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Mon, 07 October 2024
チャールズ・ダーウィン

もっと知りたい、
ほんとのダーウィン

自然科学者チャールズ・ダーウィンの生誕200周年、そして彼の著書である「種の起源」の発表150周年を迎える今年。世界各地で祝賀イベントが行われ、ダーウィンとその偉業を称える特集番組や記事などが多く紹介されている。とはいえ、多くの人にとっては「名前だけは知っているけど……」という存在なのでは。この機に、知られざるその人となりに触れてみてはいかがだろう。(執筆: 小野塚 貴子)


ダーウィンの素顔とは?

ダーウィンの像
シュルーズベリー図書館のダーウィン像

裕福な家庭の生まれにして頭脳明晰。素敵な奥さんを見つけ、10人の子どもにも恵まれたダーウィン。「生まれた星が違うのか……」と思いきや、知れば知るほど「人間くさい」、意外なキャラクター像が浮かび上がってくる。

昔は「落ちこぼれ」だった?
父親の悩みの種だった学生時代

今からちょうど200年前、産業革命のまっただ中であった1809年に、イングランド南西部にある静かな商業街、シュルーズベリーの裕福な家柄に生を受けたチャールズ・ダーウィン。植物が大好きで、鉱物や昆虫の採集に夢中だったという子ども時代は、いかにも自然科学者としての将来を予期させる。ところが、そもそもダーウィンは自然科学者を目指していたわけではなく、高名な医師である父親からは「落ちこぼれ」のレッテルを貼られていたという。息子の将来を悲観していた父親は、まさかそんな問題児が、後に10ポンド紙幣の顔になるほどの学者になるとは想像もしな かっただろう。

「お前は狩りやネズミ捕りぐらいにしか興味が無いようだが、そんなことでは恥ずかしい思いをすることになるぞ。家族にとっても、自分自身にとってもな」そう苦言を呈した父親ロバートは、成績が振るわない息子の将来を心配し、在籍していたパブリック・スクールから退学させてしまう。そして自分の下で医師の見習いをさせたあとエディンバラ大学の医学部へ送り込むが、当の本人は医学に全く興味も情熱も見出せず、しかも血が大の苦手ときた。代わりに自然史にどっぷりはまった息子に呆れたロバートは、今度はダーウィンを聖職者にさせるべく、ケンブリッジ大学クライスト・カレッジへ入学させる。

「牧師になれば、空いた時間に好きな学問を勉強できる」と考え、父に言われるがまま神学生となったダーウィン。ここでもまた、懲りずに専攻外の自然科学や趣味の乗馬、狩猟に精を出す。とはいえ、成績は178人中10番と、決して悪くはない結果を残している。

それにしても、父の命令とはいえダーウィンが聖職者を目指していたとは、少し皮肉な話だ。ケンブリッジ大学時代は聖書の教えに全く疑問を抱かなかったというが、それから約30年後に彼が発表した進化論は、それまでの常識であった「すべての生物は全能の神によって創造された」とするキリスト教の創造論を覆すことになるのだから。

実は意外と苦労人
偉業を支えたバック・グラウンド

その功績ばかりが取り上げられるダーウィンだが、実は成人になってからの人生は、絶え間ない病気との戦いの人生でもあった。特に、英国海軍の測量船「ビーグル号」に乗船し南米大陸や南太平洋諸島を航海した後は、科学者として身を立てるため執筆活動に励むも、締め切りのプレッシャーなどから様々な症状 ─ 嘔吐、動悸、頭痛、息切れ、極度の疲労感、不眠、躁鬱など ─ に苦しんだという。

興奮すると激しい震えや嘔吐に襲われるため、パーティーなどは欠席せざるを得ず、たまに親戚の家や海辺に行く以外は、ほとんど自宅にこもりきりの隠遁生活に。20人もの専門医にかかり、ホメオパシー療法や電気ショック療法など数々の方法を試したが、その病名と原因すら定かにならなかった。ダーウィンは後に、彼にとっての人生の楽しみは研究であり「研究に没頭することで日常的な病気の不快感を忘れたり、気を紛らわせたりすることができた」と回顧している。

結婚後もロンドンで生活を送っていたものの、ダーウィンは療養と子育てにもっと適した環境を求め、33歳の時に閑静なケント州ダウン村の邸宅に引っ越す。都会を離れて田舎生活を送ることになったが、彼が研究活動を送っていたのは、折りしも大英帝国が経済的に大飛躍を遂げたビクトリア朝時代。交通機関が発達したおかげで通信事情も良く、手紙のやり取りを通じて数々の科学者たちと意見を交換したり、世界各地から標本を集めたりすることが可能だった。それにしても、ダーウィンは1日に十数通もの手紙を書いたというから、かなり筆まめだったようだ。

