシル・フラットの高層化も進んだ。こうして、53年時点の公営住宅におけるタワー・ブロックの割合は2割以下だったのに対し、1961年から66年にかけては約4割と、大幅に増加した。しかし80年代以降、住宅政策は大きく転換し、公営住宅の建設・保有をめぐる自治体の役割も変化していくことになる。

Right to Buyの功罪

マーガレット・サッチャー首相率いる保守党政権が1980年の住宅法によって導入したのが、Right to Buyという制度。公営住宅の住人が、現在居住する物件を市価より安い値段で購入できる権利を与えるもので、この制度によって英国の持ち家率は飛躍的に上昇した。この制度は現在も改定されながら続いているる。現在、一戸建ては3年の居住で35パーセント、フラットは50パーセントの割引から始まり、居住年数に応じて最大70パーセントまで上がる。ただし現在は地域ごとの上限額があり、割引は1万6000~3万8000ポンドまで。ロンドンでは原則1万6000ポンドが上限となる。一方で、入居者に住宅を売却するということは、公営住宅の数が減ることでもある。売却された住宅が、その後も公営住宅として使われ続けるとは限らない。新たに建設される住宅の数が売却数に追いつかなければ、公営住宅のストックは徐々に減っていくことになる。実際、1980年に制度が始まってから2025年3月までに、英国では200万戸を超える社会住宅がRight to Buyによって売却された。2024~25年度だけでも、9000戸を超える社会住宅が売却されている。

ロンドンなどの都市部では、1980年代に買い取られ民営化された元公営住宅が、立地の良さや建築デザインの面白さから高額で売りに出されたり、月数千ポンドで貸し出されたりという事態になり、高額所得者と生活保護受給者が隣同士で暮らすことも珍しくない。戦後、労働者階級のために建てられた公営住宅は、現在大きな過渡期を迎えているといってよいだろう。

新しい波がやってきた?

Right to Buyの仕組みは自治体に大きなひずみをもたらした。新たな公営住宅建設には政府からの資金援助が望めず、借入金にも厳しい制限があることから、自治体は従来とは異なる方法で公営住宅建設の費用を捻出する必要があった。そこで、地方自治体は所管の住宅建設会社を設立。民間の土地開発業者のように、個人向け住宅を建設・販売し、その収入を公営住宅建設費に充てるというスタイルを編み出した。その一例が、ロンドン東部のショーディッチ・パーク近くに立つ2棟の豪華マンションだ。全198戸の最上階には、デービッド・チッパーフィールド卿が設計した195万ポンド(現在の円換算だと約4億725万円)のペントハウスが鎮座する。地元のハックニー・カウンシルが開発し、収益は隣地の公営住宅再建に充てられるのだという。

このような動きはロンドンだけに限らない。すでに英国の地方自治体の3分の1以上が独自の住宅建設会社を設立した。1980年の住宅法によって力を奪われていた地方自治体は、ほぼ40年ぶりに、再び自分たちで公営住宅を建設し始めたところだ。英中部のシェフィールドでも、2029年までに最大1000戸の新たな住宅を供給する計画で、現在建設中のニュー・ステッド地区では77戸をすべて社会賃貸住宅として整備するという。また、これから建てられる公営住宅は、戦後すぐ、粗末な建材で作られたものとは異なり、人にも環境にも優しいパッシブ・ハウス(省エネ・ハウス)であったり、遊び心にあふれたデザインだったりと、これまでの公営住宅のイメージを覆すものになりそうだ。

英国文化とカウンシル・フラット

カウンシル・フラットは、単に家賃の安いフラットが集まっている場所ではない。そこでは多くの人々が暮らし、地域のコミュニティーが生まれ、英国の音楽や映画などの文化にも影響を与えてきた。例えば、英中部マンチェスターのヒューム・クレセンツは、1970年代に建設された巨大な公営住宅だった。設計上の問題や老朽化などから次第に荒廃し、80年代には家賃が徴収されなくなるほどの状況に陥った。しかしその一方で、空いた住宅には学生やアーティスト、ミュージシャンらが集まり、クラブや音楽の拠点も生まれた。荒廃した巨大住宅群が、マンチェスターのカウンター・カルチャーを育てる場所の一つになったのである。

カウンシル・フラットには長く、「犯罪」「貧困」「荒廃」といった負のイメージもつきまとってきた。特に戦後に建てられた高層住宅は、英国映画やテレビの中で、いわゆる「荒れた公営住宅」の象徴として描かれることも少なくなかった。ところが近年、その建築そのものを見直す動きも広がっている。むき出しのコンクリートや大胆な構造を持つ建物は、ブルータリズム建築として再評価され、保存や修復の対象となるものもある。一方で、建築としての評価が高まることが、もともとそこで暮らしてきた人々の生活とは別の文脈で語られてしまうという問題も指摘されている。カウンシル・フラットを見れば、英国の住宅政策だけでなく、そこで暮らしてきた人々の生活や、階級、文化、そして建築に対する社会の価値観の変化まで見えてくる。

英国の住宅問題、いま何が起きてる?

かつては「低所得者のための住宅」として建てられたカウンシル・フラット。だが2026年現在、英国では住宅不足が深刻化し、住む場所を確保できない人々が増えている。社会賃貸住宅の不足に加え、住宅の安全性や老朽化、維持・修繕の問題も浮上。住宅の供給を増やすだけでは解決できない課題が積み重なっている。英国はいま、どのような住宅問題に直面しているのだろうか。

1. 住む家がない

英国ではいま、住宅不足が深刻な社会問題となっている。イングランドでは2025年、社会住宅(social housing)の入居待ち世帯が130万を超えた。一方、住まいを失った人々を受け入れる一時的な居住先(temporary accommodation)で暮らす世帯も増えており、26年3月末時点で13万5580世帯、その中には17万7530人の子どもが含まれている。

こうした状況の背景には、低所得世帯が長期的に住み続けられる社会賃貸住宅(social rent homes)の不足がある。住宅問題を支援する慈善団体シェルターは、イングランドでは今後10年間、年間9万戸の社会賃貸住宅が必要だと試算する。しかし24~25年度に実際に供給されたのは、約1万2000戸にすぎない。1960年代には地方自治体だけで年間平均12万戸を建設していたことを考えると、その落差は大きい。

政府は26年、今後10年間で390億ポンドを投じる「社会・アフォーダブル住宅供給プログラム」(Social and Affordable Homes Programme)を発表し、地方自治体による住宅建設の再活性化にも乗り出した。

「ホームレス」=路上生活、ではない

英国でいう「ホームレス」は、路上で暮らす人だけを指すわけではない。住まいを失い、自治体から一時的な居住先を提供されている世帯も含まれる。ホテルやB&B、民間のフラットなどで暮らしながら、恒久的な住居をの提供を待つ人たちもいる。一時的な居住先に入れず、友人や親族の家を転々とする人なども、広い意味でホームレスに含まれる。

路上のテント2026年8月19日、バーナム首相はクリスマスまでに路上生活者を路上から救うキャンペーンを開始した

2. 「安い家」が足りない

ここで分かりづらいのが、社会住宅にはいくつかの種類があることだ。低所得者が比較的安い家賃で長く暮らせる社会賃貸(social rent)は、政府の算定方式に基づいて家賃が決められる。一方、アフォーダブル・レント(affordable rent)は市場家賃の最大80パーセントまで設定できる。「アフォーダブル=手頃な価格」と呼ばれていても、低所得の家庭にとっては、決して安いとは限らない。つまり、「物件がある」ことと、「無理なく払える価格の住宅がある」ことは別の問題なのである。

しかも社会賃貸の住宅は今も減り続けている。2025年3月末までの1年間で、イングランド全体では約4100戸減少。地方自治体が保有する住宅だけを見ると、約7000戸も減った。その背景の一つが、1980年に導入されたRight to Buyだ。制度によってカウンシル住宅が大量に売却された一方、売却分を補うだけの社会住宅が建設されてこなかったことが、現在の住宅不足につながっている。24~25年度だけでも、Right to Buyなどによって9236戸の社会住宅が売却された。

3. 安全な家が必要

家が見つかれば、それで安心というわけでもない。2017年のグレンフェル・タワー火災は、社会住宅において安全な住環境がいかに重要かを英国社会に突きつけた。その後、社会住宅の安全性や管理に対する規制が強化され、2023年には社会住宅(規制)法(Social Housing (Regulation) Act)が成立した。

さらに2025年10月には、深刻なカビや湿気への対応を強化する「アワーブの法」(Awaab's Law)が施行された。これは、英中部マンチェスターで、公営住宅のカビによる呼吸器疾患で、20年に2歳で亡くなったアワーブ・イシャク(Awaab Ishak)君の名を冠したものだ。

グレンフェル・タワー火災とは

2017年6月14日未明、ロンドン西部の高層住宅グレンフェル・タワーで火災が発生し、72人が死亡した。グレンフェル・タワーは、低所得者向けの社会住宅として1972~74年にかけて建設されたカウンシル・フラットである。火は一室から建物の外壁へ燃え広がり、わずか数時間のうちにほぼ建物全体を覆った。その後の調査では、外壁の改修に使われた建材や防火対策だけでなく、建築規制、建物の管理、行政の対応など、さまざまな問題が明らかになった。

メモリアルのシートが張られたグレンフェル・タワーメモリアルのシートが張られたグレンフェル・タワー

4. 住宅問題は政治問題

住宅を巡る問題が広がれば、政治も無関係ではいられない。その象徴ともいえるのが、バーナム首相が打ち出した大規模な住宅建設計画だ。政府は26年8月、今後10年間で390億ポンドを投じる住宅供給計画を発表。最初の約96億ポンドを33の自治体や住宅協会などに配分し、7万戸を超える住宅の建設を進める。供給される住宅の約60パーセントは社会賃貸となる見込みだ。「全ては良い住まいから始まる」と語るバーナム首相は、自治体によるカウンシル住宅建設を再び増やそうとしている。ただ、第1弾では約40パーセントが社会賃貸以外の住宅にも充てられることになり、深刻な社会住宅不足に対して、これで十分なのかという疑問も出ている。

一方、住宅不足は移民や難民を巡る政治的対立とも結びついている。亡命申請者の受け入れにホテルなどが使われてきたことから、「移民に住宅を奪われている」といった主張も広がった。しかし、英国の住宅不足は移民だけが原因ではなく、社会住宅の不足や住宅建設の停滞が長年積み重なった結果でもある。

建築から見るカウンシル・フラット

ロンドンの公営住宅は、時代ごとの住宅事情や政策、都市計画を反映しながら、さまざまな姿で建てられてきた。戦前の集合住宅から、戦後の庭付き住宅、1960~70年代に数多く登場した高層のタワー・ブロックまで、住宅政策の変化を映し出す8棟を紹介しよう。

1 世界一古いカウンシル・フラット BOUNDARY ESTATE
バウンダリー・エステート

BOUNDARY ESTATEかつての悪名高いスラムが落ち着いたエリアに

ロンドン東部ショーディッチ・ハイ・ストリートとベスナル・グリーン・ロードの間にある公営住宅。緑の美しい円形公園アーノルド・サーカスの周りに配置された、ヴィクトリア朝の赤レンガ造りの建物で、1890年、悪名高いスラム、オールド・ニコルの跡地に建設された。当時盛んだったアーツ&クラフト運動の影響を受けており、ロンドンで最初の、そしておそらく世界で最初のカウンシル・フラットといわれている。

Calvert Avenue, London E2
Shoreditch High Street駅

2 灰色の美、タワー・ブロック BALFRON TOWER
バルフロン・タワー

BALFRON TOWERインパクト大の無機質なフォルム

1960年半ば、ハンガリー出身の建築家エルノ・ゴールドフィンガーによってデザインされた、26階建てのタワー・ブロック。余計な装飾を排した打放しのコンクリートと直線が強調されたブルータリズム建築は、伝統的な建築物が多く残る当時のロンドンにあって、いかに挑戦的なデザインだったか想像できる。同じくゴールドフィンガーがロンドン西部に建築したトレリック・タワーも、同様の構造を持つ。

St. Leonards Road, London E14
All Saints DLR/ Langdon Park DLR駅
https://balfrontower.co.uk

3 ブルータリズム低層住宅の見本 ALEXANDRA ROAD ESTATE
アレクサンドラ・ロード・エステート

ALEXANDRA ROAD ESTATEまるで一つの町のような迫力の520戸

第二次世界大戦後の英国で活躍し、集合住宅のパイオニアと呼ばれる米国人建築家、ニーヴ・ブラウンによる迫力満点の低層住宅。1978年に完成し、その後、重要建築物として1993年にGradeII指定を受けた。520戸の住宅のほか、学校やコミュニティー・センターを併設し、屋根部分は緑いっぱいの公園になっている。印象的な外観から多くの映画作品のロケ地ともなっており、2014年の英米合作映画「キングスマン」では、主人公エグジーの実家として登場した。

Rowley Way, London NW8
South Hampstead駅
https://alexandraandainsworth.org

4 モダニズムの極致 BEVIN COURT
べヴィン・コート

BEVIN COURTの階段鮮やかな赤は、1954年のオリジナル・カラーを2014年に復元したもの

ロシアから亡命し英国で活躍した建築家バーソルド・リュベトキンが、戦後間もなく手掛けたモダニスト建築。従来の公営住宅のイメージを打ち破るモダンなデザインでありながら、景観を壊さず周囲との調和を図るのがリュベトキン・スタイル。かつて亡命中のレーニンが滞在していたことから、敬意を表し「レーニン・コート」と名付ける計画があったものの、戦後英露の関係が悪化し、反共産主義の英外相アーネスト・べヴィンの名が冠された。

Cruikshank Street, London WC1X
Angel / King's Cross St.Pancras駅
https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1246687

5 眺望を第一に作られた住まい DAWSON'S HEIGHTS
ドーソンズ・ハイツ

DAWSON'S HEIGHTS近隣の住民からは「戦艦」と呼ばれる公営住宅

古代メソポタミアの神殿やピラミッド、または要塞に例えられることの多い1964~72年建設の公営住宅。12階建ての2棟から成り、鉄道建設時に除去された捨石の集積された小高い丘の上に建てられている。298戸のうち3分の2からは、南北両方向のパノラマ・ビューが楽しめる。ロンドン南部ランべスのリーガム・コート・ロード建築などで知られるスコットランドのデザイナー、ケイト・マッキントッシュが手掛けた。

Overhill Road, London SE22
ナショナル・レールForest Hill駅
https://trodgersjohns.wixsite.com/dawsonheightsproject

6 イアン・フレミングに嫌われた建物 TRELLICK TOWER
トレリック・タワー

TRELLICK TOWERノッティング・ヒル・ゲートに近く立地もよい

ジェームズ・ボンドの生みの親として知られる作家、イアン・フレミングは、建築家エルノ・ゴールドフィンガーのタワー・ブロックが気に入らず、ボンドの敵役をゴールドフィンガーと名付けた、とする説もあるが、その確かな証拠はない。地上31階建て、高さ98メートルのトレリック・タワーは、共産圏の建築を思わせる無機質さと威圧感を持ち合わせ、バランスの悪い渡り廊下もインパクト大。今や近隣のランドマーク的存在で、観光客が訪れるほどだ。

Golborne Road, London W10
Westbourne Park駅
https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1246688

7 建設時はトラブル続き BRUNSWICK CENTRE
ブランズウィック・センター

BRUNSWICK CENTRE外観はクリーム色に塗られるはずが、自治体の資金不足で図らずもブルータリズム風になったという逸話も

ロンドン中心部、ラッセル・スクエア駅前のショッピング・センターに隣接する低層住宅。大規模な集合住宅としてユーストン・ロードまで延びる予定だったが、国防省が関連施設の移動を拒んだことから土地を買収できず、こぢんまりしたものに。1972年に完成し、当初は公営ではなく一般向けテラス・ハウスとして販売されたが、入居者が集まらず公営住宅用に払い下げられた。デザインはパトリック・ホジキンソン。

Marchmont Street, London WC1N
Russell Square駅
https://brunswick.co.uk

8 住人からも愛される集合住宅 DUNBOYNE ROAD ESTATE
ダンボイン・ロード・エステート

DUNBOYNE ROAD ESTATE向かい合わせの長屋のようなスタイル

アレクサンドラ・ロード・エステートの設計で知られるニーヴ・ブラウンが手掛けた、公営としては初の低層集合住宅で、1967年に完成。住宅71戸にスタジオとショップが付き、各戸には共同のガーデンを見下ろす大きなテラスがある。プライバシーと公共性のバランスが程よく、同時代の建築家が目指した高層の住宅とは真逆のデザイン性を持つと評価されており、住人からの人気も高いという。重要建築物としてGradeII指定を受けた。

Dunboyne Road, London NW3
Gospel Oak/Belsize Park駅

BRUTALISM ブルータリズム

1950年代~60年代に見られた建築様式。打放しコンクリートなどを用いた荒々しい仕上げが特徴で、直線の強調された力強いデザインが多い。英都市計画家のアリソン&ピーター・スミッソンによって名付けられた。

 

知っているようで知らない英国のスパークリング・ワイン。

知っているようで知らない英国のスパークリング・ワイン。

英国のスパークリング・ワイン

近年、英国産スパークリング・ワインは国内外で評価を高め、日本をはじめ世界各地に広がりつつある。雨がちな気候でビールやパブのイメージが強い英国だが、気が付けばフランスのシャンパンにも引けを取らない上質なスパークリング・ワインを生み出す産地へと成長している。今回は、そうした躍進を支えるワイナリーにスポットを当てるとともに、ラベルの読み方や保存方法など、英国ワインを楽しむための基本知識も紹介する。 (文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.thetimes.comwww.johnlewispartnership.co.ukほか

気候変動の恩恵

昨年2025年は、英国のワイン業界にとって記録的な年となった。乾燥した春の到来でブドウの新芽が例年より早く展開し、6、7月には英南部で4回もの熱波を記録するほどの猛暑に見舞われた。これにより、英国史上最も早く、成熟度も高いブドウの収穫となった。25年の収穫量は前年比39パーセント増となり、成熟度の指標となる積算温度も過去5年平均を上回るなど、量だけでなく品質にも恵まれた年になった。

こうした変化の背景にあるのが気候変動だ。これまで英国の冷涼で雨の多い気候は、ワイン造りの障壁とされてきた。ところが近年の温暖化によって生育条件が改善し、今や英国南部のワイン造りを後押しする要因となっている。実際、イングランド南部は現在、フランスのシャンパーニュ地方が1970~80年代に享受していたのと近い気候条件になっているとの指摘もある。皮肉なことに、2026年にはシャンパーニュ地方が記録的な猛暑と干ばつに見舞われる一方、同じ温暖化が英国のブドウ栽培には追い風となっている。

フランスの生産者も英国へ

この可能性にいち早く目をつけたのが、他ならぬシャンパンの本場フランスだった。英国南部の白亜質の土壌は、海峡の下を通って仏北部まで連なる地層の一部で、シャンパーニュ地方にも同じ白亜質の地質が広がる。2015年、名門テタンジェは英国のワイン会社などと共同で、英南部ケントに69ヘクタールの土地を取得。そのうち40ヘクタールにシャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエを植え、英国産スパークリング・ワインの生産に乗り出した。

同じく名門ポメリーも、17年にハンプシャーで40ヘクタールの土地を取得。シャンパンの生産者が自ら英国に進出するという動きこそ、英国スパークリング・ワインの可能性を物語っているのではないだろうか。

なぜ赤ワインはまだ少ないのか

イングランドとウェールズのワイン生産量の内訳を見ると、スパークリング・ワインが全体の69パーセントを占め、残るワインのうち赤はわずか14パーセントにとどまる。背景には、英国ワイン業界が歩んできた歴史がある。2000年代初頭、生産者たちはシャンパーニュ品種を安定して完熟させられることに気づき、赤ワイン造りの難しさに挑むよりも、得意とするスパークリング・ワインに力を注ぐ道を選んだ。もっとも近年は、赤ワイン造りに取り組む生産者も現れている。

ぶどう

英国の人気ワイナリー8選

英国各地のワイナリーの中から、実力と個性を兼ね備えた8社を厳選した。ここで紹介したワインは、どれも現地の直売所やオンラインで購入できる。自分好みの一本を見つけてみてはいかがだろうか。

1. Nyetimber ナイティンバー

Nyetimber 1086 2014
£150/750ml
https://nyetimber.com

1986年、米国から移住したモス夫妻がウェスト・サセックスのナイティンバー地所を購入し、88年からシャンパーニュ品種を植樹。当時は英国でこれらの品種が完熟するとは考えられず、農業省の専門家から「ブドウではなくリンゴを植えるべき」と助言されたという。夫妻はその常識を覆し、92年に発表した最初のブラン・ド・ブランが97年に国際コンクールで金賞を受賞。英国スパークリング・ワインを世界に知らしめる先駆けとなった。写真の「1086」は、ナイティンバー地所が1086年の土地台帳「ドゥームズデイ・ブック」に記録された年にちなむ最高峰の1本で、特に優れた年のブドウだけを使って造られる。リンゴやパイナップルを思わせるジューシーな酸味にナッツやビスケットの熟成香が重なり、長い余韻が楽しめる。

