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Fri, 27 February 2026

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ビアトリクス・ポターの生涯:生誕150周年

「自己実現」を達成した女性の先駆け
ビアトリクス・ポターの生涯

ビアトリクス・ポターその生涯を「絵本作家」の一言で済ましてしまうにはあまりにも惜しく、誤りであるとさえ言えるほど、ポターの人生は多彩なエピソードに満ちている。そしてこれら豊かな経歴の根底に流れていたのは、今ではちょっと使い古された感のある言葉となった、ある1人の女性が「自己実現」を遂げるまでの物語だった。

両親への激しい反発

ポターの生涯では、抑圧的な両親への反発心が常に大きな位置を占めている。

彼女が生まれたのは、英国特有の貴族社会の風習をまだたっぷりと残した19世紀の裕福な家庭だった。父ルパート・ポターの仕事は法廷弁護士。とはいっても、生活収入のほとんどは遺産から入ってくるもので、紳士クラブに出入りしては世界のあるべき未来について論じる毎日を送っていた。母親は社交的かつ古風な女性で、妻は家に留まり夫が連れてくる客へのもてなしを仕事とするべきである、というようなある種男尊女卑的な価値観を持っていた。

この両親に、ポターは激しく反発した。そして彼女にとってのそれは、女性の社会的役割を制限する世間そのものへの反発をも意味していた。まだ「働く女性」の地位が確立されていない時代。ポターのような活発で才気溢れる女性にとって、あまりに窮屈な世界を体現していたのが、彼女の両親であったというわけだ。

ビアトリクス・ポター 年表
Beatrix Potter
1866年 ロンドン西部ケンジントンで生まれる
1893年 「ピーター・ラビットのおはなし」を書き上げる
1896年 休暇のため一家揃ってソーリーに赴く
1902年 「ピーター・ラビットのおはなし」を出版
1905年 ヒル・トップを購入する
1913年 ウィリアム・ヒーリスと結婚
1930年 ナショナル・トラストに加入
1943年 死去

女性蔑視の時代

実際、彼女の才能と向上心は、当時の女性に対する価値観とことごとく対立している。例えば生物学に多大な興味を示し学識も広くあったポターが「女性であるがために」生物学の講義を受けられない、地衣類と呼ばれる光合成生物の構造について新説を提唱すると、「女性であるから」という理由で公表することが認められなかった、という具合(その後彼女の仮説が正しかったことが証明されている)。現在であれば「性差別」の一言で一蹴できそうな出来事が、当時の凝り固まった価値観によって、いとも簡単に押しつぶされていたのだ。

こういった抑圧的な環境に対して、抗議の声を上げる術すら持たない状況は、ポターの内面に強固な意志と人格を作り上げた。彼女のそんな性格を如実に表すエピソードがある。ポターは幼い頃から、秘密の暗号を使って日記を書き続けていたという。彼女自身、後年になって解読することができなかったほど稚拙な代物だったが、彼女の死後、研究家たちが解読に成功。そこに書いてあったものは、一見恥かしがり屋で、物静かな少女の手によるものとは想像し難い、当時一線で活躍していた画家、作家、政治家に対して同じ時代に生きる表現者として痛烈な批判を展開した批評文であったという。

たくさんのペットと湖水地方の風景

孤独な時間も、ポターの人格形成に大きな影響を与えた。6つ下の弟バートラムは全寮制の学校に行ったが、彼女は「女だから」という両親の教育方針によって初等教育に始まる通学を一切認めてもらえず、代わりに家庭教師によって読書、作文、音楽や絵画などの教育を受けていた。極度に過保護な両親は、近所の子供たちとの交流まで禁止したという。そういった状況において、彼女が心を通わすことのできる唯一の友達となったのが、家の中で飼っていた何匹ものペット。ウサギ、イヌ、ブタ、カエル、カメに始まり、中にはトカゲ、イモリ、コウモリといった珍獣まで含まれている様は、さながら動物園のようだ。

彼女の将来を方向付けた要素が、もう1つある。それが湖水地方の大自然。貴族階級の習慣に則り、ポター家は毎年夏頃には郊外の別荘で過ごすことにしていた。その休暇の際によく訪れていたのが、湖水地方。彼女自身、インタビューで何度も自分がいかに同地の魅力に取りつかれたかを語っている。

病床で暮らす男の子へ送った手紙

親への反発、たくさんのペット、湖水地方の風景への憧憬といった様々な要素は、1人の男の子へ送った手紙をきっかけに絵本作家の才能として花開く。ポター27歳の時、かつて彼女の家庭教師を務めていた女性の5歳の息子が病に倒れた際、この男の子を元気付けようと、ピーターと言う名を持つウサギの物語を絵手紙にして送った。自ら「作品」の出来栄えを気に入ったポターは、この物語を世に発表することを決意し、「ピーター・ラビットのおはなし」の出版にこぎつける。この本が人気を集め、瞬く間に彼女は一流作家の仲間入り。また本の印税で築いた財産は、彼女の独立心を急速に高め、さらには両親との対立をさらに深めることになる。

ビアトリクス・ポターの家族
左から弟のバートラム、ビアトリクス、父のルパート

愛する者の死

両親との対立が決定的となったのは、ポターが描いた絵本の出版社社長の末っ子であり、同時に彼女の最大の理解者であったノーマン・ウァーンとの結婚を「生活のために仕事をする男性との結婚は認められない」という理由で反対された時だった。秘密裏に婚約するも、ノーマンはやがて病に倒れ死亡。彼女は辛い現実から逃れるため、没頭するものを探していたのだろう。この頃にヒル・トップを購入して、湖水地方に生活の拠点を本格的に移動。この地で農作業に従事するようになる。


ウサギの人形を持った、
5歳当時のベアトリクス・ポター(写真左)

その後は、第2の人生が始まる。研究熱心なポターの農地開発は次々と実を結び、地元では農婦としての顔の方が有名なくらいだった。また絵本に登場する人気キャラクターを使って、人形、ジグゾー・パズル、ポスターなどキャラクター・グッズを制作し、商品の販売にも力を注いだ。集まったお金で湖水地方の土地を次々と買収し、全部で15の農地を含む4000エーカーにも及ぶ土地を購入。47歳の時にこれらの土地契約をすべて引き受けた弁護士のウィリアム・ヒーリスと結婚する(ちなみに、この時も両親は猛烈に反対している)。自身の死後には彼女が保有する土地資産を歴史的建造物の保護団体であるナショナル・トラストへ寄付するよう遺言を残して、77歳で息を引き取った。

時に社会の偏見や抑圧的な両親とぶつかりながらも、自らの才能を発揮し、理解あるパートナーを得て歴史に名を刻んだポター。しかも絵本作家という、少女たちが最も憧れる仕事を通して成功を収めた。彼女がたくましく自己を実現する、現代女性の先例としていまだ認知されている所以である。

ピーター・ラビットのおはなし

「昔々あるところに、4匹のウサギがいました。彼らの名前は、フロプシー、モプシー、コットン・テイル、そしてピーター……」の書き出しで始まる物語。主人公はウサギの家族。末っ子のピーターが、母の言いつけをやぶって人間が所有する農場に忍び込んだところを見つかり危険な目に遭うが、何とか命からがら逃げ出すというエピソードが可愛い挿絵と共に描かれている。この本が大好評を得たのを受けて、ポターは「ベンジャミン・バニーのおはなし」、「ティギーおばさんのおはなし(写真)」などの物語を次々と出版し、絵本作家としての名声を得た。

取材協力: 英国湖水地方ジャパン・フォーラム www.kosuichihou.com
カンブリア観光局、Momentum Pictures

 

ジョーダン・ホワイリー選手:リオ・パラリンピック 車いすテニス・英国代表候補

2016 パラリンピック 車いすテニス・英国代表候補 ジョーダン・ホワイリー
Jordanne Joyce Whiley

ジョーダン・ホワイリー

2016年はオリンピックの開催年。今年8月からブラジルのリオデジャネイロで開幕するスポーツの祭典に世界中から大きな注目が集まるはずだ。また近年はオリンピックだけではなく、続いて行われるパラリンピックへの関心が急激に高まっている。そこで新春号では、欧州各国の注目すべきパラリンピック代表候補へインタビュー。英国からは、日本人選手と深い交友関係を築いていることでも知られる車いすテニス女子選手のジョーダン・ホワイリー選手に話を聞く。

PROFILE1992年6月11日、イングランド中西部バーミンガム生まれ。骨形成不全症のため、これまでに26回に及ぶ足の骨折を経験。3歳で車いすテニスを始める。2015年12月現在、車いすテニス女子シングルスの世界ランキング第5位。12年のロンドン・パラリンピックにおける女子ダブルスで銅メダルを獲得。15年7月のウィンブルドン選手権女子ダブルスでは日本の上地結衣選手とペアを組んで同大会連覇、9月の全米オープンでは自身初となるグランドスラム大会でのシングルス優勝を果たした。同年に大英帝国勲章MBE を受勲。父親はパラリンピックの陸上競技100Mにおける銅メダリスト。www.jordannewhiley.com

車いすテニスの最大の魅力は
健常者テニスを観るのと
ほぼ同じ感覚で観戦できること

リオ・パラリンピックに向けての準備は予定通り進んでいますか。

かなり順調です。昨年は本当に良いシーズンを送ることができました。日本の上地選手とペアを組んだダブルスでは、全豪オープンで連覇。全仏で敗退した際には非常に悔しい思いをしましたが、その後に行われたウィンブルドン選手権でやはり連覇を成し遂げました。また全米オープンでは、かねてからの悲願だったグランドスラム(4大大会)のシングルスで優勝。最高の結果を得ることができました。

一昨年より新しいコーチを迎えたことが転機になりました。彼がコーチに就いてから、テニスに対する考え方が少し変わったような気がします。今振り返ると、それまでの私は、とにかく来たボールに対して最高のショットを打ち返すということだけに集中し過ぎてしまう嫌いがありました。現在のコーチは傾向や対策をきちんと分析してくれるので、冷静に考えながら試合に臨むことができるようになったと思います。

リオ・パラリンピックでの目標をお聞かせください。

金メダル獲得です。それもシングルスとダブルスでそれぞれ金メダルを狙いたい。この大きな目標に向けて、今は正しい軌道に乗って走っているという感触を得ています。課題としては、精神面でもっと強くなること。自分には試合で勝つだけの実力が備わっていると信じています。ただ緊張を上手くコントロールできないがために、自分らしいプレーをできないことがまだあるのです。パラリンピックを迎えるまでに、強靭な精神力を養いたいと思っています。

上地選手は親友。ただ車いすテニス選手でいる限り、
対戦しなければいけない

シングルスとダブルスでは試合の取り組み方が異なるのでしょうか。

当然のことながらシングルスでプレーするときは一人きりです。試合運びで問題があれば、何をどう変えるべきかを自分自身で判断していかなければなりません。一方のダブルスでは、ペアを組んだ選手と試合中に色々と相談し合うことができるというのが大きいです。そういった意味では、ダブルスの方がより楽な気持ちで試合に臨むことができます。

