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Sat, 20 April 2024

北アイルランドの「誕生」から100年
今も続くアイルランドの複雑な問題

今年は英国とアイルランド(愛)の間で英愛条約が締結されちょうど100年。1921年に南部26州は英国王を元首とするアイルランド自由国として分離し、北部6州は英国の統治下にとどまり現在でいう北アイルランドになることが決まった。英国で今も続く北アイルランドの帰属問題は、ここから始まっている。この特集では過去から現在までに起きたいくつかの歴史的事件をピックアップしつつ、日本人には分かりづらいアイルランドと英国の複雑な関係、アイルランドと北アイルランドの関係を改めて見ていく。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考:「アイルランド独立紛争史 シン・フェイン、IRA、農地紛争」森ありさ著 論創社、「北アイルランド紛争の歴史」堀越智著 論創社、The Irish History.com、BBC、世界史の窓、JIIAほか

今も続くアイルランドの複雑な問題

英国にもある分離壁

今では北アイルランドの観光名所に

ベルリンの壁やヨルダンの壁が良く知られているが、北アイルランドにも分離壁は存在する。平和の壁(Peace lines、Peace walls)という皮肉な名前で呼ばれており、互いの暴力衝突を避ける目的で、カトリックとプロテスタントのコミュニティーの間に建設された。最初の壁は1969年の暴動直後にベルファストに造られた。当初は一時的なものと考えられていたが次第に数を増やし、現在北アイルランドにはベルファストを中心に60近い平和の壁がある。長さは数百メートルから長いものでは5キロにもおよび、総延長にすると34キロともいわれる。平和の壁の側面はさまざまな絵画やスローガンで埋め尽くされており、近年では平和の壁巡りをする観光ツアーも行われているようだ。2023年までに解体される計画もあるが、暮らしの安全のためにまだ必要だと考える市民も多い。

アイルランドが現在に至るまで

1541年 ヘンリー8世がアイルランド国王に
1649年 オリヴァー・クロムウェルがアイルランドを攻略
1690年 ボイン川の戦い
1845年(〜49年) 大飢饉
1916年 イースター蜂起
1919年 アイルランド独立戦争
1920年 アイルランド統治法の成立。アイルランドは南北に分割
1921年 英愛条約が締結
1922年 アイルランド内戦
1938年 英連邦内の共和国として、英国がアイルランド自由国の独立を承認
1949年 アイルランド自由国が英連邦を離脱。アイルランド共和国に移行
1966年 アルスター義勇軍(UVF)がカトリック住民に対しテロ行為を実行
1972年 1月に英陸軍によるデモ隊銃撃事件「血の日曜日事件」、7月にIRAによる爆弾事件「血の金曜日事件」が発生。北アイルランド地方議会および行政府が廃止、英政府の直接統治下に置かれる
1985年 英愛両政府が英国・アイルランド協定に調印
1993年 英愛両政府が政治的な和解を目標とした「ダウニング街共同宣言」を発表
1994年 IRAが無期限停戦宣言
1998年 ベルファスト合意(Good Friday Agreement)が成立。アイルランド共和国は、国民投票により北アイルランド6州の領有権を放棄
2005年 IRAが武力闘争の終結を発表
2006年 連立政権の権限配分、司法、治安維持に関する問題の進展に向けた「セント・アンドルーズ協定」が成立
2010年 武装組織UDAが武装解除
2011年 エリザベス女王がアイルランド共和国を公式訪問
2020年 EU離脱協定に北アイルランド議定書が盛り込まれる。
英国がEU離脱する一方で、EU加盟国であるアイルランドと地続きの北アイルランドはEUの関税同盟と単一市場に部分的に残留
2021年 3~4月 北アイルランド各地で暴動
12-16世紀