2. Langham Wine Estate ランガム・ワイン・エステート

Langham Wine Corallian Classic Cuvée NV
£34.95/750ml
https://langhamwine.co.uk

農家の息子として育ったジャスティン・ランガムが、農業以外の事業を模索し、父の趣味でもあったワイン造りを志したことから始まった。世界のワイン産地を巡り、ブドウ栽培を学んだ後、2009年にドーセットの畑にシャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエを植樹。コーラリアン層に由来する石灰岩と、フリント(火打ち石)が混じる土壌が広がる南向きの34ヘクタールの畑で、低介入の伝統的な製法にこだわる。2020年には国際ワイン&スピリッツ・コンペティション(IWSC)で「Sparkling Wine Producer of the Year」を受賞し、家族経営ながら英国屈指の生産者として知られる。写真の「コーラリアン」は、畑の地質にちなんで名付けられたシャルドネ主体の1本で、樽熟成による繊細なナッツ香とミネラル感が特徴。海風を感じさせる引き締まった塩味とシャープな酸味が融合する。

3. Gusbourne ガスボーン

Gusbourn Sparkling Rosé Twenty Twenty
£55 / 750ml
https://gusbourne.com

創業者のアンドリュー・ウィーバーは、南アフリカ出身の整形外科医。1991年のFAカップ決勝で負傷したサッカー選手ポール・ガスコインの膝を治療したことでも知られる。ワイナリーを持つという長年の夢を実現するため、2004年に1410年まで記録を遡る歴史ある地所ガスボーンにブドウを植え、ワイン造りに乗り出した。英国のスパークリング・ワインではノン・ヴィンテージが一般的なのに対し、ガスボーンは自社畑のブドウだけを使い、全量をヴィンテージ・ワインとして造る。ケントとウェスト・サセックス、それぞれの土壌の個性を生かすことにもこだわっている。写真の「スパークリング・ロゼ」は、白中心のラインナップの中でも評価の高い一本で、繊細なピンク色と赤い果実のアロマが特徴の人気銘柄。

4. Balfour バルフォア

Balfour Blanc de Blancs 2018 マグナム
£120 / 1500ml
https://balfourwinery.com

きっかけは、夫妻のお気に入りだったピンク・シャンパン「ビルカール・サルモン」への憧れだった。2002年、バルフォア=リン夫妻はケントのハッシュ・ヒースの敷地に、わずか5エーカーの試験的なブドウ畑を造った。「売れなければ、自分たちで飲めばいい」という気軽な気持ちだったというが、04年収穫のブリュット・ロゼが07年のインターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)で金賞とトロフィーを獲得し、一躍、英国スパークリング・ワインの新星として注目を集めた。同ワインはその後、ブリティッシュ・エアウェイズのファースト・クラスで提供される初の英国スパークリング・ワインとなった。写真の1本は、「デカンター」誌の最高栄誉「Best in Show」を受賞した、シャルドネ100パーセントの複雑な味わいが特徴。

5. Harrow & Hope ハロー・アンド・ホープ

Harrow & Hope Brut Reserve NV
£34 / 750ml
https://harrowandhope.com

英国大手ワイン通販「レイスウェイツ」の創業者の息子、ヘンリー・レイスウェイトが2010年に設立したワイナリー。仏ボルドーとオーストラリアで経験を積んだ後、英国に戻り、ロンドンにほど近いテムズ川沿いのチルターン・ヒルズに理想的な土地を見つけた。シャンパーニュ品種に適した石灰質土壌にはフリントが多く、耕作は困難を極めたといい、整地用の農機具「ハロー」を2台壊したことから、「ハロー・アンド・ホープ(希望)」という名前が生まれたという。2019年には英国ワイン業界団体WineGBの「Winery of the Year」を受賞。写真の「ブリュット・リザーヴNV」は同社の看板商品で、クリーミーな口当たりに、熟した風味と爽やかさ、複雑さが調和した、長い余韻が特徴。

6. Rathfinny ラスフィニー

Rathfinny 2020 Classic Cuvée
£38 / 750ml
https://rathfinnyestate.com

創業のきっかけは、ある夜の余興だったという。ヘッジファンド運用者として成功していたマーク・ドライバーは、友人10人とシャンパン6本、英国産スパークリング・ワイン6本をブラインド・テイスティングで飲み比べた。結果は英国産の圧勝。この体験から、2010年、妻サラとともにサセックスにある600エーカーの農地を購入し、ワイン造りに乗り出した。ドライバーは栽培学を学び直し、広大な単一畑でブドウ栽培から醸造まで手掛ける、英国最大級の単一畑ワイナリーへと育て上げた。2023年にはB Corp認証も取得。写真の「クラシック・キュヴェ」は、同社を代表する1本。

7. Ridgeview リッジヴュー

Ridgeview Bloomsbury NV
£35 / 750ml
https://www.ridgeview.co.uk

元ソフトウェア起業家のマイク・ロバーツが、妻クリスティーンとともにサセックスのディッチリングでワイン造りを始めたのは1990年代半ば。当時、英国ではドイツ系品種が主流だったが、サウス・ダウンズの地下にシャンパーニュ地方と同じ白亜質の地層が続くことに着目し、シャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエに賭けた。当時、英国産ワインは「English」というだけで敬遠される風潮があり、同社は長年、ラベルにその文字を目立たせなかったという。転機となったのが2010年、「デカンター」誌のワールド・ワイン・アワードでトロフィーを受賞したことだった。ロバーツは「英国ワインの父」と呼ばれ、2011年に大英帝国勲章(MBE)を受章。写真の「ブルームズベリー」はシャルドネ主体の看板ブレンドだ。

8. Breaky Bottom ブレイキー・ボトム

Breaky Bottom 2010 Seyval Blanc Cuvée Koizumi Yakumo
£84 / 750ml
www.breakybottom.co.uk

1974年、英国のワイン造りがまだ黎明期だったころ、ピーター・ホールがイースト・サセックスの谷間にブドウを植えたのが始まり。現在ではシャルドネやピノ・ノワールなども栽培するが、看板品種はセイヴァル・ブラン。完熟しても酸味を保つ特性に可能性を見いだし、95年にはセイヴァル・ブラン100パーセントのスパークリング・ワインを造り始めた。「コイズミ・ヤクモ」の名を冠した2010年のヴィンテージは、ピーター・ホールの高祖叔父にあたるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)にちなんだもの。セイヴァル・ブラン100パーセントで、長期の瓶内熟成によって、柑橘や梨、焼いた洋菓子を思わせる香りと、鮮やかな酸味が重なる。2014年にはインターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)で金賞を受賞した。

いまさら聞けないワインの6つの基本

店頭やオンライン・ショップ上で、ワインの種類の多さに戸惑ってしまう人も多いはず。味の好みは人それぞれだとしても、知っておいたら少しは役に立つかもしれない六つの豆知識をご紹介。

1「English」と「British」は 何が違う

ブドウ畑

「English Wine」は、イングランドで収穫したブドウを使って造られたワイン。一方、「British Wine」は一般に、海外から輸入した濃縮ブドウ果汁などを英国で発酵させて造るワインを指す。両者は原料が異なるため、ラベルを見る際には区別しておきたい。なお、英国には産地や原料などを定めたPDO(保護原産地呼称)やPGI(保護地理的表示)の制度があり、「English」「Welsh」などの名称も保護されている。

2Brutは辛口のこと?

ブドウ畑

「Brut」(ブリュット)「Extra Dry」「Demi-Sec 」(ドゥミ・セック)などは、スパークリング・ワインに含まれる残糖量の目安。Brutは辛口、Extra Dryは名前からは意外だがそれより甘く、Demi-Secはさらに甘い。英国産スパークリング・ワインではBrutが主流で、食事に合わせやすいのも特徴。すっきりした辛口が好みならBrut、少し甘みのある味わいを試したければExtra Dryなど、ラベルの表示を手掛かりに選んでみよう。

3「NV」はたいしたことないのか

ワイン樽の貯蔵庫

ラベルに「NV」(Non-Vintage)とあるのは、質の低いワインという意味ではない。複数の収穫年のワインをブレンドし、生産者が目指す安定した味わいを毎年再現するためのものだ。一方、年号が記載された「ヴィンテージ」は、その年に収穫したブドウの個性を楽しむワイン。ヴィンテージだから必ずしも上質というわけではなく、NVは生産者の基本の味を知りたいとき、ヴィンテージはその年ならではの味わいを楽しみたいときに選ぶとよい。

4「Blanc de Blancs」って白ワイン?

ブドウ畑に置かれた摘まれたばかりのブドウ

「Blanc de Blancs」(ブラン・ド・ブラン)」はフランス語で「白の中の白」を意味し、白ブドウだけで造ったスパークリング・ワインを指す。英国ではシャルドネ100パーセントのものが多い。一方、「Blanc de Noirs」(ブラン・ド・ノワール)は黒ブドウだけを使ったもの。ピノ・ノワールやピノ・ムニエなど黒ブドウを使っても、果皮から果汁を早く分離することで白いワインに仕上げる。ロゼは黒ブドウの色素などを利用して淡いピンク色にしたものだ。

5「Cuvée」とは何か?

白いシャツに黒ベストを着た男性がグラスに白ワインを注ぐ様子

ワインのラベルでよく見かける「Cuvée 」(キュヴェ)は、フランス語で、もともとは醸造したワインなどを指す言葉。現在は、生産者が品種や畑、収穫年の組み合わせなど、特定のワインを仕上げるために選んだブレンドや、そのワインそのものを指すなど、使われ方はさまざまだ。「最高級」という意味ではなく、生産者が独自に名付けた商品名に使われることも多い。つまり「Cuvée」と書いてあっても、それだけで高級品というわけではない。

6スプーンを入れると、泡は抜けない?

白いシャツに黒ベストを着た男性がグラスに白ワインを注ぐ様子

開栓したスパークリング・ワインの瓶口に、金属製のスプーンの柄を差し込んで冷蔵庫に入れると、泡が抜けにくい。そんな昔ながらのおまじないがある。欧州では広く知られた方法だが、実験ではスプーンによる効果は確認されていない。泡を保つには、瓶内の二酸化炭素が逃げないよう専用のストッパーでしっかり栓をし、冷蔵庫で冷やすのが確実だ。とはいえ、今もスプーンを使う人がいるのは、それだけ長く親しまれてきた方法だからともいえる。

 

英国のピクニック最新事情 - 木陰を探して、夏を楽しむ

木陰を探して、夏を楽しむ 英国のピクニック最新事情

近年、英国でも夏の暑さが年々厳しくなり、「晴れているから公園へ」という楽しみ方にも少し工夫が必要になってきた。それでも、木陰で本を読み、友人と軽食を囲み、芝生でのんびり過ごす時間は、この国ならではの夏の風景だ。今回の特集では、英国のピクニック文化や歴史をたどりながら、暑い日でも快適に過ごすコツ、お勧めスポットまで、この夏役立つ情報をご紹介する。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部、Shoko Rudquist)

参考: https://hauntedpalaceblog.comhttps://www.fortnumandmason.comhttps://parksforlondon.org.uk

David Hockney

意外と知らないピクニックの始まり

単純に屋外で食事をするだではなく、家族や友人らと集って周りの景色を楽しみながらお弁当を広げるいわゆる「ピクニック」が、いつ頃から人々の生活に定着したのか、ご存知だろうか。実はこの風習は、17世紀のフランスで生まれたといわれている。フランス語の動詞piquer(つつく、摘む)と名詞nique(少量)が結びついたものと考えられている。ピクニックという言葉が初めて登場するのは1649年の風刺劇で、主人公の「ピクニック」は英雄であり大食漢として描かれている。17世紀後半には流行の最先端を行くパリでピクニックが広まり、参加者がそれぞれ料理を持ち寄って楽しむ屋内の宴会を指す言葉として使われるようになった。「pique-nique」という言葉が確認できる最も古い印刷物の一つは、1692年に刊行された「Origines de la Langue Françoise」(フランス語の起源)である。

自然に触れ合うことが上流階級の間で流行しはじめた自然に触れ合うことが上流階級の間で流行しはじめた

ただし、この頃の「ピクニック」に、外で食事をするという意味は全くなかった。あくまで室内で開かれる、洗練された社交の場を指す言葉だったのだ。この言葉が英国に伝わったのは18世紀半ばのこと。フランス革命を逃れ、ロンドンにやってきた貴族たちが持ち込んだこの文化は、19世紀初頭には「ピクニック・ソサエティー」の誕生などを背景に、社交界で親しまれるようになっていく。「屋外で、景色を楽しみながら」という現代のピクニックのイメージが定着するのは、自然との触れ合いや田園風景を愛でることを重視した19世紀初頭のロマン主義の影響による。1815年に出版されたジェーン・オースティンの小説「エマ」には、ボックス・ヒルでのピクニックの場面が登場するので、当時すでに、景色を楽しみながら屋外で食事をするピクニックは、英国の上流・中流階級の夏の社交として親しまれるようになっていたことがうかがえる。

古いモノクロのイラスト

ピクニック・ソサエティーとは

1801年、ロンドンでフランス革命による亡命貴族や親仏派の英国人ら約200人によって結成された社交クラブ。ロンドン中心部のトッテナム・ストリートで宴会を開き、参加者には料理1品とワイン6本を持参することが義務付けられていたという。晩餐やアマチュア演劇を楽しむ自由な集まりとして人気を集めた。現在のような屋外でのピクニックとは異なるが、「ピクニック」という言葉や文化が英国で広く知られるきっかけの一つとなった。

ピクニック・ソサエティー

英国のピクニック文化を知るQ&A

フランスから伝わったピクニックは、英国で独自の発展を遂げた。ハンパーの誕生やヴィクトリア朝の食文化などの発展の歩みを当時の楽しみ方とともにたどってみよう。

Q1.「ハンパー」とは?

A. 元来は籐などの植物性の繊維で編んだ籠のことをハンパー(Hamper)と呼んでいたが、時間とともに、ピクニック用の食器や食料を詰める籠のことを指すようになったとされている。語源は古フランス語の「hanaper」(杯を収めるための入れ物)にさかのぼるともいわれ、英国ではもともと、玩具やリネンの収納、また旅行かばんの意味として使われることが多かった。ピクニック用ハンパーの生みの親といわれている高級食料品店フォートナム&メイソン(F&M)でも、当初は顧客の旅行用収納ケースとして売られていた。

現在の形のハンパーの販売が開始されたのは、1738年のこと。1707年創業のF&Mが、当時の英国の特権階級の人々を顧客としていたなか、コーンウォールやバースといった地方の邸宅に向かう顧客から、「食料品などを詰めて持ち運べる籠がほしい」という声が寄せられたのが始まりだった。ただ、当時はまだ、外で食事をとるという行為は下品なことだと考えられており、上流階級の間ではあり得ないこととされていた。以来ハンパーは、単なる収納用品から「贈答品」としての性格も帯びるようになり、今日でもクリスマスや特別な機会の贈り物として人気を保っている。

ハンパー

Q2.昔のピクニックでは何を食べていた?

A. ちょうどヴィクトリア朝時代に当たるこの時代、ピクニックは特権階級の人々が郊外の邸宅の庭などに集まり、食事を楽しむためのものとなっていた。当時のベストセラーであったミセス・ビートンの家政読本にもピクニックの心得が紹介されているが、その内容はもはや軽食とは呼べないもので、実質的には屋外での晩餐会に近かった。持ち寄られる食事の内容は、パンにバター、ハムやチキン、ハード・チーズ、サラダ、そしてホット・ウォーター・クラスト(Hot Water Crust)と呼ばれる英国ならではのパイ生地を用いたポークやキジのパイ、桃やぶどうなどのフルーツや、乾燥フルーツがぎっしり詰まったケーキ、「スモール・ビアー」と呼ばれたアルコール度の低いビールの一種など。ポート・ワインやシェリー酒といった甘めの酒も好まれた。

ピクニックの様子

こうした豪華な食事の裏には、大勢の使用人による労力があったことも忘れてはならない。クーラー・バッグなどない時代なので、内部にわらを敷き、バターは冷たいレタスの葉に包むなどして温度調節を工夫したという。また、携帯用として最適な竹を使った使い捨てのカトラリー類も開発された。ちなみに、ひき肉でゆで卵を包み丸い形に整えた「スコッチ・エッグ」は、実はピクニックのために生まれた料理ではない。1730年代、旅人向けの携帯食として考案されたもので、英国でピクニックが流行する約1世紀も前から類似の食品は存在していた。ポケットサイズで食べ応えのあるこの一品は、やがて屋外での食事に欠かせない定番として定着していった。優雅に見えるピクニックの背景には、こうした入念な準備と、既存の携帯食を巧みに取り込む工夫が積み重ねられていたのだ。

果物やチーズ、スコッチエッグ

Q3.ピクニックはどのように人々の娯楽として広がった?

A. 19世紀も終わりに近づくと、競馬やポロといった屋外のスポーツ観戦時にもピクニックが楽しまれるようになった。特に1780年に始まったエプソム・ダービーは、19世紀半ばにはロンドン市民にとって一大日帰り行楽となり、観戦とともに食事を楽しむピクニックが定着した。1838年にはダービー当日、ロンドンのナイン・エルムズ駅に列車を目指す人々が殺到し、駅が機能不全に陥るほどの混雑となったという記録も残っており、鉄道の発達がこうした行楽の裾野を大きく広げたことが分かる。

同様に、テムズ川沿いで行われるヘンリー・ロイヤル・レガッタでも、階級によって楽しみ方に違いがあった。上流階級は川沿いの白いテントで正式な昼食会を開いた一方、庶民は川岸に腰を下ろし、思い思いのピクニックを広げて観戦を楽しんだ。同じ会場でも、階級に応じて異なるピクニックの形が並存していたことになる。

こうしたさまざまな需要に応えるため、食料品店では目的地や移動手段に合わせたハンパーを用意するようになった。20世紀に入ると、自動車の普及に伴って車のトランクに収まる仕様のハンパーも登場し、第1次・第2次世界大戦を挟んで鉄道網や道路網がさらに整備されると、労働者階級も含めたより幅広い層が郊外や海辺への日帰り旅行を楽しめるようになった。ピクニックは、かつて特権階級だけのものだった「特別な社交の場」から、誰もが気軽に楽しめる屋外レジャーへと、時代とともにその姿を変えていったのだ。

自家用車でピクニックへ自動車の普及が、ピクニックをより身近なレジャーへと広げた

今どきのピクニック、暑さ対策は万全に!