そしてそんな時代背景と共に彼の研究生活を支えたのが、裕福な実家からの経済的なバックアップだった。病気の症状がひどく20分仕事をするのがやっと、という日もあったそうだが、たとえ仕事ができなくても生活の糧を心配する必要はなし。ダーウィンは生活手段としてではなく「趣味」として、興味のあるテーマを追求する「ジェントルマン・サイエンティスト」 というご身分だったのだ。

ちょっぴり変わったお手本パパ
「 学者らしさ」がのぞく家庭生活

「病気がちな学者」というと、気難しく、世俗から離れた孤独なイメージを思い浮かべるが、残された日記や手紙、子どもたちによる回想録からは、愛情あふれる家庭の良きお父さん像がうかがえる。10人もの子どもに恵まれたダーウィンだが、娘の一人であるヘンリエッタは、父をこう回顧している。

父と一緒にいると、心がうきうきしたものだわ。父はとても生き生きとしていて、楽しい性格で、笑い声が素敵なの。それに、父はよき聞き手としての態度と気配りを兼ね備えていた。
  • 結婚した場合のメリット
    子どもができる、生涯の伴侶ができる─犬よりも良いだろう、家庭をとりしきってくれる、など
  • 結婚しない場合のメリット
    好きなところへ行く自由、所属するソサエティが選べる、所属するソサエティが少なくてすむ、社交クラブにおける教養のある者たちとの会話、親戚訪問を強制されない、など
  • 結婚した場合のデメリット
    子育てにまつわる費用と心配、肥満と怠惰、時間の無駄、けんか、本にかけられるお金が減る、など

子どもたちが自由に書斎に入ることを許すなど、ダーウィンは当時としては奔放に見える子育てを実行していた。ミミズの研究に没頭していた時期は、ミミズの音に対する反応を調べるために家族でピアノを演奏した、などという学者の家庭らしい微笑ましいエピソードも残されている。

さて、ダーウィンを父親に持つ気持ちは一般人には想像しにくいが、それよりもさらに想像し難いのが、彼に「人生の伴侶」として選ばれることだろう。ダーウィンはビーグル号での航海から帰国した3年後にいとこのエマ・ウェッジウッドと結婚しているが、結婚前にはいろいろと自問自答したようだ。プロポーズする前には、学者らしく「結婚した場合、しなかった場合」と題したリストまで作成している。

これを見る限り「結婚しないほうが良い」という結論にたどり着きそうなものだが、このリストを作った4カ月後、ダーウィンはエマにプロポーズし、2人は互いの生涯の伴侶となっている。

ダーウィンとエマ
左)晩年のチャールズ・ダーウィン 
右)1840年に描かれたエマ・ウェッジウッドのポートレイト

ダーウィンをつくった人々

せっかく科学者としての才能があっても、可能性を広げてくれる人々に出会わなければ、宝の持ち腐れ。どうやらダーウィンには、「自分を最大限に活かす環境」に出会う才能もあったようだ。ここではダーウィンを支え、影響を与えた人々を紹介しよう。

どちらを向いても名門家系
高名な祖父たちと、成功した父親に囲まれて

ダーウィンの家系をたどると、まるで小説に出てくるかのような、当時の紳士たちの華やかな社交界の様子が浮かび上がってくる。まずは医師として成功した父方の祖父エラズマス・ダーウィン。エラズマスは医者としてだけでなく、詩や哲学の分野でも才能を発揮し、数々の器具の発明も行った。さらには発明家ジェームス・ワットも所属した、名士たちの社交場「ルナー・ソサエティ」の創立メンバーでもある。

同じくルナー・ソサエティのメンバーだった母方の祖父ジョサイア・ウェッジウッドは、日本でも人気が高い英国の名窯「ウェッジウッド」の創始者である。ジョサイアの事業のためにエラズマスが機械を発明するなど、2人はとても仲が良かったようだ。「私に娘ができたら、是非君の息子に嫁がせよう」といった会話が交わされたかどうかは分からないが、エラズマスの息子ロバートとジョサイアの娘スザンナは後に結婚し、かくしてチャールズ・ダーウィンが生を受けた。