2014年のウィンブルドン選手権での表彰式
女子ダブルスでの優勝を果たした、2014年のウィンブルドン選手権での表彰式にて。
写真右はペアを組んだ日本の上地選手

ダブルスでよくペアを組んでいる日本の上地選手は、シングルスはもちろん、国対抗となるパラリンピックではダブルスでも好敵手となりますね。

私にとって彼女は無二の親友。ただ車いすテニス選手でいる限り、お互いが対戦しなければいけないということは2人とも十二分に理解しています。対戦した際は、何が何でも勝つために全力を尽くす。ただコートを離れたら、また友人に戻る。

例えば私が昨年優勝した全米オープンでは、決勝の対戦相手が上地選手でした。しかも、この大会期間中に私と彼女はホテルで相部屋だったのです。結果的に私が勝ちましたが、上地選手は試合終了後に敗戦の悔しさで涙を流していました。普段であれば、友人として「大丈夫だよ。あなたは精一杯頑張ったんだから」と言ってあげたいところです。でも対戦相手がまさしく私だったわけですから、そのような声の掛け方はどう考えても不適切。彼女のために何かしてあげたいけれど、何もできないことを歯がゆく思いました。ただその後すぐに一緒に食事に出掛けたら、またいつも通りの2人に戻りましたけれど。

ホワイリー選手の身体には日本語のタトゥーがあると聞きました。

右腕に日本語で「前人未到」と書かれたタトゥーがあります。2014年に上地選手とともにダブルスで年間グランドスラムを達成した時に入れたものです。この歴史的な偉業をタトゥーという目に見える形で記念に残そうと考えていたら、上地選手が日本語で「前人未到」はどうかと提案してくれたので採用しました。

車いすテニスほど健常者スポーツとの
共通点が多いスポーツはあまりない

普段はどのような生活を送っていますか。

同じく車いすテニス選手であるボーイフレンドと一緒に暮らしています。2人でいる時間に話すのはテニスのことばかりです。練習は週日の午前10時から午後4時まで行い、週末は休み。またジムで週3、4回の筋力トレーニングを行います。私は肩を故障しがちなので、とりわけ肩周りの筋肉を鍛えるように努めていますね。

まさにテニス漬けの毎日ですね。

英国には「UKスポーツ」と呼ばれる運営組織があり、オリンピックとパラリンピック選手に対して様々な財政的支援を提供しています。英国人選手として登録され、国内または世界ランキングや大会成績などを通じて一定以上の能力があると示すことができれば、大きな財政的支援を得ることができるのです。こうした支援のおかげで、現在は車いすテニス選手としての活動に集中することができています。

車いすテニスの魅力について教えてください。

車いすテニスほど健常者スポーツとの共通点が多いスポーツはあまりないと思います。何しろルールの違いは、2バウンドまでの返球を認めるという一点しかないわけですから。健常者テニスを観るのとほぼ同じ感覚で車いすテニスを観戦できるというのが最大の魅力でしょう。グランドスラムでは既に同じ会場そして大会方式で試合を行っていることからも分かる通り、健常者選手と車いす選手の間に垣根はあまりありません。近年では特に車いすテニスというスポーツそのものに対する注目が高まっていると思います。

車いすテニスに関しては、これまでダブルスのみが実施されていたウィンブルドン選手権でも今年からシングルスが開催されます。意気込みを聞かせてください。

非常に厳しい戦いになるでしょう。ウィンブルドンの深い芝の上で車いすを動かすことに多くの選手が苦労するはずです。また同じ車いすテニス選手でも、それぞれ障害の度合いや種類は異なります。私や上地選手のように、車いすを強く押し出すために必要な腹筋を効果的に動かすことのできる選手が有利になるかもしれません。また芝コートは私たちのようにバックハンドのスライスを得意とする選手に対して有利に働く可能性もあります。逆に言えば、トップ・スピンを得意とする選手には不利かもしれないということです。

ジョー・ホワイリー選手
左:ホワイリー選手の右腕には「前人未到」のタトゥーが
右:2015年10月にはバッキンガム宮殿でアン王女(写真左)より大英帝国勲章MBEを授与された

観客は、お金を出して観戦チケットを
購入してくれた人たちなんですよ!

ホワイリー選手の父親も車いすスポーツ選手だったと聞きました。

私は骨形成不全症という骨の病気を患っています。家の中を自由に動き回ったり、近所に買い物に出掛けることはできるのですが、今でも走ったり、長時間にわたり歩き続けるには支障があります。また転倒にも気を付けなければなりません。

そんな私にテニスの楽しみを教えてくれたのが、父親でした。同じく骨形成不全症を抱える父親がイスラエルで行われた車いすテニスの大会に参加している様子を見て、当時3歳だった私も真似てみたくなったというのがこのスポーツを始めたきっかけです。以後、12歳になるまで父親が私のコーチでした。今は別々に暮らしているので、父とテニスをする機会はめっきり減ってしまいましたが、グランドスラムなどの主要な大会にはいつも応援に駆け付けてくれます。いまだに私のコーチを務めていると思い込んでいる節さえある(笑)。ただ彼自身、車いすテニスについては豊富な知識を持っているので、テニスについての悩みなどを打ち明けたり、試合直後に彼の感想を尋ねたりすることは今でも多くあります。

自国開催となった2012年のロンドン・パラリンピックについての感想をお聞かせください。

間違いなく過去最高のパラリンピックだったと思います。本当にたくさんの観客が集まってくれました。しかも彼らは、お金を出して観戦チケットを購入してくれた人たちなんですよ! テレビでも大々的に中継を行ってくれました。特に良かったと思うのが、大会が開幕する以前から、パラリンピック競技のルールなどを紹介するテレビ番組を放送していたこと。だからいざ観戦に訪れた時点では、観客はパラリンピック競技の楽しみ方を既に知っていたように思います。

ロンドン・パラリンピックに出場した英国人選手は、今や誰もが国内では有名人扱いを受けています。それぐらい、大いに盛り上がった大会でした。私は観衆で埋まった会場の雰囲気が大好き。ミスをしてしまった時にはどうしても気落ちしてしまいますが、観客の「頑張って!」とか「大丈夫、まだこれから!」という声を聞くと「よし、頑張ろう」という気持ちになるので。ほんの一言に勇気付けられることがよくあるんですよ。

競技解説 - 車いすテニス

車いすに乗ってテニスをプレーする競技。1992年に開催されたバルセロナ・パラリンピックより正式競技として認められた。2バウンドまでの返球が認められている以外では、健常者テニスのルールとの間に違いはない。また健常者テニスと同様、多くの選手が世界中を転戦。とりわけ「グランドスラム」と呼ばれる4大大会で優勝することが大きな目標の一つとなる。シングルスとダブルスという区分に加えて、四肢麻痺を始めとする重度の障害を抱える選手が参加するのが「クァード」。同区分では、ラケットと手をテーピングして固定することが認められている。
 

国枝慎吾選手、約2年ぶりの敗戦を語る

ロンドンで開催の車いすテニスのマスターズで準優勝
国枝慎吾選手、約2年ぶりの敗戦を語る

「来年戻ってきたときに、より強い自分でありたい」

上位8選手で争う車いすテニスのマスターズは6日、ロンドンで男子シングルス決勝を行い、日本の国枝慎吾選手はベルギーのヨーキム・ジェラード選手に5‐7、6‐2、3‐6で惜敗。大会4連覇を逃した。ジェラード選手とは1次リーグでも対戦し、敗北。国枝選手が2014年1月から続けていた連勝記録は「77」で途絶えていた。決勝戦終了後、思いのほか晴れ晴れとした表情で共同取材に応じた国枝選手に話を聞いた。

ジェラード選手と国枝選手
表彰式で記念撮影を行う今大会の優勝者ジェラード選手(写真左)と国枝選手(同右)
Photo: The Tennis Foundation

国枝選手にとって決勝はかなりタフな試合内容となりましたが、自身の印象は?

今日に関しては、むしろフル・セットまでよく行ったな、という内容だったと思います。こちらの出来もそれほど良くなかったですし、相手が素晴らしいプレーを続けていました。今日は完敗だったかなと思います。

自身でも苦しい展開だと感じていましたか。

球足が恐らく世界で一番速いこの特殊なコートでプレーするという点において、今回は彼に分があったかなと思いますね。彼のサーブと、特に今日はリターンもすごくキレていたので。その部分を打ち破るようなサーブを自分は打つことができませんでした。

前後に揺さぶりをかけてみたり、色々と試合中も試行錯誤を繰り返しているようにも見えましたが。

自分側は「なんとかかわしている」という戦術になってしまいました。真っ向勝負で打ち合って、勝てている場面は僕の方が少なかったと思います。

(弊誌質問)ジェラード選手には今大会の1次リーグでも対戦。この試合で約2年ぶりの敗北を喫しました。同選手との再戦を迎えるに際して、どのような課題を持って決勝には臨みましたか。

今週に関しては、自分自身のプレーが不十分なものだったので、この調子の中でどうまとめ上げていくか。1次リーグにおけるジェラード選手との試合だけではなくて、ほかの選手との対戦でもちょっと苦労していましたから。その中で何とか決勝戦まで自分自身で何とかまとめ上げたんですけれども、まとめ上げるレベルが僕の中では30%ぐらいだったかなと思います。色々な要因があるんでしょうけど、ともかくコンディショニングの面で、今回は上手くいきませんでした。

決勝での国枝選手
決勝での国枝選手
Photo: The Tennis Foundation

(弊誌質問)決勝で敗れた直後から笑顔が見られましたが。

これから悔しさがじわじわくるのかもしれないですけれども、終わった瞬間はそれほどの悔しさを感じていなくて。まず完敗だったので、「惜しかった」と思えるほどの内容でもないかなということ。また勝ち続けることはもちろん大切にしていますが、負けることで刺激を得られるというのも確かです。実際にこのマスターズでは2011年の大会でも負けましたが、その翌年の2012年はより強い自分になれました。今回の敗戦を受けて、また強くなれたらいいなと思います。

ジェラード選手は今後、意識する選手となりますか。

今年の彼は調子良かったんですよ。ずっと良いパフォーマンスをしていて、今年は各大会の決勝でも何度か対戦しました。そうした状況の中で、自分に分があるのはやはりラリー、一方の彼に分があるのはサーブ。ジェラード選手をどう攻略していくかという点については自分の中では答えは出ていたんですけれども、その戦術は今大会のサーフェスには合わなかったのかもしれない。なかなかラリーをさせてくれないコートなので。どうしても強力なサーブを持っている方が強いかなという気がしますね。自分の持ち味がなかなか出しづらいというか。もちろん、ジェラード選手があれだけ良いパフォーマンスをしているからこそだと思いますけれど。自分のプレーをさせてくれなかったかな、という感じはします。