近年、英国の夏は年々厳しさを増している。木陰でのんびり、という従来のピクニックのイメージも、今や暑さ対策なしには語れない。ヴィクトリア朝の人々がシャンパンやロブスターを囲む優雅なピクニックを楽しんでいたのに対し、現代の英国のピクニックには、保冷剤やクーラー・バッグ、日差しを避けるための工夫が欠かせなくなりつつある。ここでは、道具・食べ物・コツの三つの視点から、夏場のピクニックを快適に乗り切るためのポイントを紹介する。

道具

まず押さえておきたいのが、下に敷くブランケット。英国の芝生は見た目以上に湿っていることが多いため、裏面が防水加工になったものを選びたい。次に必須なのが、クーラー・バッグと保冷剤だ。バターやチーズ、卵料理は気温が上がるとすぐに傷んでしまうため、夏場は特に念入りな温度管理が求められる。凍らせたペットボトルを保冷剤代わりに使うのも手軽な工夫の一つだ。ただ、特別な道具を買いそろえなくても、ブランケットは家にあるシーツや毛布で十分代用できる。使い捨ての食器やカトラリーより、繰り返し使えるものを持参する方が洗う手間はかかるが結果的にエコで経済的。

もう一つ覚えておきたいのが「風対策」。ロンドンの公園は意外と風が強く、ブランケットの端が固定されていないと、あっという間に飛ばされてしまうのでご注意を。

  • 防水加工のピクニック・ブランケット
    古いシーツや毛布でも代用可
  • ブランケットを固定する重し
  • クーラー・バッグ、保冷剤
  • 折りたたみ式のタープやサンシェード
    大きな木陰が見つからないときの強い味方
  • 繰り返し使えるカトラリー・セット、割れにくい食器
  • 虫よけスプレー
    シトロネラ系のキャンドルも人気
  • 折りたたみ傘、またはポンチョ
    英国の空模様は変わりやすい

ピクニックの道具:ブランケットや敷物とキャンドル

食べ物

傷みやすい生ものや乳製品は避け、常温でも比較的安心なメニューを選ぶのがコツだ。サンドイッチの具材は、マヨネーズをたっぷり使ったものより、酸味が強いピクルスや塩気のあるオリーブなどを取り入れたものがお勧め。具材を詰め込み過ぎず、食べ切れる量を用意すると衛生面でも安心だ。また、個包装のスナックも良いが、量り売りの果物や野菜を持っていくと、ゴミも減らせて一石二鳥。ぶどうやミニトマトなど洗うだけで食べられるものの方が傷みにくく扱いやすい。

ロンドン市内には数千カ所の無料給水スポットがあり、専用アプリ「Refill Return」で最寄りの給水スポットを検索できる。ペットボトルを買い足す代わりに、マイボトルに給水しながら移動するのもスマートだ。ピクニックの定番でもあるワインやビールなどのアルコール類は、暑い日には脱水を進めやすいので要注意。ロンドンの公園の中には飲酒が制限されている区域もあるため、事前に自治体のウェブサイトなどで確認しておくと安心だ。

ピクニックの食べ物洗うだけで簡単に食べられる果物や野菜が便利

マイボトルに給水とピクルスのサンドイッチ

コツ

優雅さだけでは夏を乗り切れない時代だからこそ、ちょっとした工夫と、公園を気持ちよく使う意識が、快適な夏のひとときを支えてくれる。道具や食べ物の準備に加えて、以下のような行動面の心がけも意識してみたい。

  • 気温が最も上がる正午〜午後3時のピークタイムを避ける。夕方からのピクニックもお勧め。英国の夏は21時ごろまで明るいため、暑さが和らいでからでも十分楽しめる
  • 日焼け止めや帽子は必携。近年は英国でも紫外線対策への意識が高まりつつあるので、さまざまな日焼け止めが手に入る
  • 公園の噴水や水遊び場の近くを選ぶと、涼を取りながら過ごせる
  • ゴミは持ち帰りを基本に。公共のゴミ箱が混雑していることも多い
  • 使い捨てBBQは火災防止のため使用を禁止している公園が多い。利用前に公園のルールを確認しておこう

公園で椅子に座ってくつろぐカップル多くの人が楽しむ公園だからこそ、周囲への気配りを忘れずに

ゴミだらけの公園ピクニックの思い出と一緒に、ゴミも持ち帰りたい

今行きたい! ロンドンのピクニックスポット6選

納得のいくグッズとお弁当の準備が整ったら、あとはお気に入りのスポットを探すだけ。ロンドンには、趣の異なる公園や緑地が街中から郊外まで点在している。それぞれの魅力を比べながら、自分だけのお気に入りを見つけてみよう。

Kensington Gardens
ケンジントン・ガーデンズ

Kensington Gardens

ハイド・パークの西に位置し、故ダイアナ元妃なども暮らしたケンジントン宮殿を有する王室ゆかりの庭園。広々とした芝生と大きな木々があり、クラシックな英国らしい雰囲気を味わえる。19世紀半ばまでは、単に園内を散歩するだけでもドレス・コードがあったという。

London W2 2UH
[Lancaster Gate / Queensway駅から徒歩1分]
0300 061 2000
www.royalparks.org.uk/visit/parks/kensington-gardens

Greenwich Park
グリニッジ・パーク

Greenwich Park

「グリニッジ標準時」における経度0度の地点である「グリニッジ天文台」のある公園だが、丘の上からロンドンの景色を一望できる人気スポットでもある。歴史と自然が調和した空間で、海事博物館やプラネタリウムも近く、子ども連れでも飽きずに一日遊べる。

London SE10 8QY
[Cutty Sark for Maritime Greenwich駅より徒歩5分]
020 8294 2548
www.royalparks.org.uk/visit/parks/greenwich-park

Regent's Park
リージェンツ・パーク

Regent's Park

ロンドンの街中で、週末の一日を目いっぱい効率良く楽しめる。まっすぐに伸びる並木道、その数8000本という色とりどりのバラが咲き乱れるローズ・ガーデン、運河、スポーツ広場、そして見事なイングリッシュ・ガーデンと、さまざまな魅力が詰まった公園。

London NW1 4NR
[Regent's Park駅より徒歩5分]
0300 061 2300
www.royalparks.org.uk/visit/parks/regents-park-primrose-hill

Kenwood House
ケンウッド・ハウス

Kenwood House

ロンドン北部にある広大な公園ハムステッド・ヒースの、北端にあるエリア。ケンウッド・ハウスは、小高い丘の上に建つ美しいカントリー・ハウス。芝生や木陰が多く、静かに読書を楽しみたい人にぴったりだ。夏には野外コンサートが開かれることもある。

Hampstead Lane, London NW3 7JR
[Archway駅からバス]
020 8348 1286
www.english-heritage.org.uk/visit/places/kenwood/

Alexandra Palace
アレクサンドラ・パレス

Alexandra Palace

高台からロンドン市街を一望できる人気スポット。コンサートやフードイベントなども数多く開催される。敷地内にはペダルボートが楽しめる湖や子ども向けの遊び場がある。夕暮れ時には、ロンドンの街並みを眺めながら過ごすひとときも格別だ。

London N22 7AY
[Alexandra Palace駅より徒歩5分]
020 8365 2121
www.alexandrapalace.com

Morden Hall Park
モーデン・ホール・パーク

Morden Hall Park

草地やエドワード朝時代のバラ園、木々に囲まれ、鳥のさえずりやせせらぎが心地よく響く園内では、都会の喧騒を忘れ、思いがけない発見を楽しむことができる。ワンドル川沿いに並んでいた邸宅の面影を今に伝える、数少ない場所の一つ。

Morden Hall Road, London SM4 5JD
[Morden駅より徒歩5分]
020 8545 6850
www.nationaltrust.org.uk/visit/london/morden-hall-park

 

UCL創立200周年 - 英国高等教育の歴史 - 大学は誰のために生まれたのか

UCL創立200周年 英国高等教育の歴史大学は誰のために生まれたのか

英国の高等教育は、オックスフォードやケンブリッジに代表される中世の大学から、19世紀の新しい大学、そして20世紀以降の大学の大衆化へと、大きく姿を変えてきた。この特集では、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の創立200周年を機に、英国の大学がどのように門戸を広げ、社会の中でどんな役割を担ってきたのかをたどる。そして現在、大学に進学することには、どんな意味があるのだろうか。 (文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.cambridge.org、https://about.ucl.ac.uk/ucl-timeline、www.ox.ac.uk/about/the-university/historyほか

そもそも大学の起源とは?

今でこそ大学は、義務教育や中等教育を経たその先にある学びの場として捉えられているが、最初期の大学はどのような存在だったのだろうか。西欧では11~12世紀、中世の都市化と学問の発展を背景に、現在の大学につながる教育・研究の共同体が形成されていった。

大学が成立する以前から、教会や修道院、司教座聖堂には聖職者を育成するための学校が存在していた。一方、11世紀以降、ローマ法の復興や医学・哲学などの学問の発展、都市の成長によって、高度な知識を学ぶ場への需要が高まった。こうした複数の流れを背景に、教師や学生が自ら共同体を形成し、特定の学問を専門的に学ぶ「大学」が生まれていった。

その代表が、法学で知られたボローニャと、神学・哲学などの中心地となったパリである。ボローニャ大学は、創立年を1088年とするのが慣例となっており、現在も西欧最古の大学とされる。ただし、明確な創立年が記録されているわけではなく、学生たちの自発的な組織から徐々に形成されたと考えられている。オックスフォード大学でも、1096年にはすでに教育が行われていたことが確認されている。

なお、イスラム圏にはそれより早くから高度な学問を行う教育機関が存在した。エジプトのアズハルは970~972年に建設・開設され、975年ごろには本格的な教育が始まったとされる。ただし、これを欧州の大学と同じ意味で「世界最古の大学」と位置づけるかについては、大学の定義によって見解が分かれる。

大学の学生像

中世の大学はラテン語で「ウニベルシタス」(universitas)と呼ばれた。これはもともと「全体」「共同体」「組合」などを意味する言葉で、現在の英語Universityやドイツ語Universitätの語源となっている。大学とは、最初から現在のような独立した校舎や組織を備えた教育機関だったのではなく、教師と学生が集まってつくる一種の共同体・組合だった。

12~13世紀の欧州では、都市化が進むとともに、教会や国家の運営に必要な高度な知識を持つ聖職者や法律家への需要も高まった。大学では、自由七科(リベラル・アーツ)、つまり、文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、音楽、天文学を基礎に、法学、医学、神学などが学ばれた。パリでは神学、ボローニャでは法学が特に発達するなど、大学ごとに特色も生まれていった。

当時の学生の多くは聖職者身分と深い関係を持っていた。特にパリ大学では、教授・学生の多くが聖職者であり、学問を修めることは聖職者としてのキャリアや、法学・医学などの専門職への道にもつながっていた。また、中世の大学に集まったのは、必ずしも貴族の子弟ばかりではなかった。むしろ、都市の市民層や比較的裕福な農村出身者など、学問を通じて聖職者や法律家、医師などの専門職を目指す人々も多かった。身分社会のなかで、学問は出自とは別に、知識や資格によって社会的地位を得る一つの手段でもあったのだ。

転機は16世紀

英国の大学の性格が大きく変わっていくのは、16世紀以降である。宗教改革を経て、オックスフォード大学とケンブリッジ大学は英国国教会と深く結びつき、聖職者や国家の人材を育成する役割を強めていった。同時に、貴族やジェントリ層の子弟が両大学で学ぶようになり、大学は次第に上流・中上流層の教育機関としての性格を定着させていった。

16世紀の大学の様子を描いた銅版画16世紀の大学の様子を描いた銅版画

広がっていく大学

中世の聖職者や専門職を目指す人々から、貴族やジェントリ、そして女性や幅広い階層へ。英国の大学は、誰に開かれるべきかを巡って、時代とともにその役割や門戸を変えてきた。伝統的な大学に加え、19世紀以降、新たな理念を掲げる大学も次々と登場する。

中世~19世紀前半

中世以来、イングランドではオックスフォードとケンブリッジが長く大学教育の中心を占めてきた。その長い歴史のなかで、両大学は次第に国家を担うエリートの教育機関としての地位を確立していった。

University of OxfordUniversity of Oxford オックスフォード大学

オックスフォード大学

■ 創立: 1096年
■ 学生数: 2万6000人
■ カレッジ数: 43
■ 卒業生の英国首相: 31人
■ ノーベル賞受賞者: 76人
www.ox.ac.uk

英語圏で最も古い大学。明確な創立年はないが、1096年にはすでにオックスフォードで教育が行われていたことが確認されている。12世紀後半、欧州各地で大学が発展するなかで成長を続け、1167年には、ヘンリー2世が英学生のパリ大学への留学を禁じたことで、さらに発展したとされる。13世紀には現在のカレッジにつながる教育共同体が形成され、これを中心に学生の生活や教育を支える独特の制度が発達した。カレッジは寄付された土地や財産を基盤とする独立した組織として発展し、現在のオックスフォードを特徴づける制度となっている。

16世紀以降は貴族やジェントリの子弟も多く学ぶようになり、英国の政治・行政・宗教を担う人材を育てる教育機関としての性格を強めていった。英国の首相をはじめ、多くの政治家、官僚、聖職者、学者を輩出している。

現在は43のカレッジを擁し、長い歴史と伝統を持ちながら、世界有数の研究大学として国際的な教育・研究を担っている。

University of CambridgeUniversity of Cambridge ケンブリッジ大学

ケンブリッジ大学

■ 創立: 1209年
■ 学生数: 2万4927人
■ カレッジ数: 31
■ 卒業生の英国首相: 15人
■ ノーベル賞受賞者: 126人
www.cam.ac.uk

英語圏で2番目に古い大学。1209年、オックスフォード大学を離れた学者たちがケンブリッジに集まったことが大学の起源とされる。13世紀には最初のカレッジであるピーターハウスが設立され、その後、カレッジを中心とした教育・生活の仕組みが発展した。現在も31のカレッジと学部・学科からなる独特の組織を維持している。

16世紀以降は、オックスフォードと同様に貴族やジェントリの子弟が多く学ぶエリート教育機関として発展した。一方で、17世紀のニュートンをはじめ、ダーウィン、マクスウェルら、科学史に名を残す研究者を数多く輩出。20世紀にはDNAの二重らせん構造の解明など、自然科学・医学の分野でも世界的な研究拠点となった。英国の首相や政治家、文学者、科学者など、各界に多くの人材を送り出している。

現在は世界有数の研究大学の一つで、2万4000人を超える学生が学ぶ。大学とカレッジがそれぞれの役割を担いながら教育・研究を行う伝統は、800年以上を経た現在にも受け継がれている。

カレッジと学部はどう違う?

オックスフォード大学を例にとると、学生は専攻する学部・学科とは別に、ユニバーシティ・カレッジ、クライスト・チャーチ・カレッジなど、43あるカレッジのいずれかに所属する。カレッジはもともと中世の学生寮として発達したもので、現在は学生の居住や生活を支えるほか、少人数制の個別指導(チュートリアル)も担う。異なる分野を学ぶ学生が同じカレッジで生活するのも特徴だ。カレッジは学生自身が希望して出願することができるが、大学側が割り当てる場合もある。

ちなみにケンブリッジ大学のカレッジでは、トリニティー・カレッジ、キングズ・カレッジ、クライスト・カレッジなどが有名。カレッジごとに歴史や雰囲気、規模なども異なる。

パブリック・スクールって何?

イートンカレッジ

英国のパブリック・スクールは、名称から想像する公立学校ではなく、歴史ある私立の中等教育学校を指す。イートン校、ハロー校、ウィンチェスター校などが代表例で、もともとは寄宿制を中心に、男子の教育を担ってきた。

18~19世紀には、こうした学校からオックスフォード、ケンブリッジ(以下Oxbridge)へ進学し、卒業後に政治、行政、法律、聖職などの世界へ進むというエリート層の教育ルートが形成された。パブリック・スクールとOxbridgeがひと続きの教育システムとして機能したことは、両大学の社会的地位をさらに高める要因となった。こうしてOxbridgeは、英国の政治・社会を担う人材を送り出す機関としても地位を築いていった。

19世紀半ば~20世紀初め

19世紀、英国の大学は大きな転換期を迎えた。UCLをはじめ、従来の大学とは異なる理念を掲げた高等教育機関が登場し、大学は限られたエリートのための場から、より幅広い人々に開かれた教育の場へと変わっていった。

University College London (UCL) ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン

ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン

■ 創立: 1826年
■ 学生数: 約5万1000人
■ 学部・学科: 11学部
■ ノーベル賞受賞者: 33人
www.ucl.ac.uk

1826年創立。Oxbridgeが長く英国の高等教育を担っていた時代に、従来の大学とは異なる理念を掲げて誕生した。創立時は「London University」と称し、宗教による入学制限を設けず、より幅広い人々に高等教育を提供することを目指した。背景には、急速に成長するロンドンの中産階級の若者に、近代的な教育を提供しようという考えがあった。

1828年に最初の学生を迎えると、ユダヤ教徒、カトリック、非国教徒など、宗教上の理由からオックスフォードやケンブリッジで学ぶことが難しかった学生も受け入れた。また、法学、医学、化学、数学、工学、外国語など、社会の変化に対応した実用的・専門的な科目を重視した。医学教育では、34年にノース・ロンドン病院(後のユニバーシティ・カレッジ病院)を設立し、大学での医学教育と臨床を結びつけた。46年には同病院で英国初のエーテル麻酔による手術も行われている。法律家、医師、科学者、技術者など、近代社会を支える専門人材を育てる新しい大学の姿を示した。

女性の教育にも早くから道を開き、1832年には女性が授業を受けた記録が残る。78年には女性を正式に受け入れ、学位取得も認めた。こうしてUCLは、宗教や性別によって大学教育から排除されてきた人々にも門戸を広げ、英国の高等教育のあり方を変えていった。

なぜ女性は学位を取れなかった?

19世紀後半、オックスフォードやケンブリッジでは、女性のためのカレッジが設立され、女性も講義を受けたり試験を受けたりできるようになった。しかし、試験に合格しても正式な学位は与えられなかった。学位は単なる修了証ではなく、大学内での権限や政治的影響力にも関わる、大学の正式な構成員として認められることを意味していたためだ。

当時の大学は男性中心の制度であり、女性が同じ資格を得ることへの抵抗も根強かった。オックスフォードでは1920年、ケンブリッジでは48年になって、ようやく女性にも学位が授与されるようになった。女性に「学ぶ機会」を与えることと、「大学の一員」として認めることには、大きな隔たりがあったのである。

ロンドン大学の現在

17の高等教育機関からなる連合体で、世界190カ国以上から約4万人の学生が学ぶ。1836年の設立当初から、高等教育へのアクセスを広げることを理念の一つとしてきた。20世紀には通信による教育にも力を入れ、場所にとらわれず学べる高等教育の先駆者となった。現在も、構成校による対面教育に加え、世界各地の学生にオンライン・通信教育を提供している。構成校は以下の通り。

Birkbeck / Brunel University London / City St George's / Courtauld Institute of Art / Goldsmiths / King's College London / London Business School / LSE / London School of Hygiene & Tropical Medicine / Queen Mary University of London / Royal Academy of Music / Royal Central School of Speech and Drama / Royal Holloway / SOAS / UCL / University of London Institute in Paris / Royal Veterinary College

ロンドンに生まれた新しい大学の仕組み

UCLに続いて1829年には、英国国教会の伝統を背景にキングス・カレッジ・ロンドン(King's College London)が設立された。宗教的背景は異なるものの、両校はいずれも19世紀のロンドンで生まれた新しい高等教育機関だった。36年には、UCLとキングス・カレッジ・ロンドンを中心にロンドン大学(University of London 下記コラム参照)が設立された。ただし、現在の一般的な大学とは異なり、当初は独自のキャンパスで一貫した教育を行う大学というより、試験を実施し、学位を授与する機関としての性格が強かった。その後、ほかの高等教育機関も加わり、複数の教育機関からなる連合型の大学へと発展していった。

キングス・カレッジ・ロンドン

各地に広がる新しい大学

19世紀後半になると、UCLに見られたような従来の大学とは異なる高等教育の動きは、ロンドン以外にも広がっていった。産業化が進む地方都市では、地域の市民や産業界からの支援を受け、科学や工学など、社会や産業を支える人材を育てる高等教育機関が設立されるようになった。1851年に設立された、マンチェスター大学の前身となるオーエンズ・カレッジをはじめ、バーミンガム、リーズ、リヴァプール、シェフィールド、ブリストルなどにも大学へと発展していく高等教育機関が誕生した。

こうした動きは「市民大学運動」(Civic University Movement)と呼ばれ、大学を都市の発展や市民生活と結びつける理念を持っていた。これらの「大学カレッジ」は当初、独立した大学ではなく、ロンドン大学の試験によって学位を取得したり、複数の大学からなる連合大学に所属したりしていたが、20世紀初頭にかけて次々と独立した大学へと発展していく。これが後に「赤レンガ大学」(Red Brick Universities)と呼ばれる大学群である。

Oxbridgeとは異なる背景から生まれたこれらの大学は、地域社会や産業界との結びつきを持ちながら発展した。

大学進学の拡大

1960年代以降、英国では大学へ進学する人が急速に増え、高等教育は一部のエリートのためのものから、より多くの人が進学するものへと変わっていった。大学の数や学生数が増え、1990年代にはポリテクニックも大学へ移行。高等教育は大衆化の時代を迎える。

20世紀半ば〜

1. 大学に行く世代の登場

第2次世界大戦が終わると、英国社会は大きな転換期を迎えた。戦後生まれのベビーブーマー世代が成長し、1950~60年代には若者の人口が増加。戦時中に抑えられていた教育や生活水準の向上への期待も高まった。1945年に発足した労働党政権は、NHSの創設など福祉国家の整備を進め、教育もまた、社会的な機会を広げる重要な手段と考えられるようになった。

1944年教育法による中等教育の再編も進み、義務教育を終えた後も学ぶ若者が増えていった。一方、戦後復興から産業の高度化へと進むなか、科学者、技術者、教師、医師など、高度な知識や専門技能を持つ人材への需要も急速に高まった。大学は、一部の階層の子弟が進む場所から、社会全体に必要な人材を育てる場所へと、その役割を変え始めていたのである。

しかし、1960年代初めの高等教育はまだ少数者のものだった。1962年にフルタイムの高等教育へ進んだ若者は同世代の8.5パーセント、大学だけに限れば4パーセントにすぎなかった。大学へ進むかどうかは、家庭の社会的・経済的背景にも大きく左右されていた。

この時代、英国社会そのものも大きく変化していた。戦後生まれの若者が社会の中心へと成長し、音楽やファッションなどの新しい若者文化が広がる一方、ベトナム戦争や核兵器、社会階級などをめぐる議論も活発になった。大学生の数が増えるにつれ、学生たちもこうした社会の変化を担う存在となり、英国各地の大学で抗議活動や大学占拠などが起こった。大学は若者が社会のあり方を考え、既存の価値観に異議を唱える場所にもなっていった。