北アイルランドにプロテスタントが多いのはヘンリー8世の政策

アイルランド島はケルト系文化を持ちカトリックを信仰するなど、東隣りにある大ブリテン島とは異なる歴史を持つ。英国(イングランド)がアイルランドへの介入を積極的に始めたのは12世紀後半からだが、百年戦争やバラ戦争など、その時々のイングランド国内の事情により完全な支配には至らず、アイルランドに移り住んだアングロ=サクソン系やノルマン系の貴族が、同地に元から住むケルト系ゲール人の貴族と共存しそれぞれ発展。イングランドの国王は英国の首長としてローマ教皇からアイルランドの宗教管理をまかされているという形式的建前があったものの、アイルランドは独立国家として存在していた。

ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚は、その後のアイルランドの運命も変えたヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚は、その後のアイルランドの運命も変えた

ところが、宗教改革でローマ教皇と断絶したヘンリー8世は、1541年に自らがアイルランド国王となることをアイルランド議会で承認させた。そのため、アイルランドは形の上では独立した国のまま、イングランド王の支配を受けることになった。ヘンリー8世はダブリンに行政府を置き、イングランドから多くのプロテスタントを移住させた。続くエリザベス1世もヘンリー8世の政策を受け継ぎ、アイルランド北東部(アルスター地方)のデリーにロンドンの富裕な商人を多く入植させた。このような強引な移住政策は、後に大きな火種を残すことになる。こうして、アイルランド全体ではカトリックが主流だが、アイルランド北東部ではプロテスタントが多数派になり、同地のカトリック教徒は少数派として迫害されるようになっていった。

17-19世紀

クロムウェルはアイルランドから今でも恨まれている

ピューリタン革命の指導者で共和主義者のオリヴァー・クロムウェルは、アイルランドが王党派やカトリックの拠点になっていることを口実に1万7000人余りを派兵し、1649年にアイルランドを侵略。さらに、アイルランドのカトリック教徒と結束して再起を図ったジェームズ2世が1690年にボイン川の戦いでウィリアム3世の率いるプロテスタント軍に敗れたことで、アイルランドの植民地化が決定的になった。英国はアイルランド住民の反乱を抑えるために直接統治に乗り出し、カトリック教徒を徹底的に弾圧。アイルランド・ゲール語は使用できず、文化や伝統も否定された。また、カトリック教徒は土地を所有できないうえ、大学に行けず、医者、弁護士、政治家などにもなれなかった。差別されたカトリック教徒たちは、米国の独立やフランス革命の影響を受けて、英国からの独立を求める運動を起こし始めた。

オリヴァー・クロムウェルオリヴァー・クロムウェル

18世紀後半に立ち上がった「統一アイルランド人協会」は武器を取るも、英軍に鎮圧され3万人の死者を出した。英政府は、独立運動を抑えるため1801年にアイルランドを完全に併合。それにより「大ブリテン及びアイルランド連合王国」が成立し、アイルランドは英国の一部になった。併合は120年以上続くが、その間にアイルランドに大飢饉(1845~49年)が起こり、住民の死亡や移住でアイルランドの総人口は最盛期の半数にまで減少したといわれる。

「ジャガイモ飢饉」と呼ばれた大飢饉(1845~49年)は英政府の政策が原因で長引き、人々は4年にわたり飢餓に苦しんだ「ジャガイモ飢饉」と呼ばれた大飢饉(1845~49年)は英政府の政策が原因で長引き、人々は4年にわたり飢餓に苦しんだ