とりわけ日本以外の国からは、今後もビッグ・サーバーが次々と出てくる可能性がありますが。

例えば健常者テニスにおいても、同じく球足が速いサーフェスのコートで行われるATPツアー・ファイナルではやはりビッグ・サーバーが強さを発揮していますよね。その辺は実は自分の中で少し慰めになっている部分もあります。違うコートだったらここまでやられはしないだろうなっていう。ただ慰めになる一方で、そこを言い訳にしてしまうと伸び代がなくなってしまいます。大事なのは、来年またこのコートに戻ってきたときに、より強い自分であることです。

決勝での国枝選手
決勝での国枝選手
Photo: The Tennis Foundation

国枝慎吾
1984年2月21日生まれ。9歳の時に脊髄腫瘍のため車いす生活に。パラリンピックにおいては、2004年の アテネ大会における男子ダブルス、08年の北京大会と12年のロンドン大会男子シングルスで金メダルを獲得。現在、世界ランキング第1位。09年より車いすテニスでは日本初となるプロ選手として活動している。。
https://www.facebook.com/KuniedaShingo
 

国枝慎吾選手インタビュー ロンドンで開催中の車いすテニスのマスターズに今年も出場

ロンドンで開催中の車いすテニスのマスターズに今年も出場
国枝慎吾選手インタビュー

国枝慎吾選手12月2日から6日までロンドン東部のクイーン・エリザベス・オリンピック・パークで開催中の車いすテニスのマスターズ「NEC Wheelchair Tennis Masters 2015」。

同大会に今年も出場し、現在世界ランキング第1位の国枝慎吾選手に話を聞いた。

国枝慎吾
1984年2月21日生まれ。9歳のときに脊髄腫瘍のため車いす生活に。パラリンピックにおいては、2004年のアテネ大会における男子ダブルス、2008年の北京大会と2012年のロンドン大会男子シングルスで金メダルを獲得。
現在、世界ランキング第1位。2009年より車いすテニスでは日本初となるプロ選手として活動している。
https://www.facebook.com/KuniedaShingo

国枝選手は現在、本大会を3連覇中です。今年の調子はいかがですか。

もちろん、身体は万全に仕上げています。この大会に照準を定めて調整してきたつもりです。

長らく王者として君臨してきた国枝選手としては、車いすテニスにおける近年の若手選手の台頭をどう受け止めていますか。

トップ10にいる選手の中では、僕も今やベテランに位置づけられるようになりました。若手選手が年々レベルアップしているとは感じます。ただ自分自身も彼ら以上に毎年レベルアップすることができている。彼らの成長以上に自分の成長があると思っています。

一方で、今年7月に行われたウィンブルドン選手権車いす部門のダブルスでは3連覇を逃しました。

テニスにおいてシングルスとダブルスは全く別物のスポーツで、僕自身はそれほどダブルスが上手い選手ではないです。そこまで驚かれる結果でもないのかな、というか。ただウィンブルドン選手権について言えば、来年から車いすテニスのシングルスも実施されるようになるので、そこに賭けたいと思っています。

芝という新しいサーフェスでの挑戦は、個々の選手のレベルを上げる機会になります。もしかすると、大会の序盤はラリーがあまり続かないということがあるかもしれない。ただ各選手は試合を重ねるごとにそれぞれの対応力を見せるはずです。

僕自身は今まで大きな目標であるグランドスラム(4大大会)で何度も優勝してきましたが、これに加えてウィンブルドン選手権という新しい目標ができたことは非常にうれしいです。

国枝選手
車いすテニスのマスターズ初戦でサーブを打つ国枝選手

2016年にはリオ・パラリンピックが開催されます。

今年はフォアハンドとサーブの攻撃力を上げることで十分にレベルアップし、来年に戦う土台はもうできたかなという感触を得ることができました。これからいくつもの細かい部分をブラッシュアップして、さらにレベルを上げていきたいです。

車いすテニスならではの魅力とは何でしょうか。

車いすテニスでは2バウンドまで許されている分、広角に打たれた際に健常者テニスと比較して守備範囲が広くなることがあるのかなと思います。多くの選手がベースラインよりも大分下がってプレーしますし。WOWOWが現在グランドスラムでの車いすテニスを中継していますが、カメラが追いきれていない場面が時々あると聞いています。健常者テニスの選手ならば追いかけきれない範囲まで車いすテニス選手が動くときがあるからでしょう。

NEC Wheelchair Tennis Masters 2015

12月2日(水)~6日(日)
£10~15
Lee Valley Hockey and Tennis Centre
Queen Elizabeth Olympic Park, London(屋内)
Tel: 0871 231 0847
最寄駅: Stratford
www.lta.org.uk/major-events/nec-wheelchair-tennis-masters

ダイジェスト読者割引

本誌読者に向けて、本大会より観戦チケットの割引を提供。左記ウェブサイトからチケットを購入する際にコード欄に「TF2016」と記入すれば、各チケットが5ポンドの割引に。また試合当日には、各選手がサインや写真撮影に応じてくれる機会もあり。詳細については当日に会場のスタッフまで。

 

フォトコンテスト2015 受賞者発表

英・独・仏 ニュースダイジェスト主催</small><br />
フォトコンテスト2015

カメラ

「あなたの夏を教えてください!」
――毎年恒例となった英・独・仏、3国の
ニュースダイジェスト主催によるフォトコンテスト。
今年はこんなお願いに対してヨーロッパを始め、
世界各国や日本で撮影された様々な「夏」の光景が
ダイジェストに寄せられました。
社内で行う第一次審査は、日照時間が日に日に短くなるこの時期に、
つかの間夏を振り返ることができる私たちの楽しみとなっています。
さて、今年はどんな作品が受賞したのでしょうか。

マチュア部門大賞

「夏。」
カステルノー キミコさんフランス

「夏。」カステルノー キミコさん

日本の夏の名物、岩牡蠣をほおばる孫に、おじいちゃんがレモンを搾ってくれています。孫は今にも岩牡蠣を食べちゃいそうですが、おじいちゃんはあきらめず、顔の前で最後の瞬間までレモンを搾ります。レモンをかけることで、もっとおいしく岩牡蠣を食べさせてあげたいと思う、おじいちゃんの愛情。孫はそのおじいちゃんのレモンの雫を待っています。おじいちゃんのすることを信じている、孫の信頼です。バックには日本の夏の色、まだ青々とした稲穂が向こうの山まで続いています。

審査員コメントマチュア部門の大賞作品を選ぶのには多少時間がかかりましたが、この作品は最初から有力候補の一つでした。牡蠣を食べる瞬間の少女の表情を絶妙なタイミングで捉えた素晴らしい作品だと思います。構図も良いですね。おじいさんが少女にどうやって牡蠣を食べればよいのか、教えてあげているかのように感じられます。ひょっとしたら彼女にとって、牡蠣を食べるのは初めての体験だったのかもしれませんね。日本ならではの光景も実に美しいです。
by Canon Europe

キッズ部門大賞

「夕日のサンドイッチ」
ヘインズ 英美理 さん(10歳)英国 

「夕日のサンドイッチ」ヘインズ 英美理 さん(10歳)

賞をもらったことを聞いてとても驚いていますが、本当にうれしいです。この写真を撮った場所は、フランスに行くフェリーの中です。夕日がとてもきれいだったので、お母さんのカメラを借りて何枚も撮りました。海と雲にはさまれた赤い夕日と、遠くに見える小さな船が気に入っています。普段は、コンパクト・デジカメで動物や景色の写真などを撮ります。これからは、かわいい草花や家族の写真も撮りたいです。

審査員コメント私たちは審査を行う際、候補作品をすべて机の上に並べて見ていくのですが、実はこの作品は私が真っ先に手に取ったものです。この作品は何より構図が優れていますね。写真を上下左右に3等分してその線上に被写体の主要素を配置する三分割法に則って、下側3分の1の部分に真っ直ぐ伸びる水平線と、その上に 帯状に広がる夕焼け、そして上側3分の1の辺りにも直線が伸びている。作品が 3つのパートに分けられていて、その明確な構図がとにかく際立っていました。by Canon Europe

マチュア部門特別賞

「実感、夏の終り。」
留岡 忠雅 さんイギリス 

「実感、夏の終り。」留岡忠雅さん

8月の最終日にウェールズで撮影した一枚です。あいにくの曇り空で、海岸には人も少なく、時折吹く肌寒い風からも短い英国の夏の終わりを実感しました。しかし、地元の方がたこ揚げや馬車の練習をするなど普段見られない光景があり、夢中で撮影していました。過ぎてゆく夏を馬車で表現してみましたがどうでしょうか? 最後にカメラ購入に協力してくれた妻に感謝しつつ、受賞を機会に「新しいカメラ買いなよ」と言ってくれるのを密かに期待しています(笑)。

審査員コメントこの作品は非常に清潔感のあるクリーンさが秀でていると思います。皆さんもこの作品がファイン・アート作品のように誰かの家の壁に飾られているのが想像できるのでは ないでしょうか。ほかの作品と比べると、繊細さが突出しているように感じられます。写真の下側3分の1の辺りに水平線が置かれ、前景には人々と馬の姿。見ていて心が休まる作品ですよね。写真の大半を占める青色も実に繊細で穏やかな色味なのが良いと思います。by Canon Europe

「ビッグ・ウェイブ」
スミス 美智子 さんイギリス

「ビッグ・ウェイブ」スミス美智子さん

8月の最後の週末に、ノース・ヨークシャーのウィットビーにあるビーチに家族で遊びに行きました。サーフボードで遊ぶ子供たちの背後を観光客でいっぱいのボートが通り過ぎようとしているのを見て「これはいい絵になる」と思い、夢中でカメラのシャッターを切りました。迫ってくる波に乗ろうと、サーフボードを構える子供たちのわくわくした感じが伝わってくる、臨場感のある写真が撮れたと思い、大変気に入っています。

審査員コメント雲が程良く漂う青空を背に、海の上を行く船と、海からの波を待ち続ける少年たち。2つの独立したテーマが、またとない絶妙なタイミングで溶け合いました。迫りくる白い波しぶきによって少年たちの姿が海に埋もれることなく、くっきりと浮かび上がり、存在感が際立っています。少年たちの中心を真ん中からずらしたことにより、画面に奥行きが生まれ、船が進む海原の雄大さが上手く表現されています。 by 宝酒造株式会社

「カラフル」
中澤 しおり さんドイツ

「カラフル」中澤しおりさん

まさか私が入賞できるとは考えてもいなかったので、まずはとても驚きました。この写真は、夏に南フランスを旅行したときに撮影した中の一枚です。古めかしさを感じるアルルの街を散策中、突然現れた鮮やかな色合いに目を奪われ、思わずシャッターを切りました。そして、夏らしい真っ青な空が 傘の隙間からのぞいている様子が、今回のコンテストのテーマにちょうど良いかもしれないと思い、選んだ次第です。入賞することができ、今はうれしさでいっぱいです。本当にありがとうございました。

審査員コメント中澤さん、入賞おめでとうございます。とっても素敵なお写真を応募いただき、ありがとうございます。鮮やかな青い空に広がる、赤や白、黄や緑の色彩豊かな傘・傘・傘!雨が全く降りそうにない青空を背景に、太陽の光を浴びる傘 の大群が配置されている、何とも不思議なシチュエーションなのに、なぜかしっくりなじんで見える魅力的な光景です。この写真を目にすると、気持ちがぱっと明るくなり、同時に夏の暑い日差しが一瞬にして思い出されます。 by Steigenberger Frankfurter Hof THE SPA