2. 能力があれば高等教育へ

こうした時代の変化を背景に、1963年に政府が「ロビンズ報告」(Robbins Report)を発表した。報告書は、高等教育は能力と適性を持ち、学ぶことを希望するすべての人に開かれるべきだという考え方を示した。

これは、単なる大学の定員増が目的ではなかった。戦後の英国で広がっていた、教育によってより多くの人に社会的な機会を開こうとする考えとも重なり、高等教育をより幅広い層に開いていく大きな転換となった。その後、大学の新設や定員の拡大が進み、大学へ進む若者は増えていった。大学卒業は、従来の上流・中上流層だけでなく、より幅広い家庭の出身者にとっても、専門職に就いたり、社会的な地位を高めたりするための道となっていった。

1960年代には、高等教育の拡大に合わせて、新しい大学も各地に設立された。1961年創立のサセックス大学を皮切りに、ヨーク大学、イースト・アングリア大学、ウォリック大学、ランカスター大学、ケント大学などが相次いで開学。いずれも中世以来の伝統を持つ大学とは異なり、現代的な教育・研究を掲げて設立された「新大学」(New Universities)である。こうした大学の多くは、主要な大都市や伝統的な学都ではなく、大学を持たなかった地域にも設けられた。多くの新大学には現代建築を取り入れたキャンパス型の設計が採用され、学際的な教育や新しい研究分野にも力を入れた。大学が戦後社会の新しい需要に応じてつくられるものになったことを象徴している。

3. 広がる「もう一つの進学ルート」

ただし、それでも増え続ける進学希望者を大学だけで受け入れることは難しかった。そこで重要な役割を担ったのが、工学、商業、デザイン、教育など、職業や産業との結びつきが強い教育を行っていたポリテクニックである。1960年代後半から各地に整備されたポリテクニックは、伝統的でアカデミックな大学とは異なる高等教育のルートとして、若者だけでなく、働きながら学ぶ人にも学習の機会を提供した。大学に進むことだけが「高等教育」ではないという選択肢が生まれたことも、戦後の教育の裾野を広げるうえで重要だった。

こうして大学やポリテクニックで学ぶことは、少しずつ特別なものではなくなっていった。学生の出身階層も広がり、大学は、親と同じ職業や社会的地位を受け継ぐためだけでなく、自身で専門や職業を選び、社会的な上昇を目指す場所でもあった。

4. 大学の役割も変わる

大学に求められるものも変化した。従来のアカデミックな大学が学問を追究し、国家や社会のエリートを育てることを主な役割としてきたのに対し、戦後の大学には、経済を支える人材の育成や、より多くの人に教育の機会を与えることが期待されるようになった。

一方、1980年代のサッチャー政権下では、公共部門に効率性や競争を重視する考え方が広がり、高等教育もその影響を受けた。大学は教育・研究の成果や資金の使い方、運営の効率性をこれまで以上に問われるようになり、政府の関与も強まった。長く大学の伝統として重視されてきた自治との関係も、次第に変化していく。

そして1992年、ポリテクニックなどが大学として認められたことで、高等教育はさらに大きく拡大する。戦後のベビーブーマー世代から始まった社会の変化は、やがて「大学とは、一部の伝統的なエリートが進む場所」という従来のイメージそのものを変えていったのである。

大学の卒業式

ポリテクニックから大学へ

1992年の継続・高等教育法(Further and Higher Education Act)によって、ポリテクニックは大学として独立し、自ら学位を授与できるようになった。その多くが19世紀以前にルーツを持つ学校・カレッジを統合してできたもので、実務・職業教育を中心とした教育機関だった。

代表的なポリテクニックの例

1992年以前の名称 1992年以降
Leeds Polytechnic Leeds Metropolitan University
→ 現 Leeds Beckett University
Manchester Polytechnic Manchester Metropolitan University
Sheffield Polytechnic Sheffield Hallam University
Thames Polytechnic University of Greenwich
Polytechnic of Central London University of Westminster

大学は「みんなのもの」になったのか現代の大学について知る9つのこと

かつては一部の階層に限られていた英国の大学教育は、戦後の拡大を経て、いまや多くの若者が進学するものとなった。大学の数も学生数も大きく増え、海外からも多くの学生が集まる。一方で、授業料、大学間の序列、家庭の経済状況による進学格差など、大学が広く開かれたからこそ生まれた新たな課題もある。現在の英国の大学はどのような姿になっているのか。九つのキーワードから見てみよう。

1進学率

—— 大学へ進む人はどれくらいいる?

かつては一部のエリートに限られていた大学進学は、戦後大きく広がった。政府統計によると、2025年、イングランドでは18歳の約3人に1人(32パーセント)が大学やカレッジなどの高等教育(Higher Education)へ進学した。さらに19歳までに見ると、約45パーセントが何らかの高等教育に参加している。

2授業料

—— 大学はいくらかかる?

1998年、ブレア労働党政権がそれまで学生本人の負担が原則なかった大学の授業料に、年間最大1000ポンドの授業料を導入した。その後、授業料の上限は次第に引き上げられ、イングランドの大学では現在、標準的な学部課程の授業料上限は年間1万ポンドに近い。授業料は大学の主要な収入源の一つとなっている。

3学生ローン

—— どうやって授業料を払う?

高額な授業料を支払うため、イングランドでは学生向けの公的ローン制度がある。在学中に全額を払う必要はなく、卒業後、所得が一定水準を超えると返済が始まる。ローンは所得連動型となっており、一定期間が過ぎて完済しなかった場合は残額が免除される仕組みだが、多くの卒業生にとって長期的な経済的負担となっている。

4大学の序列

—— 大学には「格」がある?

英国では大学間の序列が社会に深く根付いている。Oxbridgeなど歴史的に特別な地位を持つ大学を頂点に、研究力や入学難易度などによる評価も大学ごとに異なる。一方、大学にはそれぞれ得意分野や特色があり、同じ大学でも学部や学科によって強みは違う。大学選びでは、単純なランキングだけでは測れない違いも重要になる。

5留学生

—— なぜ英国には多い?

英国の大学には世界各地から学生が集まる。英語圏であることに加え、長い歴史を持つ大学や世界的な研究実績も魅力となっている。多様な文化や価値観が持ち込まれ、留学生は英国の大学を国際的な学びの場にする一方、留学生の授業料は国内学生より大幅に高く、大学財政とも深く結びついている。

6教育格差

—— 大学は本当に平等?

高等教育の門戸が大きく広がった一方、家庭の経済状況や親の学歴などによって、大学への進学率や進学先には依然として差がある。特に上位大学では、恵まれた社会的背景を持つ学生の割合が高いことが課題となっている。そのため、コンテクスト入試(Contextual Admissions)という仕組みが積極的に導入されている。

7キャリア

—— 大学は就職に有利?

大学は学問を学ぶ場であると同時に、職業への入口としての性格を強めている。専門職に就くために学位が必要な分野も多く、学生側にも、将来の就職や収入につながるかを考えて進学先を選ぶ傾向がある。一方、学位だけで安定したキャリアが保証されるわけではなく、大学の費用対効果も問われている。

8研究大学

—— 大学は何を研究している?

大学は学生を教育するだけでなく、新しい知識を生み出す研究機関でもある。英国には、医学、科学、工学、人文・社会科学など、莫大な研究予算や国際的なネットワークを持ち、幅広い分野で世界的な研究成果を上げる大学が数多く存在する。研究は大学の評価だけでなく、産業や社会の発展にも影響を与えている。

9大学の自治

—— どこまで守られている?

英国の大学は長く、政府や外部から一定の距離を保ちながら教育・研究を行う「大学の自治」を重視してきた。しかし1980年代以降、政府による資金配分や評価、質の管理などへの関与が強まり、大学の運営にも競争や効率性が求められるようになった。自治と公的な責任のバランスは、現在も議論が続いている。

 

デービッド・ホックニー 1937-2026 春は、まだ終わらない

春は、まだ終わらない デービッド・ホックニー
1937-2026

1960年代初頭、ロンドンでポップアートの旗手として頭角を現し、以降は春のような光と色彩の画家として活躍を続けたデービッド・ホックニー。ホックニーは6月11日、ロンドンの自宅で静かに息を引き取った。88歳。老いてなお制作意欲は衰えず、晩年はiPadを使った創作にも果敢に挑み続けた。生涯「見ること」をやめなかった、ホックニーの軌跡をたどる。
(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.hockney.com、www.serpentinegalleries.org、www.pacegallery.com、www.thedavidhockneyfoundation.org、the guardian、BBCほか

David Hockney

デービッド・ホックニーとは

デービッド・ホックニー(David Hockney、1937年7月9日〜2026年6月11日)は、英国出身の画家・舞台美術家・写真家。英北部ブラッドフォードの労働者階級の家庭に生まれ、ロイヤル・カレッジ・オブ・アーツ在学中の1960年代初頭にポップアートの旗手として頭角を現した。1964年に渡米し、ロサンゼルスのプールや光を描いた作品群で世界的名声を確立。以後も油彩、フォトコラージュ、舞台美術、iPadによるデジタル創作と、60年以上にわたり表現手法を更新し続けた。

2026年6月11日、英画家のデービッド・ホックニーがロンドン中心部マリルボーンの自宅で88歳で息を引き取った。89歳の誕生日を1カ月後に控えてのことだった。故人の遺志に従い葬儀にはパートナーのジャン=ピエール・ゴンサルベス・デ・リマ氏と大甥のリチャード・ホックニー氏のみが参列。広報担当者は「20世紀と21世紀の現代美術における、最も重要な人物の一人」であったと発表し、その人生を貫いたモットーとして「Love Life」(人生を愛せ)という言葉を紹介している。

訃報を受け、各方面からホックニーを惜しむ声が相次いだ。チャールズ国王は「芸術と絵画の世界の巨人であり、生粋のヨークシャー・マンであり、多くの人々にとって親愛なる友人であり、インスピレーションの源だった」との声明を発表。かつて国王主催の昼食会に鮮やかな黄色いサンダルで現れたエピソードにも触れ、「その天賦の才を、デービッドはいつもあの愛すべき黄色いクロックスと同じくらい軽やかに身にまとっていた」としのんだ。

友人でもあった現代画家のトレイシー・エミンは「偉大な芸術家であり、素晴らしい人だった。その芸術の力で、英国らしさというもののイメージそのものを変えた人」と語り、スターマー首相も「英国で最も愛された芸術家の一人」への哀悼の意を表明した。体制に逆らいながら、その率直で気取らないヨークシャー・マン気質は体制からも愛された。ホックニーは半世紀を優に超えるキャリアの中で、何を見つめ、何を描き続けてきたのか ── その軌跡を振り返ってみよう。

1 ヨークシャー ➤➤➤ ロンドン 「若くして時代の寵児に」

ホックニーは1937年7月9日、英国北部ヨークシャーの工業都市ブラッドフォードに、労働者階級の家庭の5人きょうだいの4番目として生まれた。53年からブラッドフォード美術学校に学び、59年にはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アーツ(RCA)へ進学。当時の英国はようやく戦後の重苦しさを脱しつつあった時期で、若者たちの間には新しい表現を求める空気が広がっていた一方、同性愛はまだ違法とされていた時代でもあった。美術界では米国の抽象表現主義が主流だったが、ホックニーは次第にこれと距離を置き、自らの同性愛をも隠さずモチーフに取り込みながら、具象的でユーモラスな作品を大胆な色彩で描くスタイルへと転じていく。この転換を後押ししたのが、客員講師として招かれていた、のちに「ポップアートの父」と呼ばれる画家リチャード・ハミルトンだった。

61年、ロンドンで開催された「ヤング・コンテンポラリーズ」展には、ホックニーと共にR・B・キタイ、パトリック・コールフィールド、ピーター・ブレイクら同世代のRCAの学生たちが名を連ねた。のちに「英国ポップアートを世に送り出した展覧会」と評されるこの一連の動きの中にホックニーはおり、20代前半にして早くも、時代の寵児としての地位を確立していたことになる。同展で画商ジョン・カスミンの目に留まり、63年、カスミンが自身の画廊を開くと、ホックニーはその最初期の所属アーティストとなって初個展を開催している。また、NYも訪れアンディー・ウォーホルやデニス・ホッパーといった米国のアーティストたちと会う機会も得た。

この頃、後年まで続くホックニーのトレードマークの一つである脱色ブロンドの髪も誕生した。RCAの友人たちと「ブロンドの方が人生を楽しめる」と謳う米国のヘアケア・ブランド、クレイロールのテレビCMを目にしたホックニーが、その場の勢いで髪をブリーチしたのが始まりだった。

絵筆とパレットを持つホックニー(横顔)の白黒写真まだ髪の黒かった18歳のホックニー

ブラッドフォードの街並みの白黒写真紡績工場が立ち並ぶブラッドフォードの街並み

2 ロンドン ➤➤➤ ロサンゼルス 「ポップアートから、光の画家へ」

転機は1964年、27歳の年に訪れる。ホックニーは陰鬱な英国の空を離れ、同性愛に寛容な自由な空気と明るい光を求めて単身ロサンゼルスへと渡った。ホックニーを待っていたのは、それまで写真でしか見たことのなかった、乾いた光と青いプール、ヤシの木が並ぶ開放的な街だった。この光景への衝撃は、以後の画業を決定づけるほど大きなものだった。

渡米後まもなく、アイオワ・シティを車で通りかかった際、ある眼鏡店で分厚いべっ甲柄の丸眼鏡を見つけて即座に購入したという逸話が残る。「もっとプロフェッショナルに見られたかった」という理由からだったというが、以後この丸眼鏡は脱色ブロンドと並んで、ホックニーのトレードマークとして生涯身につけ続けられることになる。

ロサンゼルスでホックニーはアクリル絵具を本格的に用い始め、平坦で鮮やかな色面によって水面の揺らぎや光の反射を捉える独自の技法を確立する。プールに浮かぶ人物や、ガラス張りの邸宅を描いた一連の作品群は、まさにこの時期に生まれた。中でも代表作「とても大きな水しぶき」(A Bigger Splash 1967年)は、水しぶきという一瞬の動きを、静止した絵画の中に閉じ込めるという逆説的な構図で高く評価され、ホックニーの名を世界的なものにした。

「光と色彩の画家」としてのホックニーの原点は、まぎれもなくこのロサンゼルス時代にある。以後、拠点を英国に戻してからも、ホックニーはこの街で得た光への感受性を生涯にわたって作品に持ち込み続けることになる。

プールサイドに立つ腕を組んだホックニー1964年、ロサンゼルスにスタジオを構えたホックニー

白黒写真:黒い大きな丸メガネをかけたホックニー丸眼鏡が生涯のトレードマークに

ホックニーの有名な絵「A Bigger Splash」- 飛び込み板のある水色のプールに大きな水しぶき、背景には、青い空、平屋の建物と折り畳み椅子、向かって右に背の高い椰子の木が2本「とても大きな水しぶき」(1967年)

3 パリ ➤➤➤ ヨークシャー 「遠くを見ることで、故郷を新しく見る」

ホックニーとパリの関係は、パブロ・ピカソへの敬愛から始まった。RCA在学中の1960年、テートで開催されたピカソの回顧展に足繁く通い、計8回も鑑賞したと伝えられる。73年にピカソが没すると、ホックニーは追悼版画集への参加を依頼され、一時的にパリへ移住。ピカソ専属の名版画職人アルド・クロムランクのもとで、シュガーリフト・アクアチント技法を修得しながら、亡き巨匠への敬意を込めた作品を次々に制作した。76〜77年に手がけた版画集「ザ・ブルー・ギター」(The Blue Guitar)も、ウォレス・スティーヴンズの詩とピカソの絵画への二重のオマージュとして知られる。のちの1981年、ホックニーはニューヨーク・メトロポリタン・オペラで、1917年にピカソ自身が舞台美術を手がけたバレエ「パラード」を含む3本立ての舞台美術を依頼された際、意識的にピカソの手法を踏襲している。欧州の美術史との対話を経て、ホックニーの中で絵画と舞台という二つの表現が結びついていった時期だったといえる。

ロンドン・ロサンゼルス・パリを行き来する生活のなかで、ホックニーは友人やパートナーを写実的に描いた「ダブル・ポートレート」の連作にも取り組み始めた。等身大近くで描いたこれらの作品「クラーク夫妻とパーシー」(Mr and Mrs Clark and Percy 1970-71年)や「芸術家の肖像画 —プールと2人の人物—」(Portrait of an Artist(Pool with Two Figures)1972年)などは、移動を重ねる生活の中で出会った人々への、ホックニーなりの記録でもあった。

1978年、ホックニーは15年に及ぶ欧州と米国を行き来する生活を経て、再びロサンゼルスに定住する。しかし90年代に入ると、母の見舞いのため3カ月おきにヨークシャーへ通うようになり、97年、病床にあった旧友ジョナサン・シルヴァーに背中を押される形で、次第に故郷の風景そのものを描くようになっていく。2004年、久しぶりに向き合ったヨークシャーの光について、ホックニーは「違う光を見ることは、とても良いことだと思う」と語り、屋外での制作に没頭していった。07年に完成した「ウォーター近郊の大きな木々」(Bigger Trees Near Warter)は、50枚のキャンバスから成るホックニー史上最大の作品で、母の家の屋根裏で連日制作を重ね、ヨークシャーの春の予兆をとらえるため、木々が芽吹く前のわずか6週間で描き上げられた。各カンバスをどう組み合わせるか、全体像を確認するためにデジタルカメラやパソコンを駆使して制作されたといわれている。少年時代に見慣れていたはずの故郷の風景が、世界を巡り歩いた末の目で見返すことで、まったく新しい絵画になったともいえる。

ホックニーの有名な絵「Mr. and Mrs. Clark and Parcy」「クラーク夫妻とパーシー」(1970-71年)

ホックニーの有名な絵「Portrait of an Artist (Pool with Two Figures)」「芸術家の肖像画 —プールと2人の人物—」(1972年)

ホックニーの有名な絵「Bigger Trees near Warter」「ウォーター近郊の大きな木々」(2007年)

4 ヨークシャー ➤➤➤ ノルマンディー 「最後の創作の地」

2019年、80歳を過ぎたホックニーは、静けさを求めて仏ノルマンディーの農家「ラ・グランド・クール」に移り住んだ。4エーカー(東京ドームのグラウンドの約3分の1)の敷地には池と小川、納屋を改装したアトリエがあり、モネが「睡蓮」を描いたジヴェルニーからも遠くはない。ロサンゼルスの乾いた光、ヨークシャーの移ろう空、生涯を通じて場所ごとの光を追い求めてきたホックニーが、英国に戻る前に選んだのはこの静かなフランスの田園だった。

20年、新型コロナウイルスの流行で世間がロックダウンに入ったとき、ホックニーの生活はほとんど変わらなかった。もともと人里離れた農家で創作に没頭する日々を送っていたからだ。むしろこの隔離期間を、ホックニーは好機として捉えた。友人でもある美術評論家マーティン・ゲイフォードと電話やメールでやり取りを重ねながら、毎朝庭に出てはiPadでその日の光と季節の移ろいをスケッチし、送り続けた。この往復書簡的な記録は、のちに「Spring Cannot Be Cancelled」(春は中止にできない)という1冊にまとめられている。世界が立ち止まっていた時期に、ホックニーはただ一人、庭の中で春が巡り続けることを描き続けていた。

この日々の記録の集大成が、全長90メートルに及ぶパノラマ・フリーズ「ノルマンディーの1年」(A Year in Normandie 2020-21年)だ。100点以上のiPad画によって、農家の庭に訪れる四季の移ろいを1年かけて描いたこの作品は、バイユーのタペストリーや中国の絵巻物からインスピレーションを得た構成で、歩きながら鑑賞することで時間の経過そのものを追体験できる仕掛けになっている。88年の生涯をかけて世界を回り、「見ること」をやめなかった画家がたどり着いたのは、自宅の庭という最も身近な風景だった。

ホックニーの有名な絵「A Year in Normandie (detail)」鮮やかな緑のなかにある大きな木やフランスの民家、牧草ロールがいくつもある風景「ノルマンディーの1年」の一部(2020-21年)

ホックニーの有名な絵「A Year in Normandie (detail)」鮮やかな緑のなかにある大きな木やフランスの民家、牧草ロールがいくつもある風景「ノルマンディーの1年」の一部(2020-21年)

マーティン・ゲイフォード、デービッド・ホックニー共著「Spring Cannot Be Cancelled David Hockney in Normandie」
マーティン・ゲイフォード、デービッド・ホックニー共著
Thames & Hudson、2021年刊、280ページ
ロックダウン下のノルマンディーでの対話と、iPadドローイング約30点を収録