ダーウィンが植物好きになるきっかけを作ったとされる母のスザンナは、彼が8歳の時に病死。6人兄弟の5番目だったダーウィンは、一番上で母親代わりの姉キャロラインによって育てられる。父親ロバートは成功した医師で、厳格でワンマンなところがあったものの、後に息子が学者となるための資金を与えるなど協力を惜しまなかった。ダーウィンの述懐では、「私が若い頃、父の私に対する態度はやや不当だったが、ありがたいことに、後に私は一番のお気に入りになったと思う」とある。

一方で、ダーウィンが良家の子息として育ったことは、ビーグル号による南米調査の船員として受け入れられた理由の一つでもある。「キャプテンの話し相手」としてビーグル号に迎えられたダーウィンだったが、その条件は「ジェントルマンであること」だったのだ。ちなみに、彼がビーグル号へ乗船することに反対した父親を説得したのは、祖父のジョサイア・ウェッジウッド。彼は、後にダーウィンの妻となるエマ・ウェッジウッドの祖父でもある。

最愛の妻、エマ
甘えん坊の夫を支えた陰の立役者

病気がちで神経質な学者ダーウィンの心に、常に温かい灯りをかざしてくれた唯一絶対の存在が、愛妻のエマだった。ダーウィンは妻に向け、こう手紙を残している。

「最愛のマミー* 、具合が悪い時に君がいないと、心細くてしょうがなくなってしまう。おおマミー、君が一緒にいて僕を守ってくれてこそ、僕の心は休まるんだ。」

後に他人の目に触れることになるなんて、夢にも思わずにしたためたに違いない。とはいえ、39歳の科学者がこんな文章を書くとは、かなりの甘えん坊っぷりだ。ダーウィンより数カ月年上のエマは、彼を優しく包み込む「お母さんキャラ」だったに違いない。

そんなエマは、結婚前はフランスにピアノ留学してショパンに師事したり、野外スポーツに興じたりするなど、活動的な良家のお嬢様だった。31歳でダーウィンのプロポーズを承諾するまでに6人の求婚者を断わるという、なかなかの男泣かせでもある。ダーウィンも「ブサイクすぎる」から断られると思っていたそうが、エマにとって彼は「今まで出会った中で、いちばん表裏のない人、そしてとても愛情深い人」 だったのだとか。

10人の子ども(うち3人は幼少期に病死)を授かり、仲睦まじいダーウィン夫妻だが、一方でエマが心の葛藤を抱えていたのもまた事実だ。原因は、夫との信仰心のギャップ。当時の良家の女性にしてはリベラルな考えを持っていたエマだが、敬虔なクリスチャンであることに変わりはなく、夫が少しずつ信仰から離れていく様子をみて不安に襲われたという。最愛の夫とあの世で再会できないかもしれないという恐れは、死後の世界を信じる彼女にとって堪え難かったようだ。

その一方で、エマは夫の研究の良き理解者として協力し続けた。病弱なダーウィンのそばを片時も離れず、論文に目を通しては感想をメモし、意見を交わした。常に病気に悩まされたダーウィンだが、良きパートナーに恵まれ、幸せな結婚生活を送ったようだ。

*ダーウィンはエマに「Mammy(ママ)」という愛称をつけていた

運命を変えた出会い
恩師、友人、そしてライバル

「人の価値を的確に測るものの1つは、友人関係である」という言葉を残したダーウィン。最初から学者を目指していたわけではなかった彼が、後に自然科学界を揺るがす理論を発表するに至ったのは、様々な邂逅(かいこう)に導かれた結果だ。

まず、ケンブリッジ大学で神学を専攻していたころ、彼の人生を大きく方向転換させた人物が、植物学者のジョン・ヘンズローだ。ヘンズローの学者としての評判を聞きつけたダーウィンは、彼が開催していた夜会に足しげく通うようになり、神学生にとって必須科目ではないヘンズローのフィールド・トリップにもほぼ毎日参加。「ヘンズローと歩く男」とのあだ名が付けられるほどになる。後にヘンズローはビーグル号による南米大陸探検航海の話を持ちかけられるが、彼は調査員としてのポジションを辞退し、代わりに自慢の生徒であったダーウィンを推薦する。かくして、ダーウィンのビーグル号航海が実現することになったのだ。