「ジャ~ンプ!」
石井 恵 さんフランス 

「ジャ~ンプ!」石井恵 さん

べルサイユでサイクリングを楽しんでいると、グラン・カナルの端から宮殿がとても小さく見えました。そのとき「ここまで来られたぁ」とはしゃいでいた娘を撮りました。景色を見るためにと首 に下げていた双眼鏡も、娘がジャンプするのと同時に、一緒に飛び上がっています。双眼鏡が宙に浮かんだ瞬間が、まるで遠くを眺めているようにも、双眼鏡が娘の顔を写させまいと邪魔をしているようにも見えて……。ユーモアも感じさせてくれる、夏の思い出の一枚となりました。

審査員コメント見た瞬間からこの写真が一番印象に残りました。何よりもまず、躍動感がありますね。どこまでも広がっていきそうな青い空、それを映して伸びてゆく水、木々や芝生の緑、その中心で思い切 り手足を伸ばしてジャンプしている女の子と、ピ ンクの洋服や靴……。全体の色合いもバランス良く取れています。双眼鏡の青い色もマッチしていますね。女の子の視線と少しずれたところにある双眼鏡が、この子のどんな未来を見ているのか、その行方が気になり、見守りたくなるような写真です。 by GUILOGUILO

キッズ部門入賞

「霧に浮かぶホテル」
渡邉 純佳 さん(11歳)イギリス 

「霧に浮かぶホテル」渡邉純佳さん

写真は8月に家族でスイスを旅行したときに撮影しました。朝、起きてホテルの窓からふと外を見ると、湖の上に霧が立ち、ホテルが浮かんでいるように見えました。山々を背景にしたその光景がとても印象的で、カメラのシャッターを何度も押していました。この写真は自分でも気に入っていたので、入賞してとてもうれしいです。今年の春からロンドンで暮らし始め、その際にデジタル・カメラを購入しました。これからもヨーロッパの様々な場面を撮影していきたいと思います。

審査員コメントキッズ部門入賞、おめでとうございます。審査では何よりこの作品の持つ雄大さに惹きつけられました。霧に覆われた山や森から、まるでお城のような形状が実に印象的な建造物、そして右手前にある、それとは対照的な近代的な建物に至るまで、いくつもの異なる層が迫力を持って連なっている構図が素晴らしいですね。どこで撮影されたのか、場所の詳細は分かりませんが、どこであれ今すぐにでも訪れたくなってしまいます! by 金田家

キッズ部門入賞

「花粉浴」
権嵯 ジョルディ さん(12歳)ドイツ 

「花粉浴」 権嵯ジョルディ さん

この写真は、アパートの庭で撮りました。僕は虫が好きでよく観察するのですが、クマバチは特にお気に入りです。この日もクマバチ が赤い花にたくさん来ていました。花の中にもぐり込んでは、全身花粉だらけになって出てくるのがとても面白くて、かわいいと思いました。賞がもらえて、すごくうれしいです。(本人)

息子は小さな生き物が好きで、日ごろからアリを観察したり、てんとう虫をそっと安全な場所に運んだり、ペットの小鳥を肩に乗せて遊んだりしています。賞をいただいたのは今回が初めてのこと。驚きつつも喜んでいます。(母)

審査員コメント応募作品はそれぞれに良さがあり、一枚を選び出すのに苦労しました。しかし、この写真の撮影者からは、特に芸術的才能を感じました。赤い花とハチというモチーフが特別な表情を生み出す一瞬を捉えるために、どれだけの時間を費やしたのでしょう。楽しみながらも集中して被写体の様子を観察していただろう姿が目に浮かぶようです。シュタイフがぬいぐるみをデザインする際も、自然の美しさを大切にしています。シュタイフのテディを喜んでくれることを願っています。 by Steiff

キッズ部門入賞

「南仏の太陽」
ギッツォーニ 管家 百合香 さん(7歳)フランス

「南仏の太陽」ギッツォーニ 管家 百合香 さん

ニースのマティス美術館の庭園で、日本人やフランス人の家族がたくさん集まってピクニックをしました。ママがお友達とおしゃべりしているとき、こっそりママのカメラを借りて、目の前で笑っていたお姉さんを撮りました。太陽が暑かったけれど、皆でおいしいものをたくさん食べて、いっぱい遊んで楽しかったです。私は写真を撮るのが大好きです! 私が持っている子供用カメラはおもちゃなので、早く本物のカメラが欲しいです。サンタさんに頼んだら、もらえるかな?

審査員コメント子供だからこそ捉えられた、この女性の自然体で優しい表 情が良く伝わってきます。写真全体が少し斜めになっているところにも、この女性を撮りたくて、そばに置いてあった親御さんのカメラを借りて思わず撮った、という思いが溢れてい ますね。写真の女性がお友達だったらどんなに楽しいだろうと想像したくなるような、彼女の魅力が伝わる一枚です。光の感じもとても奇麗で、良く晴れた夏のひとときを皆で過ごして楽しかったという様子が伝わってきます。 by パリミキ

審査員総評

毎年のことながら、今年もまた全体的にレベルが非常に高く、受賞作品を選ぶのには困難を伴いました。今回は例年に比べると日本で撮影された作品が多かったようですが、ヨーロッパ人の観点から言うと、世界の新しい一面を見られるのはいつでも楽しく喜ばしいことです。とはいえ、細部はもちろん異なりますが、テーマ自体は共通していますね。市場や美しい景色、人々の姿など……。既に高いレベルを持った応募者の方たちが多いですが、さらに良い写真を撮るアドバイスを述べさせていただくならば、撮影する際には時間をかけること、でしょうか。対象を見て、何を捉えたいのか、何を伝えたいのかを考える。そして注意深く構図を練って撮影すると良いでしょう。それと同時に、とにかく枚数を撮って練習することも大事。特にお子さんは常にカメラを持ち歩いて、楽しく、たくさん色々な写真を撮ってみてください。 by Canon Europe

受賞者と賞品

    大賞・特別賞

  • マチュア部門大賞:「夏」 カステルノーキミコさん(フランス)
    Canon Europe より Digital SLR Camera Canon EOS 750D
  • キッズ部門大賞:「夕日のサンドイッチ」 ヘインズ英美理さん(英国)
    Canon Europe より Digital Compact Camera Canon IXUS 160
  • マチュア部門特別賞 : 「実感、夏の終り。」 留岡忠雅さん(英国)
    Canon Europe より Inkjet Photo Printers Canon PIXMA MG6850
  • マチュア部門入賞

  • 英国:「ビッグ・ウェイブ」 スミス 美智子 さん
    宝酒造株式会社より 清酒・焼酎・みりんのセット(200ポンド相当)
  • ドイツ:「カラフル」 中澤 しおり さん
    Steigenberger Frankfurter Hof より THE SPA のご利用券(250ユーロ相当)
  • フランス : 「ジャ~ンプ!」 石井 恵 さん
    新割烹のレストラン GUILOGUILO より お食事券(200ユーロ相当)
  • キッズ部門

  • 英国:「霧に浮かぶホテル」 渡邉 純佳 さん
    金田家ラーメン・バーより バウチャー (50ポンド相当)
  • ドイツ:「花粉浴」 権嵯 ジョルディさん
    シュタイフ社より テディベア(Fynn, 40cm, beige)(45ユーロ相当)
  • フランス:「 南仏の太陽」 ギッツォーニ 管家 百合香 さん
    Paris Miki より Ray Ban Junior のサングラス(69ユーロ相当)

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次点作品

  • 惜しくも受賞には及ばなかったものの、審査で高い評価を得ていた次点作品をご紹介します。

マチュア 「デュッセルドルフの側転小僧、沖縄へ」 「雨の日の浅草」 マチュア「 蹴鞠」 マチュア「 夕暮れのリッチモンド公園の鹿」 マチュア「木洩れ日」 キッズ「 爆発!?」 キッズ「空飛ぶカモメ」

 

ディケンズの「クリスマス・キャロル」がかけた魔法

世界中のスクルージたちを改心させた
チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」がかけた魔法

文豪チャールズ・ディケンズが著した名作「クリスマス・キャロル」。170年以上にわたって世界中の読者を魅了し続けてきたこの作品が持つ意義は、単に英国の国民的作家が出したベストセラー書籍であるという点に留まらない。ディケンズはこの作品を通じて当時の社会を変えようとし、また何人もの人々がその呼び掛けに応じた。「クリスマス・キャロル」が残した社会的影響を振り返る。

Sources: Charles Dickens Museum,「Christmas Carol」 by Charles Dieckens,「Dickens」by Peter Ackroyd, The Daily Telegraph, The Guardian ほか

チャールズ・ディケンズと「クリスマス・キャロル」の初版左)チャールズ・ディケンズ 
右)1843年に刊行された「クリスマス・キャロル」の初版

「クリスマス・キャロル」
Chirstmas Carol - Charles Dickens

1843年12月19日に発表された、英作家チャールズ・ディケンズによる初の書き下ろし小説。物語の舞台はロンドン。主人公は強欲で意地が悪く、周囲から忌み嫌われている初老の男性スクルージ。彼がクリスマス・イブに3人の幽霊との出会いを通じて改心し、慈悲にあふれた人間へと生まれ変わるまでを描く。同作品は発売直後から大ベストセラーとなり、現在に至るまで何度も映画化または舞台化されている。

かつてクリスマスはクリスマスではなかった

今年も英国のクリスマス・シーズンが始まった。テレビをつければクリスマス・プレゼント用の商品を宣伝するCMが盛んに流れ、各地の大通りではクリスマス・ツリーと芸術的な装飾を施した冬仕様のウインドー・ディスプレーが買い物客を出迎える。英国人たちは帰省する計画を立て始 め、レストランはクリスマス・ディナーの予約受付を開始するころ。今年一年お世話になった人々に贈るクリスマス・カードもそろそろ用意しなければならない。

本来であれば最も忙しなく、そして気が滅入りそうになるほどに日照時間が短い季節だ。それでも英国人たちは、クリスマスに向けて、多少の無理をしてでも家族や友人との絆を確かめ合い、他者に対して温かくそして優しくあろうと努める。恋人同士が高級レストランで食事をする日と化した日本とは事情が異なり、英国のクリスマスにはどこか博愛的な雰囲気が漂う。

だが、私たちが知っているこうしたクリスマスの風景が形作られたのは、チャールズ・ディケンズが生きた19世紀初頭のヴィクトリア時代以降のことだという。それまで労働者階級の人々は家族そろってクリスマス・プディングを食べるといった習慣を古くから続けていた一方で、都市部の中産階級においてはそうした風習が廃れ始めていた。当時、街中でツリーを見かけることはない。カードを贈り合う習慣さえない。詰まるところ、そのころのクリスマスは、現代の私たちが知るクリスマスではなかったのだ。そして、一度は廃れかけたクリスマスを英国に蘇らせた一人が、英国の国民的作家であるチャールズ・ディケンズだった。