ホックニーをめぐるABC

A卒論の代わりに絵を描いた

RCAの卒業条件だった、実在の女性モデルを描くライフ・ドローイングの課題をホックニーは拒否。代わりに、米国のボディビル雑誌から男性像を模写した絵に、自ら描いた骸骨のスケッチを組み合わせて提出した。併せて課された小論文の提出も拒み、「絵だけで評価されるべきだ」と主張。前代未聞のこの対応に、学校側は規則そのものを変えてまでホックニーを卒業させたという。若干24歳にして、すでに型破りぶりを発揮していた。

B溺愛の対象はダックスフント

ロサンゼルス時代から大の愛犬家として知られたホックニー。飼っていたダックスフント2匹、スタンリーとブーギーは幾度となく作品のモデルとなり、キャンバスのそばで眠る姿が何枚も描かれた。あまりの溺愛ぶりに、のちに「David Hockney's Dog Days」という画集にまでなっている。「主題は犬ではなく、この小さな生き物たちに対する愛情なんだ」だそう。

C100億円の値が付いた

2018年、ロサンゼルス時代の代表作「芸術家の肖像画—プールと2人の人物—」がニューヨークのオークションに出品され、9030万ドル(当時のレートで約100億円)で落札。それまでジェフ・クーンズの彫刻が保持していた記録を大きく更新。存命作家の作品としては、当時史上最高額を記録した。しかしわずか半年後、当のクーンズが1986年の彫刻「ラビット」を9110万ドルで売却し、記録を奪還している。

D女王の肖像画を断った

2011年、エリザベス女王の肖像画制作を依頼されたホックニーは、これをやんわりと辞退した。その理由を問われ、「女王はきっと『素晴らしい題材』になるだろうが、自分は知っている人を描く方が好きなんだ」と答えている。さらにBBCラジオの取材には、「依頼されたとき、私は女王の国でもあるイングランドの風景を描くのに非常に忙しかったからね」とも語った。

E禁煙法に一人で抗議

2005年、飲食店での喫煙を禁止する法律の制定が議論された際、ホックニーは労働党大会に自らプラカードを持って乗り込んだ。掲げた文言は「DEATH awaits you all, even if you do not smoke」(タバコを吸わなくとも、死はあなた方全員を待っている)。政治家に人生の楽しみを決めさせたくないとの信念のもと、生涯チェーンスモーカーであり続けた。

F喫煙を理由に禁止されたポスター

2025年、パリのルイ・ヴィトン財団で大規模な回顧展が開催された際、その宣伝用ポスターが、パリの地下鉄構内への掲示を禁止される一幕があった。理由は、ポスターに描かれたホックニーが煙草を持っていたから! 公共交通機関でのタバコ関連の描写を禁止するフランスの法律に違反しているとのことだが、ホックニーはこの決定を、「完全なる狂気」と非難した。

エキシビション情報

David Hockney: A Year in Normandie and Some Other Thoughts about Painting

ノルマンディーの1年

本展は、生前のデービッド・ホックニー本人との緊密な協力のもと企画された。中心となるのは、ホックニーの代表作の一つであるパノラマ・フリーズ「ノルマンディーの1年」。仏ノルマンディースタジオで繰り広げられた四季の移り変わりを、「バイユーのタペストリー」にインスピレーションを得た手法で捉えた壮大な作品だ(このタペストリー自体も、9月から大英博物館で公開予定)。サーペンタイン・ギャラリーでの展示において、この作品はケンジントン・ガーデンズを取り巻く自然との対話を生み出している。

Serpentine North Gallery
2026年8月23日(日)まで

West Carriage Drive, London W2 2AR
Lancaster Gate / Knightsbridge駅
Tel: 020 7402 6075
月 12 –18時 火~金 10 –18時 土・日 10 –19時
無料
www.serpentinegalleries.org

 

音楽の都オーストリアで楽しむ野外コンサート

ウィーンやザルツブルクだけじゃない 音楽の都オーストリアで楽しむ野外コンサート

音楽の都オーストリア。その名を聞いて思い浮かぶのは、ウィーンの国立歌劇場やザルツブルク音楽祭だろう。しかし、この国の音楽はホールの中だけにとどまらない。中世の城の敷地内にある野外ステージ、湖上に浮かぶ舞台、ローマ時代の採石場を舞台にしたオペラなどさまざまな顔がある。本特集ではニュースダイジェスト編集部員が、ウィーン近郊のニーダーエスタライヒ州からブルゲンラント州を縦断し、知られざるオーストリアの音楽文化を体験。コンサート・ホールとは一味違う、この国の夏の楽しみ方をご紹介する。 (文:英国ニュースダイジェスト、取材協力: オーストリア大使館観光部)

オーストリアの地図

オーストリアの地図

首都ウィーンを取り囲むように広がるのが、オーストリア最大の州・ニーダーエスタライヒ州。「低地オーストリア」を意味し、国内では比較的標高の低い地域が広がる。一方、ブルゲンラント州はその東に位置し、ハンガリーと国境を接するオーストリア最東端の州。広大な平原やブドウ畑、湿地や湖沼地帯が広がる。どちらの州もウィーンから鉄道で約30分~1時間半とアクセスしやすい。

アクセス:ロンドンからウィーンへ直行便で約2時間半。ウィーンを起点に、ニーダーエスタライヒ州、ブルゲンラント州へは鉄道や車で約30分~1時間半。

ニーダーエスタライヒ州
お城の敷地内で開かれる
グラーフェネック音楽祭

2026年8月14日(金)~9月6日(日)
www.grafenegg.com

ウィーンのフランツ・ジョセフ(Franz Josefs)駅から約1時間。ニーダーエスタライヒ州の北西の町グラーフェネック(Grafenegg)に、歴史的なグラーフェネック城❶❷がある。15世紀に築城された後、幾度かの変遷を経て現在は英国チューダー様式の意匠を取り入れた優美なネオゴシック建築として知られる。敷地内の広大な庭園には現代的だが自然と調和した野外ステージ「雲の塔」(Wolkenturm)❸があり、夏の間はコンサートが開かれる。中でも毎年8~9月に開催されるグラーフェネック音楽祭は、ザルツブルク音楽祭に次ぐ質の高い演奏で国内の音楽ファンを魅了。今年は第20回を迎え、芸術監督を務めてきたピアニスト、ルドルフ・ブッフビンダーが退任する節目の年でもある。

グラーフェネック❶ 音楽祭の舞台としても知られる古城、グラーフェネック

城の内部城の内部❷ 光の入り方が印象的な城の内部

ピクニック❸ 会場の外ではピクニックもできる

取材では、夏の訪れを告げる「真夏の夜のガラ・コンサート」❹を鑑賞。演奏はニーダーエスタライヒ州を本拠とするトーンキュンストラー管弦楽団が担当し、フランス出身の指揮者ファビアン・ガベルがタクトを振った。地元の人々が体を揺らしながら気軽に音楽を楽しむ姿に、クラシック・コンサートにありがちな堅苦しさはない。

真夏の夜のガラ・コンサート❹ 真夏の夜のガラ・コンサート

ベートーヴェン没後200周年にあたる来年、2月13日にはグラフェネックにて名誉指揮者の佐渡裕さんがトーンキュンストラ―管弦楽団を指揮する。

グラーフェネック城の敷地内にはミシュランのビブグルマンに選出された「モルヴァルド・グラーフェネック・レストラン」(Mörwald Grafenegg Restaurant)があるほか、16棟のコテージ❺も用意されている。コンサートの後に慌ただしく帰るのではなく、テラスでワインを片手にプライベートな夜を過ごし、そのまま宿泊できる空間だ。翌朝は、32ヘクタールの敷地内をのんびりと散策。芝生で思い思いに過ごす人々の姿も印象的で、肩ひじ張らずに欧州の夏を満喫できる。コンサート開催日ならウィーンから片道50分のシャトルバスも運行され、音楽と建築、ワイン、グルメを一度に楽しめるのが魅力だ。

緑が見える大きな窓のある部屋❺ ゆっくり滞在できるコテージ。早朝には窓の外に野ウサギの姿も

ブルゲンラント州
湖の風に吹かれながら
メルビッシュ湖上音楽祭

2026年7月16日(木)〜8月22日(土)
www.seefestspiele-moerbisch.at

ブルゲンラント州の魅力は、ハンガリー国境近くの町、メルビッシュのノイジードラー湖(Neusiedler See)にある。ヨシ原に囲まれた浅い湖❻で、ウィーンから車で約1時間と、手軽に行けることから「ウィーンっ子の海」とも呼ばれる。豊かな自然が広がり、ラムサール条約の登録湿地にも数えられている。その水上に、欧州最大級の野外舞台が現れるのが、メルビッシュ湖上音楽祭(Seefestspiele Mörbisch)だ。

周囲にはヨシの草原が続く❻ 周囲にはヨシの草原が続く

毎年夏、湖面に張り出した特設ステージでオペレッタやミュージカルが上演される。これまでにも「ウエストサイド・ストーリー」「王様と私」といった作品がかけられてきたが、今年の演目は日本でもたびたび上演されているミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」(La Cage aux Folles)❼。ゲイのカップルを主人公に、あるがままの姿を受け入れることの素晴らしさをコメディー・タッチで描いた作品だ。取材では、芸術監督で主演の一人でもあるアルフォンス・ハイダー氏の案内で、バックステージツアーに参加した❽。同氏は本作のテーマについて、「寛容、平等、そして自由への賛歌」であると語る。同性愛嫌悪や排除の動きが再び勢いを増す今の世界で、オープンであること、自分らしくあることの力を示す物語だという。象徴的なテーマ曲は「私は私」(I Am What I Am)。

La Cage aux Folles❼ ミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」(La Cage aux Folles)

取材陣を案内するアルフォンス・ハイダー氏(写真右)❽ 取材陣を案内するアルフォンス・ハイダー氏(写真右)

南仏リヴィエラのナイトクラブが舞台❾のため、幅60メートル、総延長1000メートルの大階段、中央には直径10メートルの回り舞台が設置されている。手動で動かす金色のケージや、鮮やかなムービング・ライトも配置され、舞台に躍動感が生み出されるデザインだ。湖面に浮かぶ巨大な舞台装置と6000人規模の客席が一体となるスケール感が、この湖上音楽祭の最大の魅力の一つといえる。また、客席上部まで上がると、湖の向こうにはハンガリーの景色が広がる❿。湖一つ隔てて隣国と向き合うこの眺めは、八つの国と国境を接するオーストリアならではのものだ。

取材当日は舞台でリハーサルが行われていた❾ 取材当日は舞台でリハーサルが行われていた

湖の向こう岸はハンガリー❿ 湖の向こう岸はハンガリー

ブルゲンラント州
圧巻の舞台セット
ザンクト・マルガレーテン音楽祭

2026年7月15日(水)〜8月22日(土)
www.operimsteinbruch.at

ブルゲンラント州の二つめの音楽祭は、ウィーンから70キロほど離れたザンクト・マルガレーテンの採石場(Oper im Steinbruch Sankt Margarethen)⓫が舞台だ。ローマ時代から切り出されてきた石灰岩の岩壁を、そのまま天然の音響装置に見立てた野外オペラが、毎年夏に上演される。きっかけは1991年、この地で開かれたロシア民謡合唱団のコンサートだったという。教会音楽にも通じる歌声が岩壁に響き渡る様子に感銘を受けた地元関係者が、本格的なオペラ上演を思いついたのが始まり。96年、ヴェルディの「ナブッコ」で始まったこのオペラ祭は、初年度は観客数1万1000人だったが、2025年には8万人を超える規模に成長した。

採石場という立地をぞんぶんに活用した会場⓫ 採石場という立地をぞんぶんに活用した会場

今年の演目はプッチーニの「トスカ」⓬。実際に足を運んで驚いたのは、舞台セットの規模だ⓭。岩壁を背景に組み上げられたセットは、コンサート・ホールでは決して見られないスケール感で、オペラに詳しくなくても、その迫力だけで十分に楽しめる。ローマのサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂、ファルネーゼ宮殿、サンタンジェロ城などが再現され、芸術監督のダニエル・セラフィン氏の話を聞いていると、玄人がじっくり音楽に向き合う場というより、誰もが気軽に「すごい」を体験できる、間口の広いエンターテインメントを目指しているようだ。ちなみに、セラフィン氏は、先に挙げたメルビッシュ湖上音楽祭の芸術監督を長年務めたハラルト・セラフィン氏の息子でもあり、2019年にこの採石場オペラの芸術監督に就任している。メルビッシュ湖上音楽祭同様、夏の野外で涼しく音楽鑑賞するにはぴったりの場所だ。

今年の演目はプッチーニの悲劇「トスカ」⓬ 今年の演目はプッチーニの悲劇「トスカ」

採石場を利用した印象的な舞台セット⓭ 採石場を利用した印象的な舞台セット

観客席は4670席観客席は4670席

舞台セットローマのバロック様式をイメージしたステージ・デザイン

舞台衣装第1幕のクライマックス、「テ・デウム」のシーンで使われるコスチューム

舞台衣装出番を静かに待つ仮面たち。大聖堂を舞台にした第1幕のフィナーレに登場する

また、この採石場から切り出された石は、ウィーンのシュテファン大聖堂やリンク通りの建物にも使われてきた。運営は、ハプスブルク家に仕えた名門貴族の流れを継ぐエスターハージー財団。同財団はワイン醸造も手がけており、幕間に振る舞われるワインも名物の一つ。

ブルゲンラント州
クラシックだけじゃない
ノヴァ・ロック・フェスティバル

www.novarock.at

ノヴァ・ロック・フェスティバル(Nova Rock Festival)⓮は、ブルゲンラント州の東部に位置するニッケルスドルフ(Nickelsdorf)で、毎年6月に開催されている野外フェス。2005年のスタート以来、ハード・ロックやヘヴィ・メタル、パンク・ロックがメインだが、親子で来ている観客も多く、オーストリアで愛されているフェスの一つであることが伺える。地元の食材やメニューにこだわった屋台が立ち並ぶほか、バンジーやローラー・ディスコを始めとしたアトラクションも数多く、移動式遊園地、バーベキュー・エリア、ノイジードラー湖畔にある美しい町ポダースドルフ(Podersdorf am See)へのシャトルバスなどが出ている。フェスの合間に湖で泳いでリフレッシュすることも可能だ。

Nova Rock Festival⓮ 暗くなればなるほど盛り上がる会場

Nova Rock Festival

今年のヘッドライナーは、北欧のメタル・バンド、ヴォルビート(Vol beat )、英国のベテランであるザ・キュア(The Cure)とアイアン・メイデン(Iron Maiden)、同じく英国からオルタナティブ・メタルのブリング・ミー・ザ・ホライズン(BMTH)が出演した。2027年は、6月10日(木)〜12日(土)に開催予定。出演者の詳細は、順次ウェブサイトで発表されるので確認しよう。

Nova Rock Festival米バンドのジ・オフスプリングが登場

コウノトリの飛来地 ルストの魅力

ルスト地図

ノイジードラー湖の西岸、メルビッシュから北へ車で15分ほどの場所に、ルスト(Rust)という小さな町がある。人口はわずか2000人足らず。かつてハプスブルク帝国最大の地主といわれたハンガリー貴族エスターハージー家が治め、同家のもとでワイン醸造が盛んに行われてきた。ウィーンからは電車とバスを乗り継いで約40分〜1時間半ほどで到着できる。

歩いてすぐに回れるほどのコンパクトな旧市街には、グレーをまぶしたパステル・カラーの壁に、切妻屋根を載せた家々が軒を連ねる⓯。ハンガリー風といわれる家々が立ち並ぶ旧市街には、ワインを楽しめるレストランや直売店⓰が点在し、町全体がワイナリーのような雰囲気。昼食には、ミシュラン・ビブグルマンの食堂「キルヒェンヴィルト・ルスト」(Kirchenwirt Rust)⓱へ。地元産の赤ワインが名物なので、ぜひ一杯試してみていただきたい。

コンパクトな旧市街⓯ コンパクトな旧市街

ワインの直売所⓰ ワインの直売所 ⓱ 食堂「キルヒェンヴィルト・ルスト」(右写真)

白アスパラガス白アスパラガス(シュパーゲル)の旬は4~6月中旬

もう一つの名物は屋根の上の住人、コウノトリ⓲だ。春になると、煙突や煙突近くの台座に次々と巣がかけられる。2024年には86羽のヒナがここで誕生し、130羽近いコウノトリがルストの旧市街の屋根の上を飛び交ったという。童話の世界のようにかわいらしい街並みと、空を見上げれば必ず一羽は目に入るコウノトリ。ワインと鳥、両方を楽しみに、気軽に立ち寄ってみたい町だ。

コウノトリ⓲ 屋根の上の住人、コウノトリ

 

欧州で味わうB級グルメ

その一口に歴史がある欧州で味わうB級グルメ

フィッシュ・アンド・チップス、カリーヴルスト、ファラフェル……。欧州の街角で食べるその味は、なぜその土地に生まれ、なぜ今も愛されるのか。本特集では、産業革命をはじめ、二度の世界大戦や東西分断、移民労働者など、「B級グルメ」の源流をたどる。さらに旅先で頬張りたい欧州の名物B級グルメを、その味が生まれた歴史や背景、発祥地をめぐる論争と合わせてご紹介。次の旅行がもっとおいしくなること間違いなし! (文:英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

欧州の「B級グルメ」はこうして生まれた

参考:Demographia / Old Bailey Online、BBC「Eating on the hoof: London's long history of street food」、Henry Mayhew, 「London Labour and the London Poor」、LeMO「Leben in Trümmern」、DW「Von der Currywurst zum Insektenburger」

産業革命と路上食文化の誕生

手軽で安くて、どこか懐かしい。世界中で愛される欧州の「B級グルメ」の原点をたどると、19世紀の産業革命に行き着く。工場労働者が都市に押し寄せたこの時代、労働者たちは昼食のために家へ戻る余裕などなかった。ヴィクトリア時代のロンドンでは、人口がわずか60年ほどで3倍に膨れ上がり、路上には数万人の行商人や露天商がひしめいた。エンドウ豆のスープ、温かいウナギ料理、ミートパイ。こうした腹にたまる一皿が、工場と寝床を往復する労働者たちの命綱となったのだ。産業革命は蒸気機関だけでなく、「路上で食べる文化」をも生み出したのである。

赤みを帯びた古いロンドン写真。貝売りのストールに集まる人たち1877年、ロンドンの貝売り。牡蠣やツブ貝などの貝類は、安くて栄養のある庶民の味として人気を集めた

20世紀に入ると、前世紀に芽生えた路上食文化は都市の風景に根を下ろしていく。英国ではフィッシュ・アンド・チップスの店が1930年代には3万5000軒に達した。ウィーンでは、オーストリア=ハンガリー帝国時代に復員兵士たちが移動式の調理台でソーセージを売り始めたのをきっかけに、ソーセージ・スタンドの文化が街角に広がっていった。しかし2度の世界大戦中は、各国で食料配給制が敷かれ、市民の食卓は厳しく統制された。

第2次世界大戦が終わると、欧州各地の軽食文化は新たな局面を迎える。とりわけ荒廃が激しかったドイツでは、がれきの合間に即席の食事処が立ち並んだ。設備投資がほとんどいらないこうした屋台や小店は、荒廃した街が再び動き出すための燃料のようなものだった。やがて各国で経済が上向き始めると食肉消費が伸び、ベルギーとフランスを発祥とするフライドポテトが肉料理の付け合わせとしても定着し、その文化が周辺諸国にも広がっていく。

温かい食事を求めて集まる人々の様子を写した古い白黒写真戦後のベルリンで温かい食事を求めて集まる人々。荒廃した都市では、移動販売や簡易食堂が人々の空腹を満たす貴重な存在だった

鉄のカーテンの向こう側で愛されたグルメ

冷戦時代に突入すると、西側で軽食文化が花開く一方、東側では事情がまるで違った。共産主義体制のもと、ポーランドでは国家が食の生産から流通までを握り、民間の外食産業はほとんど芽吹く余地がなかった。人々は市場の片隅や個人的なつてを頼りに食をやりくりし、国営の軽食スタンドが暮らしを支える数少ないよりどころだった。

ハンガリーは「グヤーシュ共産主義」(ハンガリーの代表的な煮込み料理になぞらえた呼称)と呼ばれる比較的穏やかな体制のもと、小さな食の商いが部分的に許されたものの、日常の食卓を担ったのは国営のセルフサービス食堂や缶詰・冷凍食品であり、街角で自由に食を商う風景は限られていた。

チェコスロバキアでも選択肢は乏しく、ヴァーツラフ広場に並ぶソーセージ・スタンドのような軽食売り場や国営の大衆食堂が、庶民にとって数少ない外食の場だった。だからこそ、制約のなかで生まれた味には独特の強さがある。フランスから持ち込んだバゲット技術で即席のピザ・トーストを作り上げたポーランドのザピエカンカ、中世から続くパン窯の伝統を揚げ物に転じて夏の湖畔の名物にしたハンガリーのラーンゴシュ。乏しい食材と限られた自由のなかで磨かれたこれらの一品は、体制が変わった今もなお東欧の街角で愛され続けている。 冷戦時代に突入すると、西側で軽食文化が花開く一方、東側では事情がまるで違った。共産主義体制のもと、ポーランドでは国家が食の生産から流通までを握り、民間の外食産業はほとんど芽吹く余地がなかった。人々は市場の片隅や個人的なつてを頼りに食をやりくりし、国営の軽食スタンドが暮らしを支える数少ないよりどころだった。

ハンガリーは「グヤーシュ共産主義」(ハンガリーの代表的な煮込み料理になぞらえた呼称)と呼ばれる比較的穏やかな体制のもと、小さな食の商いが部分的に許されたものの、日常の食卓を担ったのは国営のセルフサービス食堂や缶詰・冷凍食品であり、街角で自由に食を商う風景は限られていた。

チェコスロバキアでも選択肢は乏しく、ヴァーツラフ広場に並ぶソーセージ・スタンドのような軽食売り場や国営の大衆食堂が、庶民にとって数少ない外食の場だった。だからこそ、制約のなかで生まれた味には独特の強さがある。フランスから持ち込んだバゲット技術で即席のピザ・トーストを作り上げたポーランドのザピエカンカ、中世から続くパン窯の伝統を揚げ物に転じて夏の湖畔の名物にしたハンガリーのラーンゴシュ。乏しい食材と限られた自由のなかで磨かれたこれらの一品は、体制が変わった今もなお東欧の街角で愛され続けている。

ポーランドの伝統的なミルク・バーで行列する人々ポーランドに残る伝統的なミルク・バー。共産主義時代、安価な大衆食堂は欠かせない食の場だった

移民の波と異国の味

一方、同じ時代の西側では、まったく別の力がB級グルメの地図を塗り替えようとしていた。戦後復興から高度成長へと向かう欧州に、決定的な彩りを加えたのが移民の波だった。1960年代以降、ドイツにはトルコ人労働者が渡り、1970年代にはベルリンの路上でドネルケバブのサンドイッチが売られ始めた。英国にはインドや西インド諸島からカレーやジャークチキンが、フランスには北アフリカからクスクスやメルゲーズが持ち込まれた。異国の味は各地の屋台の風景を変え、やがて街に根付いていった。

そして現在、健康志向やヴィーガン需要の高まりを受けて、ファラフェルやベジケバブが台頭し、欧州のB級グルメは変化し続けている。安さと手軽さの裏には、労働、統制、戦後復興、移民という歴史の地層が何重にも折り重なっている。街角の味とは、いつの時代もその社会の姿を映す鏡なのかもしれない。

旅先で味わいたい!欧州のB級グルメ図鑑

編集部が厳選した欧州9 カ国のB 級グルメを、その特徴や背景とともにご紹介。路上や市場のカウンターで手渡される一皿こそが、旅の記憶に深く刻まれることも。高級レストランでは出会えない、その土地ならではの味を楽しんで!