そして航海後、ヘンズローの協力で科学者として一人前になりつつも、宗教的な反響を恐れて構想中の進化論を世に発表できずにいたダーウィンが、初めて「殺人を自供するかのような心境だ」とその内容を打ち明けた相手が、ヘンズローの義理の息子でもあるジョセフ・フッカーだった。フッカーは「確固とした実証が無ければ、誰にも天地創造説を否定する資格はない」と、ダーウィンに実証集めをするようアドバイス。ダーウィンは、フッカーを「どんな時も友情を与えてくれた唯一の存在」と呼んでいる。

逆に、一時は仲が良かったものの、見解の違いから後に険悪になった相手もいる。その一人が、ロンドン自然史博物館の創設者であるリチャード・オーウェンだ。一時は博学者仲間として協力しあった2人だったが、ダーウィンが「種の起源」を出版すると、オーウェンは極端なアンチ・ダーウィン派にまわる。生物の起源に関する意見の相違は、宗教的な信条にも関わるため、ダーウィンはオーウェンをはじめ、多くの人から敵視されてしまった。

進化論が生まれるまで

それまでの価値観を一気に覆した「進化論」。
ダーウィンの功績はもちろん、その理論の誕生には様々な出会いやきっかけが関係している。

進化論はどこで生まれた?
航海が教科書、安住の地が実験室に

計らずもヘンズローの仲介で実現したビーグル号での航海は、ダーウィンの人生にとって大きな岐路となった。この体験が無ければ、ダーウィンはどこかの村で、単に自然好きな牧師として生涯を終えていたかもしれないのだ。

当初2年の予定だった航海は5年近くに及び、ダーウィンは22~27歳までのみずみずしい時代を未知の世界に触れながら過ごしたことになる。チリで命を危ぶむほどの大地震に遭い、アンデスの山を登り、ガラパゴス島で様々な生き物に出会うといった体験は、たとえ海外旅行が珍しい時代でなくても、簡単に忘れられるものではないだろう。

英国に戻ってからのダーウィンは、航海中に集めた数々の標本を基に研究と執筆活動に励み、一躍有名な学者として学界に進出することに成功した。このように、ビーグル号での体験はダーウィンを自然科学者として形成したが、実は進化論はこの航海中にできたわけではなく、その構想をスケッチし始めたのは、航海から数年たってからのことだった。

帰国後、「自然の状態のままでは、食料増産を上回るスピードで人口増加が生じ、生存競争が起こる」というマルサスの「人口論」を読み、彼の言う生存競争の原理こそ、自然の淘汰であると考えるようになったダーウィン。この考えを実証するためには膨大な量のデータが必要で、そしてその資料集めの場となった場所こそ、彼が移り住んだケント州の自宅、ダウン・ハウスの庭だった。

その庭はダーウィンにとって、まさに大きな実験室だった。広大な庭園で昆虫や動植物を研究し、「サンド・ウォーク」と呼んだ散歩道で思考をめぐらせる ── 彼が約40年間この家をほとんど離れることがなかったのも、同地がいつも新しい題材や答えを提供したからだろう。ダウン・ハウスは現在、歴史的建築物を保全する政府機関「イングリッシュ・ヘリテージ」の1つとして、一般公開されている。

あくまで「事実」を追究
無神論者ではなく、不可知論者

ダーウィンの進化論は、特に宗教との関係において微妙なテーマだ。「人類とその他の生物は共通の祖先を持つ」とするダーウィンの進化論は、神を創造主とする聖書の教えと真っ向から対立するものだと敵視する人々もいれば、双方の折り合いをつけて理解を試みる聖職者もいる。ダーウィンは、あくまで学者として進化論を発表したにすぎず、自らの宗教への考えを述べることは控えた。それどころか、彼が進化論を長い間発表しなかった理由は、信条的な衝突を恐れていたからだと言われている。

そもそも、ダーウィンの愛妻エマは経験なクリスチャンであり、彼自身も当時の良家の子どもが皆そうであったようにキリスト教的な教育を受け、大学では神学の学位を取っている。学生時代は、いまだ聖書の教えと自然科学は一体であったし、尊敬する多くの自然科学者は聖職者でもあった。

そんなダーウィンに聖書の教えに対する疑念がめばえ始めたのは、ビーグル号の航海を前後したころだ。29歳の時には婚約者のエマに、手紙で天地創造説に対する疑念を打ち明ける。エマはダーウィンが胸のうちを語ってくれたことに感謝しながらも、「私たちの間には堪え難い隙間が存在する」と戸惑う心境を伝えている。彼は後に、キリスト教に対する疑念は「だんだんと頭の中に染み込んで、ついに決定的なものになった」と述べているが、その決定打となったのが、最愛の娘アンの病死だった。アンの死後、礼拝に参加することをやめたダーウィンは、妻と子どもたちを教会まで送ると、自分だけ外で待っていたという。