ゲッド・スクール ヴィクトリア時代に運営されていた「ラゲッド・スクール(ボロボロの学校の意)」。
ディケンズが訪問したフィールド・レーン貧民学校もその一つだった

社会問題が噴出していた19世紀のロンドン

ディケンズが生きた19世紀の英国は、まだ産業革命を経たばかり。急速な工業化や都市化の影響を受けて、失業者の増加、疫病の流行、スラム街の発生、長時間労働に児童労働といった都市問題が噴出していた時代でもあった。

ディケンズは、そうした一連の社会問題をつぶさに観察していた。父親の借金問題に悩まされた彼自身、12歳で靴墨工場へと働きに出ている。新聞記者時代には、機械打ち 壊し運動や農民による食料暴動といった階級対立に端を発する事件の数々に毎日のように触れていた。専業作家となってからも、イングランド北部マンチェスターや同中部バーミンガムといった工業地帯を訪問。実体験や取材を通じて知った社会の暗部を小説の中に描き込むことで、その実態を広く世に知らしめようとした社会派作家だった。

1843年10月、ディケンズはロンドン北部のカムデン地区にあるフィールド・レーン貧民学校を訪問する。福音主義者による慈善事業として運営されていた同校は、当時の児童たちを取り巻く劣悪な環境の縮図だった。生徒たちは、不潔で、非常識で、読み書きができない子供たちばかり。自ら窃盗や売春に手を染めて生計を立てている者さえいるという有様だった。

その様子を見て衝撃を受けたディケンズは、直ちに新作の執筆作業に取り掛かる。その作品こそが「クリスマス・キャロル」だった。強欲なスクルージは言わば「持つ者」。スクルージの書記として薄給で働くボブ・クラチットや、その息子である障害を持つ少年ティムは「持たざる者」。クリスマスのロンドンを舞台としたこの物語には、持つ者は持たざる者へ助けの手を差し伸べるべきという明確なメッセージが込められていた。

「クリスマス・キャロル」が世の中を変えた

「クリスマス・キャロル」は、発売後約1週間で6000部を売り上げる大ベストセラーとなった。年が明けてからも本の売れ行きは止まらなかったという。単に多くの人々がこの本を手にしたというだけではない。改心したスクルージの姿に感銘を受けて、自らも心を改めようと決心する者が続出した。

「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作者として知られるスコットランド作家のロバート・ルイス・スティーヴンソンは、同作を読了後にこれまでよりも多くの寄付を行うと宣言。歴史家のトーマス・カーライルは、人付き合いが悪いことで有名であったにも関わらず、クリスマス・ ディナーを一度ならず二度も開催するに至る。巷では「メリー・クリスマス」という挨拶が流行し、国内の寄付金額は急増。ブームは米国にまで飛び火し、クリスマス期間に全社員に対して特別休暇と七面鳥をプレゼントする経営者まで現れ始めた。ディケンズの「クリスマス・キャロル」を読んだ現実世界のスクルージたちが、小説の登場人物のように生まれ変わろうとしていたのだ。

ときを同じくして、英国のクリスマスの風景に変化を起こす様々な出来事が起きていた。「クリスマス・キャロル」が刊行された同年には、後にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の初代会長を務める発明家のヘンリー・コールが世界初の商業用クリスマス・カードを制作。その4年後となる1847年には、ロンドンの菓子職人がクリスマス・クラッカーを発明した。また1840年にヴィクトリア女王と結婚したドイツ生まれのアルバート公は、同国の伝統であったクリスマス・ツリーを飾る習慣を英国へと導入。1848年のクリスマスには、ヴィクトリア女王を始めとする王室メンバー一同が、ウィンザー城内に設置されたクリスマス・ツリーの前に集まる様子を描いた版画が大手新聞に掲載された。またアルバート公は、ウィンザー城近郊にある学校施設や軍の兵舎にもツリーを寄付。やがてクリスマスになると英国中にツリーがあふれるようになる。  

こうして、クリスマス・キャロルの刊行からわずか5年間で英国のクリスマス事情は激変。階級や住む地域を問わず、誰もが幻想的な雰囲気に包まれながら他者に対して温かな眼差しを向ける季節へと変わっていった。

ヘンリー・コール、アルバート公 左)世界で初めて商業用クリスマス・カードを制作したヘンリー・コール
右)ドイツから英国にクリスマス・ツリーを導入したアルバート公

クリスマス・キャロルに始まりそして終わる

クリスマスの物語を通じたディケンズの啓蒙活動は、「クリスマス・キャロル」の執筆後も続いた。まず彼は第二の「クリスマス・キャロル」を求める読者の要望に応じ続けるという宿命を負うことになる。彼が友人に書いた手紙には、読者たちが期待していることを知っておきながら、クリスマスをテーマとした新作を執筆しないことに罪悪感を覚えるといった内容が記されていたという。自身が編集長を務め る週刊文芸誌ではクリスマス特別号の発行を定例化。その生涯で5冊に及ぶクリスマスの物語を刊行、クリスマスの風景を描いた中短編は総計20作を超える。

またディケンズは、当時まだ極めて異例であった著者本人による朗読会を再三にわたり開いていた。最初の朗読会で選んだ著書は、やはり「クリスマス・キャロル」。かつて俳優になることを志していたこともあるというディケンズの朗読ぶりは、身振り手振りを交えながら登場人物によっ て声色を変えるといった具合に本格的なものだったという。

1870年にロンドンで開催された朗読会で「クリスマス・キャロル」を披露した際には、既に58歳になり、体調を悪 化させていたディケンズが最後に観客に向けて「これから 永遠に姿を消します」と挨拶。足踏みと大歓声が響く会場で、彼は涙を流しながら感謝の投げキスを観客席に向けて 送ったという。その3カ月後に死去。ディケンズの朗読会は「クリスマス・キャロル」で始まり、そして終わった。

彼の死から150年近くが経過した今も「クリスマス・キャロル」は増刷を続けている。そして、何よりもディケンズ が伝えようとした慈愛の精神は英国社会にしっかりと根付いている。この冬も、ツリーやウインドー・ディスプレーに彩られた街並みの中心には、きっと寄付やボランティアの手を募る各慈善団体の人々の姿を見ることができるはずだ。ディケンズがかけたクリスマスの魔法は、21世紀となった今でも、まだ解けていない。

チャールズ・ディケンズ博物館チャールズ・ディケンズ博物館にある応接間。
ディケンズはここでも頻繁に朗読会を開いていたという

「クリスマス・キャロル」で言及されているロンドンの場所

  • カムデン・タウン
    カムデン・タウン
    スクルージの書記として働くボブ・クラチットとその家族が住んでいる地域。ディケンズ自身が幼少期にこの街で家族とともに暮らしていた
  • コーンヒル
    コーンヒル
    金融街シティ内にある大通 りで、スクルージの事務所がこの近くにあるという設定。クラチットが凍結したこの道を滑り降りたと描かれている
  • マンション・ハウス
    マンション・ハウス
    金融街シティの市長の住居。物語では、この「壮大な邸宅」に住む市長が「50人の料理人と執事にクリスマスに向けての準備をさせる」と伝えている
  • ホワイトチャペル
    ホワイトチャペル
    スクルージの勘の良さについて、物語の語り手が「ホワイトチャペルの針よりも鋭い」と表現。かつて同地域では上質の針が生産されていた
  • 王立取引所
    王立取引所
    3人目の幽霊に連れられて、物語の舞台は王立取引所前へ。ここで噂話をしていた人たちの会話から、最近になって評判の悪い男が死んだことが明らかになる

チャールズ・ディケンズ博物館のキュレーター
ルイーザ・プライスさんが語る「クリスマス・キャロル」

ディケンズが生きたヴィクトリア時代の英国では、いわゆる超常現象をテーマとした物語が流行していました。ディケンズは超常現象そのものには非常に懐疑的だったようですが、物語としては関心を持っていたのでしょう。「クリスマス・キャロル」に幽霊が登場するのはそうした当時の流行を反映したものだと考えられます。

またディケンズは、クリスマスの季節に様々な家族がそれぞ れの家の暖炉のそばに集い、朗読して楽しむことができるようにと願いながらこの物語を執筆しました。あらかじめ音読されることを想定して書かれているからこそ、舞台やラジオ・ドラマの題材としても相応しい作品であると言えるでしょう。

Charles Dickens Museum
チャールズ・ディケンズ博物館

チャールズ・ディケンズ・ミュージアム

ディケンズが1837年より家族とともに住み始めた自宅。「クリスマス・キャロル」を始めとする代表作の多くがこの家で生まれた。またディケンズはこの場所で著書の朗読会も頻繁に開催したという。現在は博物館となっており、1月7日までは同作品にちなんだ数々の特別イベントを実施(要予約)。1時間のパフォーマンスや、19世紀におけるクリスマスの風景を再現したクリスマス・イブのひととき、朗読会などを開催する。

Charles Dickens Museum
10:00-17:00(12月24日までは18:00 25、26日は休館)
£12.50
48 Doughty Street, London WC1N 2LX
Tel: 020 7405 2127
Russell Square駅
https://dickensmuseum.com

チャールズ・ディケンズ・ミュージアム

「ホワイト・クリスマス」もディケンズが広めた?

「クリスマス・キャロル」は「ホワイト・クリスマス」という概念さえ私たちの脳裏に焼き付けたという。そう言われても、クリスマスと言えば雪景色という視覚イメージが既に自明のものとなった現代人にはあまりピンとこないかもしれない。だが、そもそも英国では12月末は雪が降る季節ではない。とりわけロンドンにおけるクリスマスの降雪は非常に稀な現象で、気象庁の統計によるとその確率はわずか6%。それではなぜ英国の人々は毎年ホワイト・クリスマスの到来 を願うのか。その理由の一つとして、ディケンズが 「クリスマス・キャロル」の中でホワイト・クリスマスとなったロンドンの風景を印象的に描いていたということが挙げられる。著名な伝記作家であるピーター・アクロイド氏によると、実際にディケンズの幼少期には例外的に極端に寒い冬が続き、クリスマスに雪が降ることがしばしばだったという。

 

ミレイのオフィーリアの隠された秘密。モデル、シダルの悲運とは

ヴィクトリア朝の英国を席巻した、悲恋のモデルの正体とは? ミレイの傑作絵画「オフィーリア」を解説

英国の美術史における最高傑作の一つとされる、ミレイの絵画「オフィーリア」。シェイクスピアの悲劇「ハムレット」に登場するオフィーリアの死は、様々な絵画や映画の題材となった人気の場面だ。なかでもミレイのオフィーリアは、イギリスらしい自然風景がロマンティックとも言える唯美主義的世界観を演出し、意味ありげなミステリアスさも相まって、高い人気を博している。ロンドンの美術館テート・ブリテンで展示されているこの名作には、実は、様々なドラマが隠されていた。オフィーリアのモデルを務めた悲劇のモデル、エリザベス・シダルの人生に迫る。

