第11回 テンプル騎士団と法廷弁護士
シティの西の境界に、法曹界関連のオフィスがひしめくチャンスリー・レーンがあります。もともと、この通りの北端にはテンプル騎士団が建てた旧テンプル教会がありましたが、この通りの南端に移って新教会を建てるとともに、この道も彼らが開拓しました。当時は「新通り」と呼ばれていましたが、14世紀後半、「チャンスリー」、つまり「大法官」の記録府がこの通りに置かれるようになり、現在の通り名に変わりました。
かつてテンプル騎士団が開拓した
チャンスリー・レーン
さて、テンプル騎士団は、キリスト教の聖地エルサレムの防衛とその巡礼者を保護する為に12世紀初めに組織された修道会で、テンプル騎士団の「テンプル」は「ソロモン神殿」を意味します。清貧を説きながらも、当時先進的だったイスラムの法学、建築、土木、金融のノウハウを取得。多くの寄進や土地の信託で財力を蓄え、シティにはテンプル教会と寄宿舎を建てました。彼らの元には、海外情報や実学の知識と技能が集まっていたのです。
エルサレムの聖墳墓教会を真似してつくられた
新テンプル教会
ところが、フランス王・フィリップ4世が14世紀初め、借金の帳消しを狙ってテンプル騎士団の会員たちを投獄して勢力を殺ぎました。弱体したテンプル騎士団はライバルだった聖ヨハネ騎士団に吸収合併され、シティのテンプル教会と寄宿舎は、英国王家に没収されます。でものちに、法律家養成所としての利用を願う聖ヨハネ騎士団に返却され、現在のインナー・テンプル、ミドル・テンプルという2つの独立した法曹院に発展していきます。
インナー・テンプルの紋章はペガサス
源流が戦士たちの集団ですから、大航海時代にはさぞ、血湧き肉躍ったことでしょう。新大陸初の植民地を築いたのはミドル・テンプル会員のウォルター・ローリーですし、北西航路探検家のマーティン・フロビッシャーも同会員でした。史上2番目に世界一周の航海をしたフランシス・ ドレークはインナー・テンプルの会員で、彼に同行したサミュエル・モリノーが作成した英国最古の地球儀と天球儀は、ミドル・テンプルの図書館にあります。
ミドル・テンプルの紋章は復活祭の羊。
ここで学んだ増島六一郎はミドルの名を拝借して「中央大学」を設立した
16世紀には、当地で裁判官や法廷弁護士になるにはリンカーンズ・インやグレーズ・インと合わせ、これら4つの法曹院のいずれかの会員になることが義務付けられました。以降、シティの西の境界が法曹界の聖地と呼ばれるようになります。法廷弁護士をバリスターと呼ぶのは、法廷と傍聴席を仕切る柵(バー)から由来しますので、法曹界の聖地が金融街シティと政治の中心地ウエストミンスターの境界にあるのは興味深い話です。どちらが傍聴席か分かりませんけれど。