ただ、ダーウィンは自らを「athiest(無神論者)」と呼ぶことは避け、代わりに「agnostic(不可知論者)*」と称し、「すべてのものの始まりに関する謎を解明するなど、我々には無理なことだ。私自身に関して言えば、不可知論者でいることに満足する身である」という言葉を残している。

* 神や来世の存在は証明しようがないので、正しいとも誤りであるとも言えない、とする考え

ライバルの出現
尻込みする学者の背を押したきっかけとは

20年間も構想が温められていたものの、社会的な反響を恐れるあまり、発表がためらわれていた進化論。ダーウィンの前に突然ライバルが出現しなければ、その学説は永久に知られずにいたかもしれない。

1844年、「創造の自然史の痕跡」と題された1冊の本が社会論争を巻き起こした。「人類は神によって創造されたのではなく、下等霊長類から進化した」と示唆したその本は、あらかじめ反響を予期し、著者名を伏せて発表された。* この本が学者たちにことごとく批判、糾弾されたため、ダーウィンはより研究発表に消極的になってしまったという。

そして1858年、ある決定的な出来事が起こる。ダウン村の自宅でひっそりと研究を続けていたダーウィンの下に、遠く離れたマレー諸島から郵便物が届いた。差出人は、かねてから交流のあった若い学者、アルフレッド・ウォレス。同封された論文を読んで、ダーウィンは驚愕する ── なんと、自分が温めていた理論とそっくりだったのだ。ここでダーウィンはジレンマを抱える。慌てて研究を発表すれば、自論がダーウィンのそれと似通っているとは露知らず、自分を慕って論文を送ってくれたウォレスを裏切ることになる。かといってここで引き下がり自分の研究を闇に葬ってしまえば、今までの苦労がすべて水の泡になる。悩めるダーウィンから相談を受けたフッカーをはじめとする友人たちは、彼にウォレスと同時に論文を発表するように勧めた。

かくして、ダーウィンの理論は学会デビューを飾った。そしてその後、ダーウィンは急ピッチで執筆に専念。より広い読者層に訴えかけるため、分かりやすい例や言葉遣いを選ぶよう配慮し、翌年に出版された「種の起源」は瞬く間に売れると同時に社会的物議を醸し出すことになる。ウォレスというライバルの存在がなければ、「種の起源」は今ほど求心力を持つ読み物にならなかったかもしれない。

* 同書の出版社のオーナーでもあるロバート・チェンバースの死後、 彼が著者であったということが判明している。

ダウン・ハウスとサンド・ウォーク
左)ダーウィンが40年間過ごしたケント州のダウン・ハウス
右)散歩道であり発見の宝庫であったサンド・ウォーク

ダーウィンの格言

その73年の人生の中で、数多くの格言を残したダーウィン。 思慮深く洞察力に溢れるその言葉の節々からも、彼の姿や生き方が垣間見える。

"Ignorance more frequently begets confidence than does knowledge: it is those who know little, and not those who know much, who so positively assert that this or that problem will never be solved by science."

無知は、博識よりも自信を与えるものである。あの問題やこの問題は科学で解決できるものではない、と自信満々に言い切る者に限って、あまり知識を持たない者だったりするのだ。

"A man who dares to waste one hour of time has not discovered the value of life."