ミレイ作「オフィーリア」

「オフィーリア」ジョン・エヴァレット・ミレイ作

英作家ウィリアム・シェイクスピアによる「ハムレット」の一場面を主題とした作品。恋人のハムレットに自身の父親を殺されたショックで発狂した末に溺死したオフィーリアの姿を描いている。作者はジョン・エヴァレット・ミレイ。19世紀の英国で結成された芸術グループ「ラファエル前派」に属していた、英国人画家だ。英国留学経験のある夏目漱石の「草枕」にも、本作品について言及した箇所があることからも、人気の高さがうかがえる。ロンドンにある国立美術館、テート・ブリテンの常設展で見ることができる。

Tate Britain(Room: 1840)
10:00-18:00
無料
Millbank, London SW1P 4RG
Tel: 020 7887 8888
Pimlico駅
www.tate.org.uk/visit/tate-britain

ジョン・エヴァレット・ミレイ(左)テート・ブリテン

テート・ブリテンのキュレーター、
アリソン・スミスさんが語る「オフィーリア」

「オフィーリア」は、テート・ブリテンに展示されている数々の絵画の中でも一、二を争う人気作品です。死という概念を美しく表現したこの絵画が観る者を魅了するからでしょう。ミレイは、胸を打つような束の間の光景を、細部に気を配りつつ、鮮やかに描いています。

長年を経ても色褪せることのない透明感のある緑色も特徴的です。また実際に美術館を訪れ、原画を目にする多くの人々が、オフィーリアの身体の水上に浮かんだ部分と水面下のそれとのコントラスト、画面前景の水草や川岸に生える群葉の綿密な描写に驚きの声を上げます。

ミレイを始めとするラファエル前派の画家たちは、詳細を描き込み、鮮やかな色を用いた上で、背景を含む全体に均等に焦点を当てる傾向があります。「オフィーリア」においても、ミレイは主題となるオフィーリアの姿と周囲にある水草、そして川岸を飾る植物のすべてを同等に描き出しました。この均等な構図が、この作品に強烈な印象を与えていると思います。

帽子屋の看板娘から絵画モデルへの転身

ロンドン中心部のレスター・スクエア駅前。映画館、劇場、カジノ、バーといった娯楽施設が密集するこの一帯は、ときに真っ直ぐ歩くことさえままならないほどに、いつも大勢の人々で賑わっている。

今から百数十年前となる19世紀半ば、この辺りには婦人服の仕立屋が軒を連ねていた。各店は、店の前を行き交う通行人に対して激しい売り込み攻勢を展開していたという。売り込みをかけるのは、店の看板娘たち。彼女らは、店番や服作りの作業に加えて、試着モデルとしても働きながら、通りすがりの紳士や淑女たちを半ば強引に店内へと呼びこんでいた。

そんな売り子たちの一人に、赤毛が特徴的な20歳の女性、エリザベス・シダルが紛れていた。「ジンジャー・ヘア」と呼ばれる赤毛への偏見がまだ強かった時代のこと。長身で細見のプロポーションを持ちながらも、シダルは決して万人受けするタイプの美貌の持ち主ではなかったという。しかし、そのころにちょうど赤毛のモデルを探していたウォルター・デヴェレルという米国生まれの英国人画家がいた。知人の紹介を得てシダルの存在を知ったデヴェレルはこの帽子屋を訪問し、即座に見惚れてしまう。そして自身が描く絵のモデルを務めてもらうよう依頼した。つまりはスカウトだ。

ただし、その場ですぐに声をかけることができたわけではない。ヴィクトリア朝の英国においては、絵のモデルは売春婦と同じような存在として見なされていたからだ。ましてやシダルは信心深い家庭の出身。デヴェレルはシダルとその家族に対し、彼女を言わば水商売の世界に引き入れるための承諾を得なければならなかったのだ。まずは自分の母親を同伴した上で帽子屋の主人を説得する。続いて、まだ貧しく不衛生な地域と見なされていたロンドン東部サザークにあるシダルの実家へ。デヴェレルはまたしても母親を同伴した上で説明を行い、シダルの母親から許可をもらうことに成功する。これが、シダルが後に世界中に知られる絵画モデルに転身するきっかけとなった。

クランボーン・ストリート

シダルが働く帽子屋がかつてあったクランボーン・ストリート。レスター・スクエア駅のすぐ目の前にある。彼女はロンドン東部サザークの自宅からこの通りまでの道のりを毎日徒歩で通った。勤務時間は早朝から夜8時までに及び、繁忙期には徹夜作業を行うことも珍しくなかったという

ラファエル前派の間で引っ張りだこに

このころ、英国では「ラファエル前派」なる芸術グループが形成されていた。「ラファエル」とは、ルネサンス期のイタリアを代表する画家ラファエロ・サンティの英語名。それでは「前派」の「前」は何を意味するのか。

ラファエロと言えば、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並ぶルネサンスの3大巨匠の一人だ。英国の美術界でも長らく、ラファエロとその作品が古典的権威として崇められてきた。17世紀前半にはチャールズ皇太子(後のチャールズ1世)が、「ラファエロのカルトン」と呼ばれる大作を購入。バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂で特別な儀典が行われる際に使うタペストリーの下絵を意味するこの「カルトン」は以来、現在に至るまで英国の王室コレクションとして保存されている。また18世紀に王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レイノルズが「画家の最高峰」であると述べるなど、ラファエロは英国の美術界における教科書的な存在だった。

一方で、こうした美術界の潮流に反発を示す芸術家たちがいた。当時高く評価されていた絵画作品の多くは主題が聖書の場面などごく狭い範囲に限定され、さらには薄暗い色を多用するため、ときに退屈な印象を与えるという側面があったからだ。彼らは、この潮流の源泉がラファエロの作品にあるとし、彼が登場する以前のイタリア絵画に描かれた豊かな色彩と生き生きとした描写を取り戻すと宣言。「ラファエル前派」を結成し、聖書に加えて、アーサー王物語、シェイクスピア作品といった中世の物語を主題とした絵画を描いた。このグループに属していたのが後にシダルの夫となる画家で詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティや「オフィーリア」を描いたジョン・エヴァレット・ミレイであり、また彼らと深い交友を築いていたのがシダルを発掘したデヴェレルだった。

シダルの存在は、ラファエル前派の画家たちの間でたちまち評判を集めるようになり、彼女の元にモデルの仕事の話が次々と舞い込むようになる。とりわけロセッティは、シダルがデヴェレルのモデルを務め始めたその翌日に早くも彼女に接近。間もなくしてロセッティとシダルは周囲から恋人同士と認識されるようになる。

ヴィクトリア&アルバート博物館

ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で展示されている「ラファエロのカルトン」。後に清教徒革命を受けて処刑されるチャールズ1世が皇太子時代に購入したことからもうかがい知れるように、不動の地位を築いていたラファエロの絵画は英国でも高く評価されていた

慰謝料請求にまで発展したリアリズム

ところ変わって、ロンドン郊外南西部のオールド・モルデン。韓国人街として知られるニュー・モルデンの南方にあるこの街には、テムズ川の支流となるホグスミル川が流れ、緑豊かな住宅地の風景に彩りを添えている。

百数十年前のある日、ミレイはこのホグスミル川の川岸に画架を置き、ひたすら筆を動かし続けていた。不法侵入によって周囲の自然を破壊しているとの当局からの警告を受けながら、巨大な蚊が辺りを飛び交い、強風が吹きすさぶ川岸で1日11時間、週6日にわたり絵を描く生活を5カ月間続けたという。「オフィーリア」の背景となる水草や木などをつぶさに観察した上でキャンバスに描き込むための準備だった。

ミレイが描く「オフィーリア」のモデルはシダルが務めることになっていた。ただし、川岸で背景を描くだけでも困難を伴う状況下において、シダルの身体ごとホグスミル川に浮かべることはさすがにできない。そこで考え出したのが、ロンドン中心部にある自身のアトリエに備え付けられた湯船に水を張り、そこに浸かるシダルを描いた上で背景と重ね合わせるという案だった。ミレイが購入した古着のウェディング・ドレスを着用して、浴槽に浮かぶシダル。浴槽の下には石油ランプを設置し、水温を一定に保つ仕組みにはなっていた。しかし、絵の制作に没頭していたミレイはランプの灯が消えてもこれに気付かず、ひたすら冷たい水の中で我慢を強いられたシダルは肺炎症状を引き起こしてしまったという。この出来事を知って怒りを覚えたシダルの父親が、後にミレイに対して慰謝料を請求する事態にまで発展している。

ともかく、こうして紆余曲折を経て完成した「オフィーリア」は、すぐに売り手が見つかった。翌年には倍額以上の値で転売され、ロンドンの王立芸術院でも一般公開。パリの展覧会で展示された際には、既に交際関係に発展していたシダルとロセッティがそろって渡仏し、「オフィーリア」を鑑賞している。

ラファエル前派が結成された場所

ミレイのアトリエがかつてあった建物。大英博物館の近くに位置する。現在は「ラファエル前派が結成された場所」と記された銘板が掲げられている

現実のオフィーリアが生きた悲劇

「オフィーリア」は、シダルが生きていた時代に既に広い注目を集めていた。シダルに とって、この事実は同時に、売春婦扱いを受けていたモデルとしての姿を世間にさらけ出すことを意味した。絵画モデルとして働き始めた直後から交際を始めたロセッティからも十分な愛を受けないままに、シダルは残りの人生を送ることになる。  

ロセッティはシダルに対し、自分以外の画家たちのモデルを務めないよう求めていた。一方で、彼はほかの女性との交際を重ね続けてもいた。相手は、別の絵画モデルや、同じラファエル前派のメンバーの愛人など。シダルはミレイが描いたオフィーリアを彷彿させるかのように、実生活においても悲恋の運命を生きたのだった。交際期間が10年を経過してもロセッティは結婚しようとしない。彼の一方的な婚約破棄は複数回に及んだ。公然の仲であるにも関わらず、友人や家族に恋人として紹介されることもない。彼の周りには常に自分以外の女性の存在が付きまとう。

やがて健康を害し始めたシダルは、家庭薬として当時使われていた麻薬の一種であるアヘンチンキを多用するようになる。その副作用から摂食障害や鬱症状などを引き起こし、症状を収めるためにまたアヘンチンキを服用。ロセッティとの悲恋を憂うがあまりに心身のバランスを崩し、彼の関心を買うために食事を拒むという悪循環に陥っていた。

ロセッティがようやく結婚に踏み切ったのは1860年。既にシダルの体調が深刻な状態に陥ってからのことだった。結婚直後に妊娠するも死産。2人目を妊娠中だった1862年2月、シダルは一人で自宅にいる際にアヘンチンキを過剰摂取したことが直接的な原因となり、32歳で短い生涯を閉じた。

画家だけでなく、詩人としても活動していたロセッティは、シダルへの想いを綴った詩を彼女の棺桶の中に入れて埋葬した。しかし大切な作品を地中に埋めてしまったことを悔やんだロセッティは、後にロンドン北部ハイゲートにあるシダルの墓を掘り起こさせるという暴挙に出ている。悲しみと美しさを漂わせながら死んでいった悲恋の「オフィーリア」のモデルは、美しい死に姿を保つことさえ許されなかった。