20世紀 ①

北アイルランドは妥協案から生まれた

アイルランド Map

1916年にアイルランド独立運動の急進派が対英の武装蜂起をする。イースター蜂起と呼ばれるこの反乱は、首謀者の多くが処刑されたことで多くのアイルランド人の反英感情を増大させた。その後の総選挙で、蜂起に加わった者を含んだ民族主義政党シン・フェイン党が躍進。当選議員は、ウェストミンスターでの英議会に出席せず、ダブリンに独自のアイルランド議会を樹立した。さらに1919年1月、独自に国民議会を開催し、アイルランド共和国の独立を宣言する。これに対し英政府は軍隊を派遣。アイルランド側も義勇軍を組織し、アイルランド独立戦争となった。義勇軍は後にアイルランド共和国軍(IRA)と呼ばれることになる。戦いが長期化するなか、アイルランド北部を分離して英国領に残し、それ以外の南部は王国内の自治領としての独立を認めるという英国から打開案が示される。これは、プロテスタントの多いアイルランド北部をアイルランドから分断するという過激なものでもあったので、この妥協案に対してそれを認めざるを得ないとする多数派と、あくまでアイルランド全島の完全独立を求める少数派に分裂した。受け入れをめぐって内戦が起こったが、この妥協案は支持され、1920年にアイルランド統治法が成立。翌21年に英愛条約が締結され、アイルランド南部はアイルランド自由国となった。

カトリック系 宗派 プロテスタント系
ナショナリスト / リパブリカン 思想 ユニオニスト / ロイヤリスト
英国からの分離独立、共和主義を掲げる 特徴 英国との連合、英国人としてのアイデンティティーを重視
シン・フェイン党 政党 民主統一党(DUP)
社会民主労働党(SDLP) アルスター統一党(UUP)
アイルランド共和軍暫定派 (IRA) 民兵組織 アルスター防衛協会(UDA)

*北アイルランドには北アイルランド同盟党(APNI)など、ユニオニスト、ナショナリストの双方を支持しない層から一定の支持を受けている政党もある。APNIは現在、北アイルランド議会では90議席中7議席を保有している

イースター蜂起で建物が崩壊したダブリンのサックヴィル・ストリートイースター蜂起で建物が崩壊したダブリンのサックヴィル・ストリート

1916年に独立運動の急進派が出したアイルランド共和国宣言1916年に独立運動の急進派が出したアイルランド共和国宣言

20世紀 ②

血で血を洗う闘争へ

英愛条約は北アイルランドには平和をもたらさず、特にカトリック系住民の長年抱えていた不満が増大した。いくら多くのプロテスタントが入植していたとしても、北アイルランド人口のおよそ40パーセントはカトリックである。統治側のプロテスタントは武装警察に加え、独立戦争中に編成された特別警察を使い強硬な治安体制を敷くほか、比例代表制を廃止するなどして各地方議会をプロテスタントで独占。そうしたことからカトリックの失業率は常にプロテスタントの2倍以上と、カトリック差別の社会がよりいっそう進んでしまったのだ。その結果として、カトリックのなかからは、英国の支配を終わらせアイルランドの独立を打ち立てようとする組織(リパブリカン)、アイルランド共和軍暫定派(IRA)が生まれた。また、プロテスタントのなかにも、英国とのつながりを守るために銃を持つ組織(ロイヤリスト)アルスター防衛協会(UDA)が現れた。

北アイルランドの大多数の人々は暴力による解決を望まない。しかし、リパブリカンとロイヤリスト双方によるゲリラ活動と、それを鎮圧しようとする英国の国家治安部隊の活動によって、20世紀の北アイルランドは市民を巻き込んで大きく揺れた。特に1970年代には暴力が激化し、「北アイルランド紛争=暴力」と定義されるようになっていったのだ。北アイルランド問題は今も、「ザ・トラブルズ」(あのやっかいごと)と呼ばれている。

1976年8月、ベルファストで起きた市街戦。英国兵士の持つ銃の先が見える1976年8月、ベルファストで起きた市街戦。英国兵士の持つ銃の先が見える

4回あった血の日曜日事件

1972年、北アイルランドのロンドンデリー(デリー)でデモ行進中だった非武装の市民が英陸軍に銃撃され、27人が死亡した「血の日曜日事件」(Bloody Sunday)は、アイルランド史のなかでも特筆すべき事件として広く知られる。だがアイルランドには同名の事件がほかに3件ある。①1913年にダブリンで起きた労働争議、②1920年に独立戦争の際に市民を巻き込み31人の死者を出したダブリンの銃撃戦、③1921年にベルファストでリパブリカン、ロイヤリスト、英国軍が関与した戦闘。17人が死亡し100人余りが怪我を負い、200軒近くの家屋が損傷した。

