第12回 シティも恐れるテンプル自由特区
前号におきまして、法曹界の聖地、テンプル地区とテンプル騎士団の歴史的な背景をご案内申し上げましたが、今回もその続きです。当時、先進的だったイスラムの法学、金融、建築といった知識を有したテンプル騎士団は、シティに荘厳なテンプル教会を建てますが、そこには高位の聖職者だけでなく、英国王ジョンが頻繁に訪れておりました。それは自分の兄、リチャード1世が戦争で諸侯に負った多額の借金が原因です。
当時、ジョン王と課税問題で対立していた諸侯との間の調整役を務めていたのがテンプル騎士団です。その交渉舞台がテンプル教会であり、また、交渉の結果、まとめられた約束が、皆様もお聞きになったことがあると思いますが、英国の大憲章=マグナ・カルタなのです。「王様といえども法による支配から免れ得ない」という理念は、現代英国の重要な法典の一つですが、それと同時に近代国家の模範にされている憲章にもなっていきます。
テンプル教会内部は
外の喧騒を忘れる美しさに満ちている
1215年6月、ウィンザー近郊のラニミードでマグナ・カルタにジョン王の国璽(こくじ)が押印されましたが、その後、 時間の経過とともに軽んじられてしまい、この理念の重要さが見直されるのは17世紀以降です。「権利の請願」(1628年)、「権利の章典」(1689年)、さらには米国独立宣言(1776年)に採り入れられ、「法による支配」や「人権の保障」という理念は、マグナ・カルタにこそ、その源泉が求められます。
テンプル教会で、ジョン王と対立する諸侯たちが
交渉を続け、マグナ・カルタが誕生する
英国王さえ一目置くほど、テンプル騎士団が財政豊かな組織になり得たのは、恐らく、巡礼者や十字軍に従事する人からたくさんの土地や金銭の信託を受けたものの、当時はまだ信託を法制化する衡平法(エクィティ)が整備されていなかったため、信託財産の運用に問題があったからだと思います。ただ、財政が豊かになると、お上から目をつけられるのが世の常ですから、彼らが所有していた土地は何度か、王家に没収されています。
そうした不幸な経緯がありますので、尚更、インナー・テンプルもミドル・テンプルも法に厳しく、シティ区域にあるものの、法律的にはシティの管轄外になっています。テンプル騎士団が12世紀初めにローマ法王から認められた「法王以外のあらゆる規制から免除」の条文を英国王に認めさせたことを盾に、現在でもシティ警察もゴミ収集車も、テンプル自治体を通じてしか地区内に入れないのです。相手は法律の精鋭集団ですから、無駄な抵抗はやめましょう。
ミドル・テンプル内のミドル・テンプル・ホールは
シェイクスピアの「十二夜」が初演された場所
同ホールにある、エリザベス1世から贈られたという
1本の樫の木からできた9メートルもの長机