ロンドン中心部ホルボーン駅近くに
今も残るロセッティの旧宅

Sources: Lizzie Siddal The Tragedy of a Pre-Raphaelite Supermodel by Lucinda Hawksley, The Times, The Daily Telegraph, Tate Britain, the Pre-Raphaelite Society Review ほか

 

フィリップ殿下、エリザベス女王の伴侶となるまでの人生

亡命、家庭崩壊、日本の降伏を目撃フィリップ殿下、エリザベス女王の
伴侶となるまでの人生

エリザベス女王とフィリップ殿下

この記事は、2019年に書かれたものです。

2019年の6月に98歳を迎えたフィリップ殿下。公務は引退しているものの、高年齢での運転で衝突事故を起こしやっと運転免許を返上するなど、若い時からのマイペース振りは健在だ。英史上最長の在位期間を誇るエリザベス女王の伴侶として、チャールズ皇太子が激しく反発した厳格な父親として、そしてときに過激なユーモアを発する好々爺として英国民から愛されてきた彼は、壮絶な人生を歩んでいた。彼の人格形成に大きく寄与したと言われる波乱万丈の生い立ちや、エリザベス女王との出会いを振り返る。

1フィリップ殿下とエリザベス女王の
ひいひいおばあさんは同じ
華麗なる家系図

フィリップは1921年6月10日、当時のギリシャ国王の弟の長男として生まれた。フィリップ殿下の父方のひいおじいさんはデンマーク王。このデンマーク王がエリザベス女王のひいおばあさんの父親、つまりはひいひいおじいさんに当たる。2人は遠い親戚関係にあったのだ。

さらに2人は、フィリップの母方の家系を通じても親戚関係にある。フィリップの母親アリスは、エリザベス女王から4代さかのぼった英国の君主であるヴィクトリア女王の血を受け継ぐ王女とドイツ系英貴族の間の子。なんとアリスは現在エリザベス女王とフィリップ殿下が休日を過ごすウィンザー城で生まれている。19世紀後半の大英帝国を率いたヴィクトリア女王は、双方にとってのひいひいおばあさんというわけだ。つまり、父方と母方のいずれの家系においても、4、5代さかのぼれば2人は同じ祖先にたどり着くということになる。

フィリップ殿下とエリザベス女王の親戚関係(家系図)

2生まれてすぐに亡命生活に突入

王位継承順位第6位のギリシャ王族として生まれたフィリップだったが、間もなくして同国でクーデターが発生し、両親と4人の姉とともに亡命生活を余儀なくされる。このとき、フィリップは生後わずか1歳6カ月。親戚関係にあった、エリザベス女王の祖父であるジョージ5世の手助けを受けながらギリシャを抜け出した一家は、フィリップの両親がロンドンでジョージ5世に謁見するなどした後で、パリ市内中心部に程近い、モンマルトルの丘とエッフェル塔が見渡せる場所に居を移した。このころフィリップの家族は、英語、フランス語、ドイツ語が飛び交う家庭環境で暮らしたという。

エリザベス女王とフィリップ殿下エリザベス女王即位60周年を祝うダイヤモンド・ジュビリーにおける水上パレードでのエリザベス女王とフィリップ殿下

3母親は躁うつ病、
父親は愛人と酒で家庭崩壊

亡命生活が始まって以後、フィリップの母親は躁うつ病のような症状に悩むようになる。またオカルトにものめり込み、グラスの上に置いた指が勝手に動いて精神世界が発するメッセージを書き表すという日本の「こっくりさん」に似たような現象に凝ったり、イエス・キリストと結婚した唯一の人間であると信じたりするようになった。日常生活を送るのが困難になったため、フィリップの母親はやがてスイスにある療養所に収容された。

一方の父親は、愛人と暮らすためにモナコへと姿を消してしまう。その不倫相手というのが、ナポレオン3世や印象派画家のマネなどの愛人だった女性のひ孫という言わば愛人のサラブレッド。また父親は、モナコで酒や賭け事にも溺れていたと伝えられている。そして4人いた姉たちは次々と結婚していった。残されたフィリップは、幼くして孤児も同然となってしまったのである。

4イングランドの寄宿制学校に転校

家庭崩壊の憂き目にあったフィリップは、母方の家族の勧めを受けて、8歳のときにパリのアメリカン・スクールから、イングランド南部バークシャーにある寄宿制の私立小学校チームに転校する。寄宿制の学校の生徒となったことで、フィリップの面倒を誰がみるかという問題は部分的に解決。学期休みの期間は、祖母が暮らすケンジントン宮殿で過ごすなどしていた。

同校への入学時には英語よりもフランス語を流暢に操ることができたといい、数学やスポーツでは優秀な成績を残した。運動神経は良かったようで、校内大会では、高跳び、水泳、飛び込みなどの種目で入賞。サッカーではゴール・キーパーのポジションを獲得、クリケットでも活躍したという。

エリザベス女王の公式誕生日2015年6月、バッキンガム宮殿から馬車でパレード

5ナチスの敬礼で笑い転げる

フィリップが13歳になったとき、ドイツ系貴族の血を受け継ぐ母方の親戚は、フィリップをドイツ南部ボーデン湖の近くにある学校ザーレムに入学させた。当時のドイツと言えば、ナチスが影響力を次第に高めていった時代。校内にはかぎ十字が描かれた旗がはためいていた。フィリップは、ナチス特有の敬礼が、同校の生徒がトイレに行きたいときの決め事となっている手の挙げ方と似ていたことから、その敬礼を見る度に笑い転げていたという。

結局、ドイツでの通学は一年で終了。ユダヤ系であったザーレムの校長がナチスから逃れてスコットランドに新設した、ゴードンストウン校に転校した。強靭な人格を形成することを主眼とする規律の厳しい男子校で、同校では航海技術の訓練が必修となっていた。ここで航海技術を習得したフィリップは、卒業後、イングランド南東部端にあるダートマス海軍兵学校に入学。ここが、エリザベス女王との出会いの場所になる。

6テニス・コートで高跳びを披露して
エリザベスを魅了

同じ祖先の血を分けた王家の親戚付き合いの一環として、フィリップとエリザベスまたその家族は、2人の結婚前から数度にわたり同じ場に居合わせたことがある。例えば幼少時のフィリップは、両親とともにエリザベスの祖母であるメアリー王太后とバッキンガム宮殿でお茶をともにしたことがあり、またウェストミンスター寺院で執り行われた親戚の結婚式にはフィリップとエリザベスがともに出席している。

しかし、2人が本当の意味で出会ったのは、フィリップが18歳、エリザベスが13歳のとき。当時の英国王ジョージ6世がダートマス海軍兵学校を訪問した際に、長女のエリザベスのお世話役を、同校に通っていたフィリップが務めることになった。容姿端麗かつ子供の扱いも上手だったフィリップは、しばらく電車のおもちゃで遊んだ後で、テニス・コートへエリザベスを誘い、そのコートに張られていたネットの高跳びを披露したと伝えられている。その間、エリザベスはフィリップから目を離すことがなく、その場でお付きの人々にフィリップの素晴らしさを語り続けたり、翌日になっても自ら積極的にフィリップに話し掛けにいったという。以後、フィリップが親戚付き合いなどを兼ねて王室関連行事に出席する度に、エリザベスは彼への関心を高めていった。やがて周囲では2人の結婚についての可能性がちらほらとささやかれるようになる。

エリザベス女王の公式誕生日エリザベス女王の公式誕生日祝賀パレードでバッキンガム宮殿前に集まった人々に手を振る

7日本の降伏文書調印を目撃

ダートマス海軍兵学校を卒業したフィリップは、士官候補生として英海軍に入隊。第二次世界大戦に従軍した。戦争中は着実に昇進を重ね、その間、既に恋仲となっていたフィリップとエリザベスは遠距離恋愛を続ける。フィリップはエリザベスの写真を航海中の船室内に掲げ、またエリザベスは宮殿内の一室にフィリップの写真を置いていた。変な噂を立てられてはいけないからとお付きの人間に自重を求められると、エリザベスは顔中に髭をたくわえたフィリップの写真に差し替えて「これでも誰の写真か分かるという人がいたら無視する」と言い放ったという。

当時の日本と英国は敵国同士。フィリップが乗艦していた駆逐艦は日本との戦闘に関わる作戦にも参加し、1945年に日本が降伏文書を調印する場となった米国の戦艦ミズーリ号の警護も担当した。また日本が香港総督府で英軍への降伏文書に調印する際には、フィリップもその場に居合わせたという。

8何もかも捨てて様々な障害を乗り越える

終戦後間もない1946年の夏、フィリップはエリザベスの母親に誘われて、バルモラル城で3週間の休暇をともに過ごした。このときにエリザベスに求婚したとされている。

2人が結婚に向けて本格的に動き出したときに周囲から問題視されたのが、彼の粗野な振る舞いと、ギリシャ生まれでドイツ系の家系という出自だった。とりわけ後者に関しては、戦時中のナチス・ドイツの行いについての印象が英国内でまだ根強く残っており、また王室関係者の間では妬みややっかみからフィリップの悪評を広めようとする者たちがいたという。当時行われた世論調査でも、2人の結婚に対する賛否がほぼ真っ二つに分かれ、反対意見の中には外国の王家との結婚に異を唱える声が含まれていた。

こうした声に応えるかのように、フィリップはこの年の冬、戦時中に英軍に従軍した外国人枠を利用して英国に帰化を申請。翌年の春にはこの申請が認められたと発表された。またギリシャ及びデンマーク王子の称号を捨て、ギリシャ正教から英国国教会に改宗、ナチス関係者と結婚した者も含まれていたという4人の姉妹は、エリザベスとの結婚式に招待さえされなかった。こうした困難を経て、フィリップが26歳、エリザベスが21歳のときに、2人は晴れて結婚。1952年にエリザベスが女王となってからは、フィリップも女王を支える良き伴侶として、現在に至るまでの人生を歩み続けているのである。

新婚旅行1947年、新婚旅行において、エリザベス女王と散歩を楽しむフィリップ殿下

2019年、図らずも
変わらぬ健在ぶりを披露した
フィリップ殿下

フィリップ殿下

2017年の夏に正式に公務を引退したフィリップ殿下だが、その後もヘンリー王子やユージーン王女の結婚式で、そのかくしゃくとした姿を見せている。一方で2019年1月には、自ら運転するランド・ローバーで追突事故を起こし、自分の車を派手に横転させるという事件も起こし、国民を驚かせた。