参考:National Federation of Fish Friers、BBC「Why are Cornish pasties still so popular?」、So Dutchie「Why do Dutch people eat raw herring… and love it?」、Belga News Agency「Belgian inventions: Frites」、berlin.de「Döner Kebab ist eine Berliner Erfindung」、OÖNachrichten「Wir sind die Erfinder der Original-Käsekrainer」、Culture. pl「Polish Food 101 – Zapiekanka」、Radio Prague International「Utopenec: a Czech pub classic」、HungaryToday「Lángos – The Most Ancient of Hungarian Foods」、Tasting Table「This Spanish Seafood Sandwich」

UK英国 Fish and Chips
フィッシュ&チップス

フィッシュ&チップス

サクサクの衣をまとった白身魚と太めのチップス(フライドポテト)に、塩とモルトビネガーをたっぷり振って食す英国の国民食。19世紀、鉄道網の発達で新鮮な魚が内陸にも届くようになり、産業都市の労働者の間で爆発的に広まった。第2次世界大戦中も配給制の対象外だったため、人々の空腹を満たし続けた。フィッシュ・アンド・チップスの店は今も全英に約1万500軒を数え、その数は英国最大のチェーン店であるグレッグスと比べても約4倍、マクドナルドの約7倍に上る。

UK英国 Cornish Pasty
コーニッシュ・パスティ

コーニッシュ・パスティ

肉とジャガイモ、タマネギ、スウィード(カブの近縁種)をパイ生地で半月形に包んで焼き上げるコーンウォール地方の名物。もとは14世紀に上流階級が食べていたが、18世紀頃から労働者の食卓にも広まり、とりわけ19世紀のスズ鉱山の隆盛とともに坑夫たちの弁当として定着した。素手で持てるよう縁を厚く編み込み、ヒ素で汚れた手が食材に触れないよう持ち手として使ってそのまま捨てたという伝承が残っている。2011年には欧州連合(EU)の地理的表示保護(PGI)を取得。

スペイン国旗スペイン Bocadillo de Calamares
ボカディージョ・デ・カラマレス

ボカディージョ・デ・カラマレス

カリッと揚げたイカのリングをバゲットに挟んだだけの、潔いほどシンプルなマドリード名物。内陸の都市マドリードでイカのフライが一般的になったのは、沿岸部から安価なイカが大量に流通するようになったことが背景にある。マヨール広場周辺のバルに入り、カウンターで注文すれば数分で出てくる気軽さも魅力。レモンをひと絞りするだけで、衣のサクサク感とイカの弾力がパンの柔らかさと絶妙に調和する。昼下がりの生ビールとの相性は抜群だ。

ハンガリー国旗ハンガリーLángos
ラーンゴシュ

ラーンゴシュ

イースト入りの生地を揚げたハンガリーの伝統的なストリート・フード。名前はハンガリー語で「炎」を意味する「ラーング」に由来し、かつてはパン窯の火でフラットブレッドとして焼き上げていた。現代ではサワークリームとすりおろしチーズをたっぷり載せて、揚げたてを食べるスタイルが定番。ブダペストの中央市場や夏のバラトン湖畔の屋台で最も頻繁に出会える。表面はカリッと、中はもちっとした食感で、酸味の効いたクリームとチーズの塩気が絶妙に重なる一枚だ。

フランス国旗フランスFalafel
ファラフェル

ファラフェル

ひよこ豆をすりつぶしてスパイスを加え、カリッと揚げた中東生まれの一品。パリでは、マレ地区のユダヤ人街リュ・デ・ロジエがファラフェルの聖地として知られる。1979年創業の「ラス・デュ・ファラフェル」をはじめとする名店が軒を連ね、行列が絶えない。ピタパンに揚げたてのファラフェル、ナス、キャベツ、フムスを詰め込んだサンドイッチを、通りに立ったまま食べるのがパリ流だ。北アフリカや中東からの移民が育んだこの味は、今やパリを代表するストリートフードの一つ。

ドイツ国旗ドイツCurrywurst
カリーヴルスト

カリーヴルスト

ぶつ切りにした焼きソーセージに甘辛いトマトベースのソースをたっぷりかけ、カレー粉をまぶして紙皿で提供するカリーヴルスト。復興期の労働者たちの間で広まり、いまやドイツ全土で年間8億本以上が消費される国民食である。本場ベルリンでは皮なし(ohne Darm)タイプを小さな木のフォークで突き刺し、カレー粉の山を崩しながらいただく。考案者ヘルタ・ホイヴァーは1959年にソースを「Chillup」として商標登録しているが、発祥の地をめぐっては別の物語もある。

ドイツ国旗ドイツDöner Kebab
ドネルケバブ

ドネルケバブ

1972年、トルコからの労働者であるカディル・ヌルマンが、ベルリン動物園駅前の屋台で回転グリルの肉をパンに挟んで売り出したのが、ドイツ式ドネルケバブの原型とされる。故国の味を手軽に再現したいという移民労働者の思いから生まれ、今やドイツ最大級のファストフードに成長。たっぷりの野菜、ヨーグルト・ソース、そして薄切り肉がフラットブレッドからはみ出すボリューム感がたまらない。深夜の駅前やクラブ帰りにかぶりつくのが、ドイツのナイトライフの定番だ。

オーストリア国旗オーストリアKäsekrainer
ケーゼクライナー

ケーゼクライナー

豚肉のソーセージの中にエメンタールチーズの角切りを忍ばせ、グリルで焼き上げるウィーンの名物。1960年代後半にオーバーエスターライヒ州の料理人らが考案したとされる。かぶりつくと、中からとろりと溶けたチーズが溢れ出す。購入する場所はウィーン市内の路上に点在するソーセージスタンド。この屋台文化自体が2024年にオーストリア・ユネスコ委員会の国内無形文化遺産目録に登録された。溶けたチーズの熱さに顔をしかめながらも、かぶりつく手が止まらない。

オランダ国旗オランダHaring
ハーリング

ハーリング

塩漬けのニシンを街角の屋台でそのまま頬張る、オランダを代表するストリートフード。14世紀に内臓処理と塩蔵の技法が広まり、漁師のウィレム・ボイケルスゾーンが考案したといわれている。保存性を増したニシンは、黄金時代のオランダを支える交易品となった。尾をつまんで頭上に掲げ、上を向いてそのまま口に運ぶのが伝統的な食べ方だが、実際には刻みタマネギとピクルスを添えた一口大の切り身を爪楊枝で食べるのが一般的。白パンに挟んだ「ブローチェ・ハーリング」も人気だ。

ベルギー国旗ベルギーFrites
フリッツ

フリッツ

「フレンチフライ」の名で世界に知られるが、発祥を巡ってベルギーは強い自負を持つ。17世紀、ムーズ川流域で冬場に小魚が獲れず、代わりにジャガイモを揚げたのが始まりとされる。低温でじっくり火を通し、高温で二度目を揚げて外はカリッ、中はホクホクに仕上げるのがベルギー流。街角の「フリチュール」と呼ばれる専門屋台でコーン型の紙袋に盛られ、マヨネーズなどの多彩なディップとともに供される。2014年、このフリッツ屋台文化はベルギー国内の無形文化遺産に。

ポーランド国旗ポーランドZapiekanka
ザピエカンカ

ザピエカンカ

バゲットを縦半分に割り、マッシュルームとチーズを載せて焼き上げ、ケチャップをたっぷりかける「ポーランド式ピザ・トースト」。1970年代、ギェレク政権下でフランスからバゲット製造のライセンスが導入されたことで広まった。とろけたチーズとマッシュルームの旨み、甘酸っぱいケチャップがたまらない。限られた食材で満足感を生んだ社会主義時代の庶民の知恵が詰まった一品で、クラクフ・カジミエシュ地区ノヴィ広場の丸い建物に並ぶ屋台群はその聖地となっている。

B級グルメ「発祥地論争」は終わらない

B級グルメには、しばしば「うちが元祖だ」という発祥地論争がつきまとう。記録が乏しいからこそ土地の誇りと物語が絡み合い、真相はいっそう味わい深くなる。

英国のフィッシュ・アンド・チップスは、そもそも別々の文化から生まれた二つの食べ物だ。フライドフィッシュは16 世紀にユダヤ系移民がロンドンに持ち込み、チップスは産業革命期のイングランド北部で労働者の腹を満たしていた。この二つを一皿に合わせたのは誰かというと、1860年頃にロンドンのイーストエンドで店を開いたジョセフ・マリンと、1863年にランカシャーのモスリーで売り始めたジョン・リーズの二人が名乗りを上げているが、決定的な証拠はいまだない。

ドイツのカリーヴルストはさらに入り組んでいる。1949年にベルリンの屋台でヘルタ・ホイヴァーがカレー粉入りソースを考案したとされるが、ハンブルクの作家ウーヴェ・ティムは「194 7 年に子どもの頃、ハンブルクで食べた」と主張し、自身の小説にも登場させた。さらにルール地方も炭鉱労働者のソウルフードだと譲らない。ベルリンには記念プレートが、ハンブルクには架空の発明者を称える銘板が、ルール地方には地元愛を歌った一曲があり、この論争の決着は見えそうにない。とはいえ、こうした正解のない論争が続くのは、それだけ多くの街がこの味を愛している証拠にほかならないだろう。

 

魅力ある英国の城へいざ参らん! 夏の古城探訪

魅力ある英国の城へいざ参らん! 夏の古城探訪

英国には石造りの堅牢な城が数えきれないほどあり、かつては戦いの場として、また権力者の住居として長年活用されてきた。現在もその多くが残され、一般客が気軽に訪れることができるようになっている。英国の城にはどのような歴史があるのだろうか。今回はイングランド地域を中心に、この夏に訪れてみたい英国の城を紹介する。夏空の下、悠然とたたずむ姿はきっと心に深く刻まれる良い思い出になるはずだ。
(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.english-heritage.org.ukwww.britannica.comほか

エイヴォン川から見るウォーリック城エイヴォン川から見るウォーリック城

城、マナーハウス、宮殿の違い

英国における「城」は設立された時代やそのスタイルは実にさまざまで、これから解説する定義の中間に位置する建物も多く存在する。混在しがちなこれらの言葉は、「オックスフォード学習者辞典」では以下のような定義になっている。

● 城 Castle
過去に国王や女王、そのほかの重要人物が、攻撃から身を守るために建てた分厚く高い壁と塔を持つ大きくて頑丈な建物

● マナー・ハウス Manor House
所有地の中にある大きなカントリー・ハウス

● 宮殿 Palace
国王、女王、大統領などの公式の住居

「城」は主に「戦闘に備えたもの」として定義され、アングロ・ノルマン語および古北フランス語を起源とする後期古英語で「村」を意味する「カステル」(Castel)に由来する。戦いの少ない平和な時代に村は要塞の外側へ拡張し、その結果元々の中心部のみが要塞化された形で現在まで残っている。その後、英語の変遷により、村そのものや要塞化された部分を表す「Castle」という言葉が誕生した。なお、現代の英国では、地域によってCastleを「カッスル」または「キャッスル」と発音する。

要塞から邸宅へ

当初、城は何よりも「戦うための建物」だった。厚い石壁や深い堀は敵の侵攻を防ぐためのものであり、居住性や美観は二の次。城主といえども、その暮らしは決して快適なものではなかった。しかし武器や戦術の進化により、石造りの城壁が絶対的な防御手段ではなくなっていくと、城の存在意義そのものが問われるようになる。

やがて戦闘の場としての役割を終えた城は、貴族たちの「見せるための住まい」へと姿を変えていく。豪華絢爛な仕様への改修が盛んに行われ、快適な居住空間や美しい庭園が整備された一方、改修の手が入らなかった城は質素なまま、あるいは廃墟として残された。現在、城の見た目にこれほどのばらつきがあるのはこのためだ。用途や外観がどれほど変わろうとも、人々はその建物を「城」と呼び続けた。要塞として、邸宅として、時には監獄として。「城」という言葉は、時代ごとに異なる役割を担いながら今日まで受け継がれてきた。

どこを見ても古城だらけ 英国の城の歴史

今でこそ観光地となっている城だが、かつてはたくさんの血が流れた戦の拠点だった。おびたたしい犠牲の上に現在の平和な歴史が成り立っていることを理解しつつ、現在までの城の歴史を簡単に振り返ってみよう。

スコットランドのアバディーンシャーにあるクレイギーヴァー城スコットランドのアバディーンシャーにあるクレイギーヴァー城(Craigievar Castle)。ピンク色のメルヘンな外壁はディズニーの作品作りにも影響を与えたといわれている

敵に打ち勝つための三つの様式

現在の英国の城の基礎は、1066年にノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム征服王)がウェセックス朝イングランド王国に対して軍事遠征を行ったノルマン・コンクエストによって、英国にもたらされたものだった。同地に住んでいたアングロ・サクソン人は、ウィリアム征服王、つまりノルマン人によって征服されたことを屈辱的に思い、たびたび反乱を起こすようになる。そこで、征服した領土の特に攻め入られそうな場所に、①モット&ベイリー様式の城を建設。11〜12世紀にかけて約1200の城が次々と建てられていったが、次第により強固な城にするために材料が木材から石材に変わり、②ストーン・キープ様式の城が登場。この時期に、ウェールズ大公サウェリン・アプ・グリフィズが戦いの末屈服し、同地のほぼ全土を征服したエドワード1世(在位1272~1307年)が、カーナーヴォン城、コンウィ城、ハーレック城などを建設した。中世後期になると、①、②とは異なる同心円状に城壁が広がる③コンセンリック様式が主流に。この形式は昔から存在はしていたが、12〜13世紀を中心に大きく発展した。一方、スコットランドの多くの城は、1286年にスコットランド王アレグザンダー3世の死後、それまでの巨大なものから5~6階建ての四角いタワー・ハウスと呼ばれる独自の様式に移っていった。

発展と衰退を繰り返す城

14世紀ごろまではより洗練された城の建築が盛んに行われていたものの、15世紀には戦闘・防衛目的で維持された城はほんのわずかとなり、一部の状態の良いものは貴族たちの宮殿として活用されるなど、城を持て余す時代に突入する。しかし14世紀末から15世紀の百年戦争の時代に火薬で砲弾を飛ばす初期のタイプの大砲が登場。15世紀にその改良版が欧州にも紹介されたため、海岸に造られた城の防御を再び固めたが、これも大して行われないままあっさりと終息。そして数々の内戦や、第一、第二次世界大戦に一部の城が利用されたが、次第に軍事的な目的での利用はほとんどなくなっていった。一方、18世紀ごろからそれらを後世に残そうとする文化的な保護活動が活発に。こうして役目を終えたラッキーな城だけが運よく現代まで残ったのだ。

初期の城の基本スタイル

1 モット&ベイリー様式
Motte and Bailey Castles

クリフォーズ・タワー(Clifford's Tower)英北部ヨークにあるクリフォーズ・タワー(Clifford's Tower)は、1068年に木造の天守閣が造られ、13世紀に現在の石造りのものになった

モットと呼ばれる土で盛った3〜30メートルほどの丘の上に、天守閣(Wooden Fort)を持つ形式。モットから見下ろす場所にはベイリー(Bailey)と呼ばれる広い中庭があり、厩舎や兵舎、食堂、作業場、マーケットなどが設けられ、周辺地域に経済的な効果をもたらした。このエリアを囲むように木の柵が、その外側には水路または深い堀が設けられていたため、一つの門(Gateway)からしか攻め入ることはできず、そこには跳ね橋がかけられていたため、必要に応じて上げ下げしていた。数カ月あれば建設できるものの、木材のため火に弱いのが欠点だった。

2 ストーン・キープ様式
Stone Keep Castles

ノリッジ城(Norwich Castle)現在のイングランド東部のノリッジ城(Norwich Castle)の天守閣は1094〜1121年に建造。近年の調査で、アングロサクソン人の墓の上にベイリーが造られたことが分かった

木材を使用する①の様式を石に変換したもので、長方形または貝殻天守(Shell Keeps)と呼ばれる円状の天守があり、寝室やキッチンなどさまざまな部屋を備えていた。石は耐火性と耐久性に優れた素材であったものの、農民の労働力でできた木造の要塞とは異なり熟練した職人を必要としたため建設には数年がかかり、その建設費用も莫大だった。そのため石造りの城は領主や王にとって権力を誇示できる意味合いもあったという。最大7メートルの分厚い外壁を有する城もあり、大砲などの強力な兵器が発明されるまで、突破することはほぼ不可能だった。

3 コンセンリック様式
Concentric Castles

ケルフィリー城(Caerphilly Castle)ウェールズのケルフィリー城(Caerphilly Castle)は、エドワード1世ではなく同地一体の領主であったノルマン人のギルバート・ド・クレアによって築城された

要所に塔が付随するカーテン・ウォール(Curtain Wall)と呼ばれる長く分厚い複数の壁に囲まれた城で、①、②よりもはるかに大規模。内側から同心円状に広がるように造られていた。同様式の典型的な城は、天守閣が独立せずに壁の一部に組み込まれ、内側の壁は外側よりも高く造られており、外壁を突破した敵兵を上から撃ち落としたり、その規模から投石器のような大きな兵器を使用したりすることもできた。建設費は②をはるかに凌ぐもので、エドワード1世のような一国の王などごく限られた人物だけが造ることができた鉄壁の城だった。

編集部が独断と偏見で選ぶイングランドで訪れるべき城

イングランドだけでも4000を超える城が残っており、そのどれもが興味深い歴史を持つが、その中で気になる城を選んだ。実際に訪れる際は、ぜひ各ウェブサイトで歴史を読んでから行ってみてほしい。