1970年代のロンドンデリー(デリー)で、建物の屋上から火炎瓶を投げようとしている男性1970年代のロンドンデリー(デリー)で、建物の屋上から火炎瓶を投げようとしている男性

21世紀 ①

ブレグジットでも悩みの種に

1998年に北アイルランド紛争に関する和平合意、ベルファスト合意が成立。北アイルランドとアイルランドの間に置かれていた検問所が撤廃された。つまり、英・愛・北アイルランド間の自由な往来が可能になったわけだが、これは英国とアイルランドが共にEUに加盟していたからできたことだった。関税同盟と単一市場のおかげで、北アイルランドとアイルランド間の人、物資、資本、サービスの自由な移動が可能になったのだ。しかし、英国がEUから離脱すると、英国側の北アイルランドとEU側のアイルランドの間で再び通関手続きが生じてしまう。そうした国境の復活は、やっと落ち着いた北アイルランドの和平を経済的にも政治的にも再び危険にさらすことを意味する。

どうすれば英国は国境管理を復活させずにEUを離脱できるのかが英政府の悩みどころとなった。EUは北アイルランドをEUの関税同盟内に残留させることを提案したが、当時の首相テリーザ・メイはこれを拒否。このとき保守党は少数政権で、ユニオニストの民主統一党(DUP)から閣外協力を必要としていたこともあり、北アイルランドを切り捨てるような案を受け入れることはできなかった。メイ首相は代わりにバックストップ案を提案。これは、離脱移行期限である2020年12月までに英国とEUとの間に協定が締結されない場合、英国全体がEUとの関税同盟にとどまり、北アイルランドは単一市場の法則に従うというものだった。だがこの案は党内で理解を得られず、首相退陣、内閣改造のきっかけとなった。

ベルファスト合意のパンフレットを手にしたシン・フェイン党の元党首ジェリー・アダムズ氏(写真右)ベルファスト合意のパンフレットを手にしたシン・フェイン党の元党首ジェリー・アダムズ氏(写真右)

北アイルランドとアイルランドの国境に立つ交通標識北アイルランドとアイルランドの国境に立つ交通標識

21世紀 ②

まだまだ終わらないザ・トラブルズ

2019年7月にメイ首相の後任に就いたボリス・ジョンソン首相は、英国はEUの関税同盟からも単一市場からも離脱するが、北アイルランドだけはこれらに部分的にとどまるという案を打ち立て、EUと離脱に合意した。これが離脱協定と共に結ばれた北アイルランド議定書だが、これはEU加盟国のアイルランドと英国側の北アイルランド間の自由な物流を認める一方で、北アイルランドと英国間の物資の移動に通関手続きが導入されるというものだった。当然ながら、ユニオニストはこの取り決めを快く思わなかった。英国のほかの地域と北アイルランドの間に差異ができ、英国における北アイルランドの地位を脅かすものだと反発。今年3月には、ユニオニストの軍事組織の代表を含むグループが、ベルファスト合意の順守をやめるとジョンソン首相に書面を送っている。21年3月末から4月にかけて北アイルランド各地では連日ユニオニストとナショナリストの間で暴動が続き、10日間で警官70人以上が負傷する事件が起きた。大方の人々が心配したように、ブレグジットは鎮火しつつあった問題に再び火を点けた格好となっている。

北アイルランド議定書に対する反対デモ北アイルランド議定書に対する反対デモ

「アイリッシュ海に境界線を作るな」、と書かれたベルファストのグラフィティ「アイリッシュ海に境界線を作るな」、と書かれたベルファストのグラフィティ

 

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