第71回 ホワイトフライアーズ修道院
フリート・ストリートの裏手、ホワイトフライアーズ・レーンの脇道に、地下に下りる階段があります。下に降りると突然、目の前に現れてくるのが地下聖堂。これは19世紀末、新聞社のビル工事で発掘されたホワイトフライアーズ修道院(1253年~1538年)の遺跡です。この修道院の名の由来は托鉢僧が白衣を着用していたからですが、1538年、宗教改革で廃院になると、敷地一帯が王家の武具師に譲渡されて法律の及ばない解放区になります。
発掘された修道院の地下聖堂
それ以降、この地域は治安が悪化。ドイツとフランスの国境にあるアルザス地方が長らく国境紛争で無法地帯だったことから、英国の「アルセーシア(アルザス地方)」という俗名で呼ばれるようになりました。一方、修道院の大広間は17世紀初頭にホワイトフライアーズ劇場に建て変わり、子供が出演する屋内演劇場へと発展。1629年には道の対面に移り、ソールズベリー・コート座として清教徒革命で廃止されるまで人気を博します。
ソールズベリー・コート座跡
さらにこの南側には1680年に英国最古と言われるホワイトフライアーズ・ガラス工場(19世紀後半にはステンドグラスや装飾の凝ったガラス製品で有名に)が、19世紀初頭にはシティ・オブ・ロンドン・ガス工場が建設され、産業地域として栄えます。産業の原料となった石炭は英国北部のニューカッスル港から海を経由してシティに運ばれ、「シーコール(Seacoal)と呼ばれていました。その荷揚げ地だった場所は今も通り名に残されています。
ここでシーコールが荷揚げされていた
しかし19世紀末以降、ガス工場もガラス工場もシティから出ていきました。代わって登場するのが新聞の印刷所とシティ小学校。広い敷地は学校に適していましたし、新聞の大衆化を目指していたアルフレッドとハロルドというハームズワース兄弟には格好の場所でした。そう、蒸気機関による新聞の大量印刷を始めたのは「タイムズ」紙(近くのブラックフライアーズ修道院跡地が拠点)でしたが、新聞の大衆化に成功したのはこの兄弟が創刊した「デーリー・メール」紙です。
ガラス工場跡に新聞印刷工場、そして今は法律事務所などが入居
今や印刷所は土地の安い郊外に移転し、印刷所の跡地は会計や法律の事務所に変わりました。またシティ小学校も移転し、現在は米国の大手銀行が利用しています。それにしても、当地の歴史アルバムは白い修道院から始まり彩色が豊富。ちなみにアルバムの語源はラテン語の「アルバス=白い石灰で出来た掲示板」。歴史は白いものを豊かな彩りに染めてゆきます。皆さんの心のアルバムもさぞ見事な彩りで溢れていることでしょう。
旧シティ小学校には大手米銀が入居