現代でいう最新のデザイナー建築だった Tattershall Castle
タターズホール城

タターズホール城

1231年、ロバート・デ・テートシェールによって築かれた石造りの城(マナー・ハウス)を、1419年に相続した第3代ラルフ・デ・クロムウェル卿は、後にその城を拡張した。要塞という城本来の機能を捨て、当時はまだ珍しかった高価な赤レンガを使った美観重視の全面的な改修を行うことを決める。フランダース地方からわざわざ職人を呼び寄せ、煙突はゴシック様式など他に類を見ない瀟洒な外観となった。加えて新しい溝を掘らせ、既存のものと合わせ二重の堀を整備。これは一応城の防衛の役目も果たしていたものの、美しい城を長い時間をかけて見てほしいと、訪問者を必要以上に歩かせるためだったとか。

Tattershall Castle
Sleaford Road, Tattershall, Lincolnshire LN4 4LR
ロンドンのKings Cross駅からPeterborough駅で乗り換え、Ruskington駅まで約1時間55分、同駅からタクシーで約20分。
www.nationaltrust.org.uk/visit/nottinghamshire-lincolnshire/tattershall-castle

雑すぎ怖すぎ捕まえすぎ Warwick Castle
ウォーリック城

ウォーリック城

914年にはすでに木造の砦が建設されていたイングランドの中でもかなりの歴史のある城。1068年に現在の基となった城を建てる際、敷地面積を拡大した都合で民家4軒を破壊した。刑務所として使われた時期もあったことから幽霊が出ることでも有名で、建物内を大股で歩く音やうめき声、金属製のドアから外を眺める看守の黄色い目が見えたなど、今も目撃証言が絶えない。また、かつて地下牢には第16代ウォーリック伯のリチャード・ネヴィルによってエドワード4世が捕らえられていたが、後に釈放、ネヴィルは4世が率いる軍に押され、バーネットの戦いで亡くなった。恨みを買いそうなことだらけの同城の現在の所有者は、ろう人形館マダム・タッソーを運営するエンターテインメント会社だというから驚きだ。

Warwick Castle
Warwick, Warwickshire CV34 6AH
ロンドンのMarylebone駅からWarwick駅まで約1時間30分、同駅から徒歩で約15分。
www.warwick-castle.com

家族のために建てた愛あふれる住まい Bodiam Castle
ボディアム城

ボディアム城

エドワード3世に仕えたエドワード・ダリングリッジ卿によって百年戦争の最中の1385年に建てられた。ボディアムの邸宅を所有していた富裕層のワルドゥ家の相続人のエリザベスと結婚し、当初は騎士時代に貯めたお金を使って家族のために邸宅を建てる予定だったが、仏軍の侵攻を危惧し急遽城に変更。イングランドの多くの城が異なる所有者によって数世紀かけて築城されたのに対し、ボディアム城はダリングリッジ卿によって一時に建てられたため、城のデザインは細部まで統一されている。庭園もあり大変心地の良い場所で、お堀の中にたたずむ姿は他に例を見ない美しさだ。しかしながら、約30の下水が堀に直接放出され、その匂いは相当なものだったそう。

Bodiam Castle
Bodiam, near Robertsbridge, East Sussex TN32 5UA
ロンドンのCharing Cross駅からBattle駅まで約1時間30分、同駅からタクシーで約20分。
www.nationaltrust.org.uk/visit/sussex/bodiamcastle

「イングランドへの鍵」と呼ばれた要塞 Dover Castle
ドーヴァー城

ドーヴァー城

かつて「イングランドを制するならドーヴァー城を」といわれたほど鉄壁な城で、海から渡ってくる敵をことごとく打ち落とす要塞として第2次世界大戦まで使われた。その礎は鉄器時代(紀元前500~332年)にも遡る。海岸沿いという立地から、群を抜いて歴戦を経験しており、ナポレオン戦争(1803~15年)では駐屯地となり、崖の頂上から約15メートル下に軍隊を収容するためのトンネルが掘られた。このトンネルはその後1世紀以上放置されるが、第2次世界大戦が始まると、防空壕、軍事病院、また極秘司令センターとして再び機能。ダンケルクの戦いで行われたダイナモ作戦もここから発令された。現在公開されているトンネルは「アネックス」と「ケースメイト」の2本だ。

Dover Castle
Castle Hill, Dover, Kent CT16 1HU
ロンドンのSt Pancras駅からDover Priory駅まで約1時間10分。駅からバスか、徒歩で25分。
www.english-heritage.org.uk/visit/places/dover-castle

内戦に巻き込まれた悲劇の城 Corfe Castle
コーフ城

コーフ城

モットの上にそびえ立ち、眼下に町を見下ろすコーフ城は、ウィリアム征服王によって1066年ごろに建てられ、刑務所として、また王冠を保管する王城として使われていた。栄華を極めた時代もあったもののイングランド内戦(1642〜51年)で議会派の円頂党(Roundheads)によってその大部分が破壊され、現在はひどく荒れている。地盤を爆破され大きくずれ込んだ南西の門楼もそのままだ。そんな歴史はお構いなしに破壊された石を持ち帰って家を建てた村人も多くいた。城にはレイブンの巣があり、鳥が去れば城は崩壊するといわれている。また、同地は青銅器時代の遺体や装飾品が多く埋葬されているため、敷地内での金属探知機の使用を禁止している。

Corfe Castle
The Square, Corfe Castle, Wareham, Dorset BH20 5EZ
ロンドンのWaterloo駅からWareham駅まで約2時間20分、同駅からバスで約15分。
www.nationaltrust.org.uk/visit/dorset/corfe-castle

数世紀前からとっくに廃墟だった Restormel Castle
レストーメル城

レストーメル城

イングランド南西部のコーンウォールにある廃墟で、12世紀ごろに最初の城が建ち、13世紀後半に現在に見られる円形の城が完成した。このデザインはヘンリー3世の甥のエドマンドによる立案とされており、城を「ミニチュアの宮殿」に変えるべく、狩猟施設や庭園、静寂を求める人のための隠れ家を整備。以降、城主が代わるごとにさまざまな修繕が行われたが、いずれも公園の維持費に多くのお金を使い、引き続き狩猟を楽しんでいたようだ。16世紀にはほぼ廃墟となったが、人々はそれを過去の遺産として朽ち果てていく様子を眺め、18世紀には人為的に緑を増やした。1920年代にようやく保護へ動き出し、部分的に復元され、現在のような姿に生まれ変わった。

Restormel Castle
Off Restormel Road, Lostwithiel, Cornwall PL22 0EE
ロンドンのPaddington駅からPlymouth駅で乗り換え、Lostwithiel駅まで約4時間、同駅から徒歩で約30分。
www.english-heritage.org.uk/visit/places/restormel-castle

文学オタクが叶えた夢 Tintagel Castle
ティンタジェル城

ティンタジェル城

夏になると大変にぎわう、イングランド南西部のコーンウォール北部ティンタジェル半島にある城。初代コーンウォール伯リチャード(1209〜72年)は、所有していた三つの邸宅を同半島を含む小さな土地と交換し、本島側に外郭を、岬側に大広間と部屋のある内郭を造った。リチャードは12世紀に出されたキリスト教聖職者ジェフリー・オブ・モンマスの物語「ブリタニア列王史」(Historiae Regum Britanniae)に出てくるアーサー王の伝説、とりわけ物語の舞台になるティンタジェルに強く心をひかれ、物語の一部を再現してみせたのだ。しかしやはり場所が悪く、建築から数十年と経たないうちに城は荒廃してしまった。

Tintagel Castle
Castle Road, Tintagel PL34 0HE
ロンドンのPaddington駅からBodmin Parkway駅まで約3時間50分、同駅からバスで約1時間30分〜2時間。途中バスを乗り継ぐので、事前に時刻表を確認しよう。
www.english-heritage.org.uk/visit/places/tintagel-castle

匠の意匠で美しく生まれ変わった Lindisfarne Castle
リンディスファーン城

リンディスファーン城

宗教改革によりリンディスファーン修道院が失われたが、現在も巡礼者が絶えないイングランド北部のホーリー島にある城。16世紀に築城、18世紀までは数々の王に管理されてきた。1901年、当時「カントリー・ライフ」誌のオーナーだったエドワード・ハドソンが賃貸物件となっていたこの城を借り、ニューデリーの都市計画を担当した英建築家エドワード・ラッチェンスと、自生植物を生かす女性造園家のガートルード・ジーキルに改修を依頼。内装はアーツ・アンド・クラフツ様式に、庭はたくさんの花で埋め尽くされた。

Lindisfarne Castle
Holy Island, Berwick-upon-Tweed, Northumberland TD15 2SH ロンドンのKings Cross駅からBerwick-upon-Tweed駅まで約3時間40分、同駅からタクシーかバスで約15分。満潮時にはたどり着けないので、National Trustの開館時間を見つつ、www.tidetimes.org.uk/holy-island-tide-times を使って潮の満ち引きを確認しよう。
www.nationaltrust.org.uk/visit/north-east/lindisfarne-castle

スコットランド、ウェールズ、北アイルランドで訪れるべき城

英国全土に点在する城も、地域が異なればまたその特徴も少々異なってくる。こちらも独断と偏見で選んでみた。

スコットランド おとぎ話の世界観 Dunrobin Castle
ダンロビン城

ダンロビン城

13世紀以来、スコットランド貴族のサザーランド伯爵と氏族の本拠地で、インヴァネスから車で北に約1時間の場所にある。城は長い年月をかけて拡張を繰り返し、現在の建物は1835〜50年に建築家チャールズ・バリー卿によって、中世後期~ 近世初期のスコットランドの建築様式と装飾を復活させたゴシック・リバイバル建築「スコットランド男爵」(Scottish baronial)様式に改修されたもの。円錐形の屋根や小さな塔を指すトゥーレルなど、まるでおとぎ話の世界のような雰囲気を醸し出している。

Dunrobin Castle
Golspie, Sutherland KW10 6SF
www.dunrobincastle.co.uk

スコットランド パノラマ写真で収めたい Eilean Donan Castle
アイリーン・ドナン城

アイリーン・ドナン城

13世紀に建てられ、大自然の中にたたずむハイランド地方特有の雄大さが感じられる城。1719年のジャコバイト蜂起によって英海軍による徹底的な集中砲火にあい、以後200年余り放置され、荒涼とした廃墟になった。現在見られる城は、英陸軍将校のジョン・マクレー・ギルストラップ中佐が1911年にこの島を購入し、再建したもの。現存していた城の初期の平面図に従って、20年以上の歳月を費やした再建工事が1932年7月に終了した。99年の映画「007 ワールド・イズ・ノット・イナフ」のロケ地にもなっている。

Eilean Donan Castle
Dornie by Kyle of Lochalsh IV40 8DX
www.eileandonancastle.com

ウェールズ 世界遺産に登録された Caernarfon Castle
カーナーヴォン城

カーナーヴォン城

1283年にウェールズを征服したエドワード1世によって、ウェールズ一帯に造られた城の一つ。ウェールズ人の統制を目的としたこれらの一連の要塞を「鉄の指輪」と呼ぶが、その中でも最強とうたわれ、莫大な建築費がかかった城だ。カーテン・ウォールに組み込まれた12の八角形の塔のデザインは、コンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブール)を想起させるために選ばれたデザインと考えられている。この城はグウィネズのエドワード1世の城郭と市壁として、ユネスコの世界遺産に登録されている。

Caernarfon Castle
Castle Ditch, Caernarfon LL55 2AY
https://cadw.gov.wales/visit/places-to-visit/caernarfon-castle

ウェールズ 柔らかな赤砂岩の流麗な城 Powis Castle and Garden
ポウィス城 & ガーデン

ポウィス城 & ガーデン

13世紀にできた城で、当時エドワード1世がウェールズを支配する目的で次々に築城していたのに対し、ポウィス城はウェールズの王子、グリフィズ・アプ・グウェンウィンによって王朝の本拠地として建てられた。有名なのは庭園で、1680年代に初代ポウィス侯爵ウィリアム・ハーバートが一連のテラスと芝生の斜面を造らせた。以降イタリア、オランダの水庭、自然主義的な様式など、そのときどきの流行によって庭園を変え、現在はバロック様式で落ち着いている。

Powis Castle and Garden
Powis Castle and Garden, Welshpool SY21 8RF
www.nationaltrust.org.uk/visit/wales/powis-castle-and-garden

北アイルランド 中世にできた石畳を歩こう Dunluce Castle
ダンルース城

ダンルース城

玄武岩でできた崖の上にあり、急峻な道に囲まれた城で、1500年ごろにマクキラン家によってアントリム北部の崖に建てられた。その後マクドネル一族によって占有されたが、17世紀にはアントリム伯爵家の本拠地になり、1608年には近隣に町が形成された。近年では、ファンタジー・ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」に、グレイジョイ家の本拠地パイクとして描かれたことで話題に。城の近くにはマグヘラクロス展望台(Magheracross Viewing Point)があり、車移動では見られない海岸線を望むことができる。

Dunluce Castle
87 Dunluce Road, Bushmills, Antrim BT57 8UY
https://discovernorthernireland.com/things-to-do/dunluce-castle-p675011

北アイルランド 同じ名前なのに違う立地!? Belfast Castle
ベルファスト城

ベルファスト城

現在のヴィクトリアン様式の城は1867〜70年にかけて造られたが、ここに建てられる前にも同じ名前の城が存在していた。一つ目は12世紀後半に、二つ目は1611年にベルファスト男爵アーサー・チチェスター卿によって石と木材で一つ目と同じ場所に築城された。約100年後、火事によって二つ目の城は焼失。三つ目に当たる現在の城は、市内北部の丘(Cavehill Country Park)の斜面にある。以前と全く違う場所なのに同じベルファスト城として、現在はカフェやイベント会場がある複合施設として開放している。

Belfast Castle
Antrim Road, Belfast BT15 5GR www.belfastcastle.co.uk

ラグジュアリー体験間違いなし!古城ホテルに泊まろう

古城ホテル Hever Castle

かつての城をB&Bやホテルとして改修し、宿泊施設として開放している城もたくさんある。贅沢なステイを楽しみたい人へ向けた人気の物件となっており、なかには11世紀に建てられた城もある。もちろん水回りや部屋はきちんと整備されているのでご安心を。13世紀に建築され、エリザベス1世の母、アン・ブーリンが幼少期を過ごした「ヒーバー・キャッスル・ラグジュアリー・ベッド&ブレックファスト」なら安い時期は豪華な朝食付きで1泊200ポンド(約4万3000円)もかからず、美しい庭園も散策できる優雅な1日が約束される。日常の喧騒から離れたい人にぜひお勧めだ。

Hever Castle Luxury Bed and Breakfast
www.hevercastle.co.uk

あなたも城主になれる!?城が売り出される英国の不動産

タブロイド紙では、しばしば「この城が〇〇ポンドで売り出し」といった見出しのニュースを見掛けることが多い。英国では城が不動産市場に出ることは珍しいことではなく、むしろ「カントリー・ハウス部門」を設けている不動産会社まであるほどだ。売り出し価格はさておき、サイトを覗けばかなりの確率で城の売り出し広告を見ることができる。売買される城の多くは、たいてい特定の家族の邸宅として建てられているため、城に関する良好な記録が比較的残っており、それを通じて買い手もその城の歴史や価値を知ることができる。維持費が大変なのは確実だが、いわゆる「欧州らしい」城を求めて、国際市場を中心に人気があるようだ。

古城ホテル Hever Castle11ベッドルーム、12バスルームで300万ポンド(約6億4000万円)で売られている城の広告

 

エコ・ポピュリズムを掲げる英国の緑の党とは

エコ・ポピュリズムを掲げる 英国の緑の党とは

英国でイングランド・ウェールズ緑の党(Green Party of England and Wales 以下、緑の党)が、地方選での躍進を追い風に存在感を強めている。異色の経歴を持つザック・ポランスキー党首は、気候危機に加えて生活費や公共サービスを前面に出し、支持の裾野を広げた。一方で、急成長に伴う党運営の課題や、欧州大陸の緑の党とは異なる路線も浮かび上がる。この特集では英国の緑の党の躍進と、その背景にある変化に焦点を当てた。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

ゾーイ・ガーベット氏が当選し、同氏の両親と喜びを分かち合う、ポランスキー党首ロンドン東部ハックニー区長選挙でゾーイ・ガーベット氏が当選し、同氏の両親と喜びを分かち合う、ポランスキー党首(写真中央左)

参考: https://greenparty.org.ukhttps://yougov.comwww.bbc.co.ukwww.jiji.comほか

英国の緑の党とは

2025年9月、緑の党の党首選が行われた時点で、同党の党員数は約6万8000人、下院議席はわずか4議席。環境問題への関心の高まりにもかかわらず、英国政治において緑の党はなお周縁的な存在と見なされることが多かった。

しかし、それから8カ月後の26年5月7日に行われた地方選挙と地方議会選挙で、緑の党は党史上最高の結果を記録。ロンドン東部のハックニーと南東部のルイシャムで史上初となる公選市長を獲得し、北東部のウォルサム・フォレストを含む複数の自治体で主導権を握った。さらに英中部のノリッジとヘイスティングでは議会の過半数を確保し、北部のマンチェスター、シェフィールド、リーズに加え、中部のオックスフォードや南西部のエクセターでも議席を大きく伸ばした。

この躍進はイングランドにとどまらなかった。ウェールズでは、イングランド・ウェールズ緑の党の自治部門として活動するウェールズ緑の党(Wales Green Party)が、セネッド(Senedd)で史上初となる2議席を獲得した。スコットランドでは、独立した組織であるスコットランド緑の党(Scottish Green Party)が、エディンバラとグラスゴーで初めて選挙区議席を獲得。英国全体での推計得票率は18パーセントに達し、労働党と保守党をともに上回った。かつては一部の環境意識の高い有権者に支持される小政党と見なされていた緑の党は、この選挙を境に、気候変動対策や社会的不平等の是正を掲げる全国政党として、英国政治の新たな対立軸を担う存在として広く認識されるようになったといえる。ポランスキー党首は「二大政党政治は死んだ。新しい政治は緑の党対リフォームUKだ」と宣言した。

ポランスキー党首(写真左)、与党労働党のスターマー党首(同中央)、リフォームUKのファラージ党首(同右)。ポランスキー党首(写真左)、与党労働党のスターマー党首(同中央)、リフォームUKのファラージ党首(同右)。5月7日の地方選で議席が大変動した

緑の党の歩み

  • 1973PEOPLE党
    現在のイングランド・ウェールズ緑の党の前身として結成
  • 1975環境党(Ecology Party)
    環境問題を前面に掲げる政党として改称
  • 1985緑の党(Green Party)
    「グリーン」の理念を明確に打ち出す名称へ変更
  • 1990イングランド・ウェールズ緑の党
    (Green Party of England and Wales)

    現在の党名に改称

※欧州規模では欧州緑の党(European Green Party)の、世界規模では グローバル・グリーンズ(Global Greens)のメンバー

※スコットランド緑の党(Scottish Green Party)と 北アイルランド緑の党(Green Party Northern Ireland)はそれぞれ独立した組織であり、英国全国を単一の組織としてカバーする緑の党は存在しない

緑の党の立役者ザック・ポランスキー党首 Zack Polanski

ザック・ポランスキー党首ザック・ポランスキー党首

2025年9月に党首に就いたザック・ポランスキー氏は、緑の党の知名度を大きく押し上げた人物として注目されている。気候変動や自然保護を前面に掲げてきた同党は近年、生活費危機、住宅、公共サービス、移民や人権といった論点でも支持を広げてきた。ポランスキー党首はこうした政策を「エコ・ポピュリズム」というキャッチーな言葉で打ち出し、複雑な問題を「分かりやすい敵」と「分かりやすい希望」の構図に置き換えて発信してきた。

その結果、支持はとりわけ若い世代に広がり、党員数は25年9月時点の約6万8000人から、26年春には23万人以上へと急増。労働党と保守党への不満の受け皿ともなり、5月7日の地方選での躍進は、緑の党が環境問題に特化した政党 から、都市部を中心に支持を集める「第三極」へと変貌しつつあることを印象づけた。ここでは、その変化を象徴するキーパーソンであるポランスキー党首の横顔を見てみよう。

セルフ・ブランディングを確立

1982年、英北部サルフォード生まれ。本名はデービッド・ポールデン(David Paulden)。祖父はポーランドでナチスの迫害を逃れた際、反ユダヤ主義から身を守るために姓を英語風に変えていたが、ポランスキー氏は18歳のとき、その姓を元の「Polanski」に戻し、同時に「ザック」と名乗り始めた。また、10代で自身が同性愛者であることを自覚したという。ウェールズのアべリストウィス大学(Aberystwyth University)で演劇を学び、政治に目覚めたのは2005年の米アトランタ留学時。ロンドンに戻り俳優として生計を立てながらブラジルの演出家アウグスト・ボアール(Augusto Boal)が提唱した「被抑圧者の演劇」(Theatre of the Oppressed)に出会った。これは社会においてさまざまな抑圧を被る人間が、演劇を通じて自らの声を発見し表現するためのメソッドといわれている。本人は、若年期の周縁化の経験が少数者の権利や差別への問題意識につながったと説明してきた。緑の党が掲げる多様性や人権の訴えと重なり、発信の説得力を補強している面がある。