たとえ1時間でも無駄にする者は、人生の価値を未だ知らずにいる者である。

ダーウィン豆知識

  • 1809年2月12日に生まれたダーウィン。まったく同じ日に、大西洋を隔てた米国では、後に「奴隷解放の父」と称されるアブラハム・リンカーンが生を受けた。
  • 映画「ナルニア国物語」シリーズでエドマンドを演じている若手俳優のスキャンダー・ケインズはダーウィンの子孫である。
  • 「種の起源」原稿を受け取った編集者は、より広い読者層を引きつけるため、ダーウィンに当時流行っていたハトの飼育をテーマにした本にするようアドバイスした。
  • 昨年9月、英国国教会は公式サイト上で、 当時ダーウィンに対して不当で感情的な対応をしたことに対し、約150年ぶりに謝罪。が、ダーウィンの子孫の1人は「過ちを正すというのではなく、謝罪することで気分を軽くしたいだけでは」と批判的だった。
  • 生涯で約2000人もの人々と、手紙で意見交換したと言われるダーウィン。現在、彼がしたためた手紙約5000通が、下記ウェブサイトでデジタル化して公開されている。また、同サイトには「種の起源」の直筆原稿や研究ノート、妻エマの日記なども掲載されている。darwin-online.org.uk
チャールズ・ダーウィン年表
シュルーズベリー時代
1809年(0歳) 2月12日:イングランド南西部シュルーズベリーで、6人兄弟の第5子、次男として誕生
1818年(9歳) 7月:母のスザンナが腫瘍を患い死去
シュルーズベリー・寄宿生学校時代
1819年(10歳) 9月:寄宿制のパブリック・スクールに入学
1823年(14歳) 兄と共に、召使の年棒よりも多い費用をかけて化学実験室をつくる
1825年(16歳) 6月:狩猟に夢中になり、父より学校を退学させられる
エディンバラ大学時代
  10月:医学を学ぶためにエディンバラ大学に入学
1828年(19歳) 4月:エディンバラ大学中退
ケンブリッジ大学時代
1829年(20歳) 1月:ケンブリッジ大学、クライスト・カレッジに入学。植物採集に開眼、植物学者ヘンズローに気に入られ、よく一緒に散歩するように
1832年(23歳) 1月:ケンブリッジ大学の学士号取得
6月:ケンブリッジ大学卒業
8月:ビーグル号への搭乗を持ちかけられる
ビーグル号時代
  12月27日:出航
1836年(27歳) 1月:火山噴火を見る
2月:南米チリで大地震を体験
3月:アンデス山脈を横断
9月:ガラパゴス諸島に到着
ロンドン時代
1837年(28歳) 10月:英国に帰国
1839年(30歳) 1月:エマ・ウェッジウッドと結婚
5月:「ビーグル号航海記」出版
12月:長男ウィリアム誕生
1841年(32歳) 3月:長女アン誕生
1842年(33歳) 5・6月:「珊瑚礁の構造と分布」出版
ケント州ダウン村時代
1842年(33歳) 9月:ケント州ダウン村に転居。次女メアリーが誕生するも、3週間後に死去
1843年(34歳) 7月:叔父ジョサイアが死去
9月:三女ヘンリエッタ誕生
1844年(35歳) 1月:「火山島についての地質観察」出版
1845年(36歳) 7月:次男ジョージ誕生
1846年(37歳) 10月:「南米の地質」出版。フジツボの分類に着手
1847年(38歳) 7月:四女エリザベス誕生
1848年(39歳) 8月:三男フランシス誕生
11月:父ロバート(82歳)死去
1850年(41歳) 1月:四男レオナード誕生
1851年(42歳) 4月:最愛の長女アン(10歳)死去。信仰を捨てる
5月:五男ホレース誕生。
「蔓脚類(フジツボ 類)の研究」出版
1853年(44歳) 4月:後の友人となるハクスリーと出会う
11月:フジツボの研究に対して王認学会からロイヤル・メダルを受賞
1854年(45歳) 9月:「蔓脚類(フジツボ類)の研究」2巻出版
1856年(47歳) 5月:自然淘汰説の草稿執筆開始
12月:六男チャールズ誕生
1958年(49歳) 6月:ウォレスの論文が手元に届く。六男チャールズが死去
7月1日:ウォレスと共に論文を発表
1859年(50歳) 11月:「種の起源(自然選択の方途による種の起源について)」出版
1861年(52歳) 5月:ヘンズロー死去
1862年(53歳) 5月:「ランの受精」出版
1864年(55歳) 10月:王認学会から「コプリー賞」を受賞。だが受賞理由に「種の起源」は含まれていない
1868年(59歳) 1・2月:「飼育栽培下における動植物の変異」 出版
1871年(62歳) 2月:「人間の由来と性選択」出版
1872年(63歳) 11月:「人間および動物の表情」出版
1875年(66歳) 7月:「食虫動物」出版
11月:「登攀植物の運動と習性」出版
1876年(67歳) 5月:自伝の執筆の着手
12月:「他花および自花受精の効果」出版
1877年(68歳) 7月:「同一種の植物における花の異型」出版
11月:ケンブリッジ大学の名誉学位を受ける
1880年(71歳) 11月:「植物における運動能力」出版
1881年(72歳) 10月:「ミミズの作用による土壌の形成」出版
1882年(73歳) 4月19日:心臓発作により死去。26日、ウェストミンスター寺院に埋葬される 
 

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