ビラ配り、バーテンダー、家庭教師、催眠療法士

当初は既成政党への関心は薄かったものの、小選挙区制(First Past the Post)を比例代表制に変える政策に共感し、2011年に自由民主党(Liberal Democrats)に入党。その後、当時の緑の党党首ナタリー・ベネット氏(Natalie Bennett)と知り合い、17年に緑の党へ移った。この間の生計を立てるための仕事は多彩で、ナイトクラブのビラ配り、バーテンダー、家庭教師、そして催眠療法士としても働いた。催眠療法士としての過去は今も尾を引く。13年に「サン」紙の記者から「催眠術で女性の胸を大きくしてほしい」と頼まれ、その「施術」を行った記事が掘り起こされるなどした。「タイムズ」紙も、催眠療法士資格の虚偽申告疑惑に加え、英国赤十字のアンバサダーを名乗っていた問題を報じた。赤十字側は「そのような役職はなかった」と否定。ポランスキー氏はBBCの取材に対し、資金集めのイベントで活動を紹介した経験はあるものの、「アンバサダー」という表現を用いたのは誤りだったと認めている。

反ユダヤ主義問題

5月6日の地方選直前に、緑の党の候補者のうち約30人が反ユダヤ的投稿を理由に調査対象となった。また、ポランスキー氏自身も4月29日のロンドン北部ゴールダーズ・グリーンでの刃傷事件の直後に、逮捕した警官を批判するツイートを拡散して謝罪に追い込まれた。ポランスキー氏はBBCに対し全候補者への義務的トレーニングと標準化された調査プロセスを導入すると語っている。また「反ユダヤ主義は社会と同様に緑の党でも完全に歓迎されない」と強調した。

ユダヤ人指導者や他党の政治家、ロンドン警視庁のトップらは、ポランスキー氏が十分な対応を取っておらず、英国でユダヤ人への暴力が急増する中で反ユダヤ的感情を煽るリスクがあると警告している一方、緑の党はコービン時代の労働党と同様に、パレスチナ支持の左派を弱体化させるために反ユダヤ主義のレッテルを意図的に貼られているとする擁護の声もある。ポランスキー自身がユダヤ人であることから、「パレスチナ人のために声を上げるのは、ユダヤ人としてのアイデンティティーゆえ」とも語る。

エコ・ポピュリズムを標ぼう

ポランスキー氏は党首選キャンペーン中、有権者の感情に訴えかける大規模な「エコ・ポピュリズム」運動を約束した。BBCによると、そのアプローチの鍵となるのは、ポランスキー氏が右派ポピュリスト政党のリフォームUK党首ナイジェル・ファラージ氏の「ストーリーテリング」能力を高く評価している点だ。ポランスキー氏はBBCのニュース番組「ニュースナイト」で、同じ手法を活用して、リフォームUKとは異なるメッセージを送ることができると語っている。

政治における「ストーリーテリング」とは、データや政策の羅列ではなく、感情に訴える物語の構造で有権者に語りかける技法のこと。例えば、「エリートvs普通の人々」「ウェストミンスターvs地方」など明確な「敵役」と「被害者」を設定したり、リフォームUKでいえば「移民が仕事を奪っている」など、複雑な問題をシンプルな物語に落とし込んだりする方法だ。この手法はそもそも扇動的で分断的な要素があり危険ともいえるが、緑の党は「国民の怒りと向き合い、それを希望に変え、解決策へと転換しなければならない」と述べている。気候危機と不平等を結びつけ、不公平な制度を是正するためには抜本的な行動が必要だと訴える。

ゴートン&デントン補欠選挙

26年2月にマンチェスター北東部ゴートン&デントン選挙区の下院議員補欠選挙で、伝統的な労働党の牙城である同選挙区を奪取した。緑の党のハンナ・スペンサー氏が40.7パーセントの得票率、4402票差で勝利。緑の党にとって初の補欠選挙での勝利であり、かつ補欠選挙での最高得票率を30ポイント以上上回る歴史的な結果だった。英国北部で初の緑の党議員誕生となり、同党が英南部の中産階級だけでなく、北部の労働者階級の地盤にも食い込めることを示した。ポランスキー氏は「最初から、リフォームUKを倒せる唯一の党は緑の党だと言ってきた。我々は失望させるためではなく、労働党に取って代わるためにここに来た」とコメント。

ちなみに、労働党の政治家でマンチェスター市長のアンディ・バーナム氏が候補として名乗りを上げたが、労働党規則により全国執行委員会(NEC)の許可が必要であったところ、「市長補選が5月の統一地方選と重なる」などとしてNECが出馬を拒否。これが大きな批判を呼んだことは記憶に新しい。

数字で見る緑の党の躍進

全国累計議席数

緑の党は「環境だけの党」ではなくなった

かつて緑の党を支持する最大の理由は、気候変動や環境政策だった。しかし2026年の調査では、「環境政策が最も魅力的」と答えた人は22パーセントにとどまり、1年前の49パーセントから半減した。代わって増えたのが、環境以外の政策や価値観への共感だ。住宅、生活費、公共サービス、経済政策、人権などを含む「より広い政策全般」を支持理由に挙げた人は38パーセントに達した。

支持層は「環境派」から「左派の受け皿」へ

調査会社YouGovは、緑の党が単一争点の政党ではなく、より一般的な左派政党として認識されつつあると分析している。支持者は環境政策だけでなく、「既成政治に代わる進歩的な選択肢」として緑の党を見ている。

  • 10% 「左派であること」自体が最大の魅力
  • 8% 自分の価値観と一致する
  • 16% 既存政党とは違う新しい選択肢
  • 6% 普通の人々を代表している

ザック・ポランスキー効果

25年9月に党首に就任したザック・ポランスキー氏の存在も大きい。YouGovは、ポランスキー党首のポピュリスト的で分かりやすい語り口が、従来の党首よりも高い注目を集めたと指摘している。ただし新しい層を大量に開拓したというより、もともと緑の党を選択肢として考えていた人々を、実際の投票へと押し出したことが重要だと分析する。

  • 緑の党への投票を「検討する」と答えた人 28%
  • 党首就任前の25〜26%からの増加は小幅。
    一方、実際の投票意向は11%から19%へ上昇

「死票」への不安が弱まった

緑の党に対する最大の懸念は依然として「どうせ勝てない」という見方である。今回も36パーセントが最大の不安として挙げた。ただし1年前の50パーセントから大きく低下。また、「全く不安はない」と答えた人は16パーセントで、前年の9パーセントから増加した。特に2024年に労働党に投票した層では、緑の党への投票は「死票になる」が59パーセントから25パーセントへ減少する変化が見られた。

支持層の中心 - 若者・女性・高学歴

YouGovの別調査によれば、緑の党の支持層には次のような特徴がある。

緑の党の支持層

緑の党の支持拡大は、環境政党としての魅力が強まったからではなく、「生活費」「経済」「公共サービス」「価値観」を含む総合的な左派政党として受け止められるようになったからである。これは、ポランスキー氏が掲げるエコ・ポピュリズムが、環境政策を一般の暮らしの問題と結びつけることに成功していることを示している。緑の党の支持層は上の図のような人々が中心だが、環境意識の高い少数派の政党というイメージを脱却し、労働党に失望した進歩派有権者の現実的な選択肢になりつつある。

英国緑の党の主要政策

経済・財政

  • 富裕税の導入
  • 水道・エネルギー
  • 鉄道の国有化
  • ユニバーサル・ベーシックインカムの導入
  • 大学授業料の廃止

住宅

  • 家賃規制の導入
  • 地主制度の廃止
  • 社会住宅・公営住宅の大幅増設

社会・権利

  • 全薬物および売春の非犯罪化
  • ジェンダー認定の簡素化
  • LGBT権利の拡充

外交・安全保障

  • NATO脱退
  • 米国よりも欧州諸国との連携を重視
  • 核の一方的軍縮

移民・国境

  • 就労・納税希望者は原則として受け入れる
  • 数値目標による移民制限に反対
  • 長期的に国境のない世界を目指す

環境

  • 化石燃料企業への対抗
  • 気候変動対策の強化
    (ただし党の訴求上、環境政策は現在は後景に退いている)

移民・国境

  • 就労・納税希望者は原則として受け入れる
  • 数値目標による移民制限に反対
  • 長期的に国境のない世界を目指す

選挙制度

  • 小選挙区制から比例代表制への移行
  • 上院の廃止

スコットランドとウェールズの緑の党

英国の緑の党は、ポランスキー氏の率いるイングランド・ウェールズ緑の党のほかに、スコットランドとウェールズにそれぞれ独自の緑の党が存在する。

スコットランド スコットランド緑の党(Scottish Greens)

Scottish Greens新しくスコットランド議会議員となったメンバーたち

スコットランド緑の党は1990年、当時の英国全体の緑の党から分離して結成された。2026年5月のスコットランド議会選挙の結果、同党は過去最多となる15議席を獲得した。初めて小選挙区で当選者を出し、ローナ・スレーター氏(Lorna Slater)がエディンバラ中央選挙区で、ホリー・ブルース氏(Holly Bruce)がグラスゴー南側選挙区で当選した。地方自治体レベルでも約30人以上の議員を擁している。

2021年から24年にかけては、スコットランド国民党(SNP)との「ビュート・ハウス協定」に基づき、閣外協力の形で政権運営に参加した。パトリック・ハーヴィー氏(Patrick Harvie)とスレーター氏が副大臣級ポストに就き、廃棄物焼却施設の新設抑制や自然保護政策の推進などに取り組んだ。これは英国の緑の党系政党として初めて本格的に政権の一翼を担った例である。24年4月に当時の首相フムザ・ユーサフ氏(Humza Yousaf)が協定を解消し、現在は野党の立場に戻っている。

ウェールズ ウェールズ緑の党(Wales Green Party)

Scottish Greens党首のアンソニー・スローター氏

ウェールズ緑の党はイングランド・ウェールズ緑の党の一部として機能しており、スコットランドのように完全独立した組織ではない。2018年に独立を問う党員投票が行われたが、65パーセントが反対し、現状維持となった。

党員数はポランスキー氏就任後の追い風を受けて急増し、2026年3月には8000人を超えた。今回から選挙制度が従来の混合制から完全比例代表制(ドント式)に変わり、定数も60から96に増えた。最新の世論調査ではウェールズでの緑の党支持率は10%超と前回の約2倍に達した。これまでウェールズ議会に議席を得たことはなかったが、5月7日の選挙で初の2人の議員がウェールズ議会に選出。その一人であるウェールズ緑の党の党首アンソニー・スローター氏(Anthony Slaughter)は、子ども時代を南アフリカで過ごし、パンク・バンド「ライオット・スクワッドSA」のボーカリストで、反アパルトヘイト活動家として英国に渡ったという経歴を持つ。今回は生活費の削減を目的とした家賃規制の導入を公約に掲げた。

欧州の緑の党

欧州議会の欧州緑の党・欧州自由連盟(Greens/EFA)は2024年選挙で74議席から53議席へと大幅に議席を減らし、その後も低迷が続いた。26年4月の最新試算では39議席とやや持ち直しているものの、19年のピーク時からは大きく後退したままだ。欧州各国の現状を見ていく。

ドイツ ドイツ

ドイツの「同盟90/緑の党」(Bündnis 90/Die Grünen)は欧州最大規模の緑の党だ。2021年から社民党・自由民主党との三党連立に参加し、環境・エネルギー・外務の各省を担ったが、エネルギー危機と生活費高騰の中で有権者の批判を正面から受けた。24年の欧州議会選挙では19年の21議席から12議席へと大幅に議席を減らし、25年2月の連邦議会選挙では11.6%の85議席で野党に転じた。現在の世論調査では13.5パーセントで第三党に位置する。

一方で2026年3月のバーデン=ヴュルテンベルク州議会選挙では、30.2パーセントで最大政党の座を維持するなど、地域によっては依然として強固な支持基盤を持つ。

オーストリア オーストリア

オーストリアの緑の党(Die Grünen)は2019年の選挙で13.9パーセントという過去最高の得票を記録し、中道右派の国民党(ÖVP)と史上初の連立政権を組んだ。環境・気候・インフラ、司法、文化、保健の4閣僚ポストを得た。しかし24年の総選挙では8.2パーセントにとどまり、前回比で約6ポイント減。連立からも外れ、野党の立場に転じた。得票減の背景には、移民・難民問題が気候変動を押しのけて有権者の最大関心事となったことがある。その後、26年5月時点の世論調査では10.4パーセントとやや持ち直しており、ブルゲンラント州では社会民主党との連立政権に加わるなど、地方レベルでの影響力は残っている。なお現大統領のアレクサンダー・ファン・デア・ベレンは緑の党出身であり、党の象徴的な存在感を支えている。

フランス フランス

フランスの「エコロジスト」(Les Écologistes)は欧州の主要国の中では比較的安定した支持基盤を築けていない。2024年の欧州議会選挙では19年の10議席から5議席へと半減。しかしその直後の解散総選挙では、左派連合「新民衆戦線」(NFP)の一翼として議席を増やすなど、単独では弱くとも連合の中では一定の役割を果たしている。

ただし26年に入り、党内は混乱を深めている。1月には急進左派政党「不服従のフランス」(La France Insoumise=LFI)を排除し、社会党との連携を優先する路線に反発し一部の地方の幹部が離党。4月には離党者が新たな運動「緑の民衆」(Les Verts Populaires)を立ち上げた。ターゲットは、これまでの環境政党が弱かった労働者階級が住む郊外や地方だという。

デンマーク デンマーク

社会人民党(Socialistisk Folkeparti=SF)がデンマークにおける緑の左翼(Green Left)を代表する政党。環境保護と左派的な社会政策を重視し、2025年末の地方選挙では国内で17.9パーセントの票を獲得し、首都コペンハーゲンで市長を輩出する躍進を遂げた。同国には赤緑連合(Enhedslisten)と呼ばれる環境主義を掲げた左翼政党連合も存在する。

ノルウェー ノルウェー

ノルウェーでは25年9月の議会選挙で緑の党(MDG=環境党)が4.7パーセントを獲得し、8議席を得た。前回の3議席から倍以上に伸ばした結果だ。現在の世論調査では4.1パーセントと、獲得した議席を維持できる水準で推移している。両国に共通するのは、環境政策を住宅・医療・生活費などの社会政策と一体で訴えるグリーン・ソーシャル路線だ。

 

在外投票をめぐる海外有権者たちの挑戦 - 「投票したいのに投票できない」をゼロに

「投票したいのに投票できない」をゼロに在外投票をめぐる海外有権者たちの挑戦

2026年2月8日、第51回衆議院議員選挙が行われた。戦後最短の選挙期間だったことは記憶に新しい。そうしたなか、X(旧ツイッター)では海外の有権者たちの悲痛な叫びが次々と投稿されていた。「投票期間が4日しかない」「泊まりがけで投票へ」「十分に考える時間がない」……。導入から25年以上がたった在外投票制度に、今一体何が起きているのか。海外有権者ネットワークNY共同代表を務める竹永浩之さんに、詳しくお話を伺った。
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:「海外有権者ネットワーク」公式サイト

在外投票をめぐる海外有権者たちの挑戦

お話を聞いた人
竹永浩之さん 竹永浩之さん
Hiroyuki Takenaga
米国・ニュージャージー在住。海外有権者ネットワークNY共同代表。1990年代の在外投票運動に参加し、現在は在外投票制度のネット投票を求める署名活動を行っている。X(@jovnewyork)で日々情報を発信中。https://jovnet.org

過去最高の投票率の裏に投票できない在外邦人の叫び

今回の衆院選の在外投票率は28.08パーセントと過去最高を記録した。「逆に言えば、たくさんの人が投票にトライしたので、X上でこうした声が多く見られたんだと思います」と話すのは、海外有権者ネットワークNY共同代表の竹永浩之さん。1990年代に在外投票制度実現に向けて活動していた海外有権者ネットワークは、選挙があるごとにX上でつぶやかれた在外投票制度への意見や不満をリストにまとめており、今回は特にその数が多かったという。

なかには、郵送投票のため事前に投票用紙の取り寄せを申請したにもかかわらず、期間があまりにも短かったために投票用紙が届かず、さらには申請のために一時的に預けていた在外選挙人証が手元になく、在外公館での投票も叶わなかったというケースも。「私たちがXで拾った声は氷山の一角。こうした意見は、実際にはもっとあるわけです」と竹永さんは声を曇らす。

終わっていなかった海外有権者ネットワークの使命

そもそも在外投票制度が認められたのは、1998年のこと。93年に細川連立政権が誕生して55年体制が崩れたことをきっかけに、日本国憲法に規定された国民の基本的人権である「選挙権」を在外邦人にも認めることを求めて、ニューヨーク、シドニー、バンコク在住の有権者が署名活動を開始。その活動は世界各国へと広がり、翌年に「海外有権者ネットワーク」が誕生した。国会や関係省庁に署名を提出後、95年には日弁連で人権救済申立て、村山総理(当時)に直接陳情を行い、最終的に国を相手取って違憲訴訟を起こすことになった。訴訟中に公職選挙法が改正され、比例代表選挙のみ在外投票権が認められたが、その後も裁判が続き、2005年に違憲判決が出て小選挙区の在外投票権も勝ち取ったのだった。

竹永さんは当時を振り返って「喜びましたよ。でもあの時の喜びは、今では完全に消えています」と怒りを込めて話す。「海外有権者ネットワークの仕事は、制度ができた時点で一度終わったはずでした。ただ、当時は都市部の在外邦人が中心となって進めていたこともあって、例えば発展途上国などの遠隔地に住んでいる方たちの気持ちや状況が分かっていなかったんです。やがてツイッター(X)ができ、12年の衆院選時に投票できないという遠隔地の人たちの声を知って。自分たちのやるべきことは、まだ終わっていないって思いましたね」。

しかし、かつて共に闘った海外有権者ネットワークのメンバーの多くがすでに亡くなっており、各国にあった海外有権者ネットワークも現在はニューヨークだけが活動を続けている。「勝ち取ったと思っていた権利が、十分なものではなかった。亡くなった人たちに申し訳ないです。だから、みんなで始めた仕事を私が終わらせたいと思っています」と竹永さんは言う。

投票したい人が投票できる在外ネット投票の実現へ

2月の衆院選後、竹永さんは再び署名活動を始めた。「『在外投票できない!』:在外ネット投票の一日も早い導入を求めます」と題されたオンライン署名は、3月末時点で2万筆以上が集まっている。竹永さんは「少なくとも日本の在外投票制度を完成させるにはネット投票の導入しかない」と考えている。

「そもそも日本は世界に比べて選挙期間が短い、そして解散選挙が多い。さらに世界の面積は日本の400倍ありますが、在外公館は233しかありません。在外公館に行けない人のために郵便投票がありますが、選挙期間が短すぎて全く機能していないのです。

それから、今回の衆院選では在外公館で並んだという声を多く聞いています。今回の在外投票率は過去最多とはいえ、海外の有権者およそ105万人のうちわずか10万人ほどしか在外選挙人に登録していないので、実質の投票率は2パーセントほど。これが5パーセントになったとき、果たして在外公館は対応できるのか。これらのことに対応するためには、ネット投票の導入しかないんです。ネット投票が選択肢に加われば、投開票日の前日まで投票できるため、情報がないまま慌てて投票する必要もなくなります」

実は在外ネット投票の導入については18年から総務省の有識者会議で提言され、議連案を作るところまで来ている。竹永さんたち海外有権者ネットワークが在外投票の現状を訴えてきたことが、実を結びつつあるのだ。「不正や技術的な問題についても、少なくとも在外投票ではクリアしていることを専門家も認めています。あとは政治家が決めれば実現できるんです。より早く法案を成立させるために必要なのは、在外邦人の皆さんの声。在外ネット投票の導入を訴えることが、法制化の後押しになります」。

竹永さんの見立てでは、28年までに法案通過を目指し、31年の参議院選挙からの導入が現実的だという。「今回は日本国内でも雪の影響で投票できない人が多くいました。投票したい人が投票できる。これは憲法に定められた原則です。国内外問わず投票できなかった人は声を上げていくべきだと思います」と竹永さん。30年以上在外投票のために闘い続ける竹永さんの言葉は、ごく当たり前の権利を守ることの大切さを思い出させてくれた。

数字で見る在外投票

参考:外務省

在外公館(在外投票所)の数233カ所 ※日本国内の投票所は4万4642カ所

在外公館の投票期間平均4.37日間 ※第51回衆議院議員選挙

在外郵便投票の投票者数246人 ※第50回衆議院議員選挙

 
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