衝突事故を起こすも無傷だった

事故は1月17日、英東部サンドリンガムのエリザベス女王の私邸近くのT字交差点で発生。相手の車に同乗していた2人の女性が重軽傷を負った。フィリップの車は横転したが、怪我はなかった。フィリップは「あの交差点は何度も使っているが、日差しが強く、近づいてくる車が見えなかったとしか思えない」と釈明している。その後、各種タブロイド紙は、この事故で被害に遭った女性がフィリップ本人から何の謝罪の言葉もないことに不満を感じていると相次いで報道。やがて、1月27日付の日曜紙「サンデー・ミラー」は、フィリップが「大変申し訳ない」と謝罪の手紙を送ったことが分かったと報じ、ミラー紙も「彼は説明を尽くそうと努めており、そのことに感謝する」と女性の言葉を伝えた。

97歳、しぶしぶ運転免許返上

王室は2月9日、フィリップが運転免許証を返上したと発表。フィリップは交通事故を起こした3日後に、新しいランド・ローバーをシートベルトも締めずに運転する姿が写真に撮られるなどして、批判を浴びていた。王室は声明で「慎重な検討の結果、殿下は免許証を自主的に返上することにした」と説明。事故の後、フィリップはエリザベス女王やチャールズ皇太子からひどく怒られたようだと、タブロイド紙が報じた。ちなみに天皇陛下は85歳の誕生日に運転免許の更新を行わず、そのまま失効させている。

訴追は見送りに

自動車を運転中に衝突事故を起こしたフィリップについて、検察当局は2月14日、訴追しない方針を明らかにした。声明によれば、検察は警察の捜査情報に基づき、事故の状況を精査したが、殿下の年齢などを考慮し、訴追が「公益にならない」と結論付けるに至ったそう。

車の破片がeBayに出品される

1月17日の事故の数日後、フィリップの車の一部が、ネットオークション・サイトのeBay に出品されていたとBBC が伝えた。

eBay の出品情報欄には、「フィリップ殿下のものと思われる血液が付着しているので、殿下のクローンを生むこともできる」、というジョークのほか、「売上げはチャリティー団体のキャンサー・リサーチUK へ寄付する」と書き込まれていたという。この破片の価値はともかく、その入札件数は139件を超え、入札価格は破格の6万5900ポンド(約929万円)に達した。しかし現在は同サイトのポリシーにのっとり出品は取り下げられており、フィリップの事故車の破片は幻のアイテムと化した。

事故現場2019年1月18日、事故現場で車の破片を撮影するメディア関係者たち

Sources: Young Prince Philip: His Turbulent Early Life by Philip Eade、The Independent「A strange life: profile of Prince Philip」、Daily Mail「Extraordinary picture which captures the moment Prince Philip met the Queen for first time when she was just 13」、BBC「Prince Philip: The Iron Duke」、英王室公式ウェブサイト、戦艦ミズーリ記念館、BBC「Prince Philip unhurt in crash while driving」、The Sunday Mirror「Prince Philip's apology letter to car crash victim in full」、BBC「 Prince Philip crash: Debris for sale on eBay」、時事通信ほか

 

今井美樹インタビュー - ロンドンの「色」が加わった旅の軌跡

今井 美樹 ロンドンの「色」が加わった旅の軌跡

今年1月に満を持して行われた、ロンドン初となるコンサートは、大成功のうちに幕を閉じた。5月には、英国で制作したオリジナル・アルバムを発売。こちらでの生活も丸3年が経過した。今年、デビュー30周年を迎える歌手・今井美樹。英国で地に足をつけ、着実に積み重ねてきた日々の結晶が、彼女の歌手人生に 新たな輝きを添えつつある。ロンドンで日常を過ごす自宅で、この地での音楽活動、そして30年という歌手人生の軌跡を振り返ってもらった。
(本誌編集部: 村上 祥子)

MIKI IMAI 1963年4月14日生まれ。宮崎県出身。モデル、女優としての活動をスタートさせた後、86年に「黄昏のモノローグ」で歌手デビュー。数々の連続ドラマに主演する一方で、「瞳がほほえむから」(89年)、「PIECE OF MY WISH」(91年)、「PRI DE 」(96年)などの大ヒット曲を生み出した。2012年8月、家族とともに来英。2013年にユーミン(松任谷由実)のカバー・アルバム「Dialogue」をリリース。今年1月にはロンドンのカドガン・ホールでコンサートを行い、大好評を博した。5月にオリジナル・アルバム「Colour」を発表。10月にはデビュー30 周年の集大成となるベスト・アルバム「Premium Ivory-The Best Songs Of All Time-」がリリースされた。

ロンドンの中心地から少し離れた住宅地。
外はあいにくの雨模様ながら、大きな天窓のある室内は明るい。
真っ白な壁とテーブルの向こうに広がるガーデンには、
小さな実がたわわに実ったリンゴの木々。
見慣れぬ人々の姿に落ち着かないのか、ドーベルマンのルーリーがせわしなく足元を歩き回る。
たくさんのクッションが連なるソファには
前日、ルーリーそっくりの犬の模様が施されたものが仲間入りした。
キッチンに置かれたCDプレイヤーは、途切れることなく音楽を奏で続ける。
歌手・今井美樹がロンドンでの日々を過ごす日常の風景がここにある。

指が折れそうになるくらい
握り締めた手のひら

家族そろってロンドンに移住したのが2012年夏のこと。それから約2年半のときを経て、今年1月、今井美樹はロンドンで初めてのコンサートを行った。開催場所となったロンドン西部の瀟洒(しょうしゃ)なコンサート・ホール、カドガン・ホールには、スーツ姿のビジネスマンを含む日本人がずらり。筋金入りの今井美樹ファンはもちろんのこと、ファンでなくともこれまでの人生に何らかの形で彼女の歌に触れてきた人たちが集まった会場には、熱狂とも違う、ようやくここロンドンで今井美樹の歌声を聴くことができるのだという期待が満ちていた。舞台上では、ロンドンに生活の拠点を移してから制作した2枚のアルバムにサウンド・プロデューサーとして関わってきたミュージシャン、サイモン・ヘイルが一曲目の前奏を弾いている。やがて、舞台袖から今井美樹がその姿を現した。

「正直、不安安だらけでドアを開けたんです。サイモンがピアノを静かに奏で始めてくれている中で私が出て行ったときにね、本当に温かい拍手をいただいて。誤解を恐れずに言うと、こんなにお客さんの拍手が温かいって感じたのは初めてだったんですよ。待っていたよっていう気持ちというか、エネルギーが拍手の中に込められていた気がして。もちろん日本でライブをするときも皆さん待っていてくださるし、いつも喜びは感じています。ただ、自分自身がこちらで暮らしていて、アンテナが 少し違う何かをキャッチするようになっていただけかもしれないけれども、同胞感というか、皆が自分の生まれ育ったところではない新しい場所で、それぞれの暮らしの中、一生懸命に日々を過ごしているというつながりをすごく感じたんですね」。

一曲目は1989年にリリースされた「瞳がほほえむから」。ただでさえ歌い始めが緊張感を伴う曲なのに、その温かさに一瞬にして包まれて「親指が折れそうになるくらい、ぎゅっと手のひらを握り締めて痛みを感じていないと気持ちが溢れ出しそうになってしまった」。そんな極限の状態で今井美樹の口から流れ出た歌声はしかし、どこまでも伸びやかで、あっという間に観客を自分の世界に引き込んだ。

今回のコンサートに足を運んでくれた大多数は「初めて会うでしょうという方たち」。本来ならば曲目選びには慎重になるべきなのかもしれないが、「私の曲たちは初めて聴いてもいい曲だねって心に残るものが多いと信じている」から、あえて人気の高い曲だけをそろえるということはしなかった。ときにはピアノの伴奏のみでしっとりと、ときにはカルテットとともに華やかに、過去の代表曲から新曲までを歌い上げ、「歌よりも緊張した(笑)」という英語のMCも取り入れたひととき。「丁寧に歌うことで日本語の言葉の響きを皆さんに伝えることができれば」と言う今井美樹の歌は、異国の地であるロンドンで、確かに観客の耳ではなく、心に届いていた。

今井美樹 © IM Official Fan Club
今年1月、ロンドンで行われたコンサートで歌う今井美樹

ロンドンの「色」に抱かれて

コンサートの中で一曲、異色とも言える曲があった。夜のしじまに大切な人に優しく語り掛けるような歌詞には今井美樹らしさが溢れている一方で、その「ミュージカルのような」旋律が新鮮な驚きをもたらす「Lullaby Song ~一日の終わりに~」。コンサートでピアノの伴奏を務めたサイモン・ヘイルが作曲し、今年5月に発売された6年ぶりのオリジナル・アルバム 「Colour」に収録されている作品だ。

「サイモンは日本の作曲家のつくってくれた曲も『これ本当にいい曲だね』と言ってピアノで奏でてくれたり……『ああ、音楽に国って関係ないんだな』って思ったんですけれど、同時にあの曲は日本人がつくったものではないなという気はしますよね。それがイギリス的であるのかどうかは、私にはまだ分かりません。ただサイモン的ということは分かる。そうした曲が一曲入るだけで、ほか は今までと同じような選曲でも、違う色が差し込まれた。『ザ・ロンドン』という風にこれ見よがしなことはしたくないし、できないけれど、これからこうやって少しずつ差し色が入ることによって、ロンドンで生活しながら表現者として何かが変わっていくのが自然に伝わるんじゃないかと思います」。

インタビューを続けるうち、外では雨足が強くなってきたが、ビタミン・カラーの花が飾られた真っ白な室内は相変わらず清潔な明るさに満ちている。キッチンに置かれたプレイヤーからは、「Colour」のメロディーが流れ出す。丸3年が経ったロンドンでの生活。ちょうど今から一年前のインタビューで、「(来英)当初も今もアップアップ」と語った今井さん。この間はガーデンで見つけたカエルの卵の処理に四苦八苦して……と苦笑しつつも楽しそうに語るその姿からは、この街に根付きつつある様子がうかがえるが、やはり今でも「アップアップ」なのだとか。そんな彼女を来英当初から変わらず支えてくれているのがこの街を彩る様々な「色」だ。

「オリジナル・アルバムを作りましょうとなったときに、最初はロンドンで特別なことは何もしていないから、何も言うことがないって思ったんです。でも日常って3年近くの時間が繰り返されていくと、少しずつだけれど変化があるんですよね。自分では分からなかったけれど、作詞をお願いした方と話していると、『前の美樹ちゃんとは違う』って敏感に感じ取ってくれて。私自身も曲をつくる段階で、毎日はこんな風にさりげないけれど、気付いたら見える景色の色がこんなにも変わっているって凄いと感じたり。このアルバムに関しては、できるだけロンドンで感じたさりげなさを大事にしたかったので、日本とロンドン、何が一番違うかと考えたんです。そうしたら、ロンドンに来たときに『何て美しい色!』って感動したカラフルな色みだなって。だから音楽としてのカラフルさというより、カラフルなロンドンの日常にある様々なものが私たちをさりげなく刺激してくれている、その『色』を自分の記憶に留めておきたくて、タイトルも『Col our』としたんです」。

日本と英国、どちらにも偏らず
半々にしたかった

アルバム「Colour」の制作が決まった段階で、レコーディングをすべてロンドンで行うことは現実的に見ても「自然な流れ」だった。次に考えるのは、誰に曲を発注するか。今やロンドンに拠点を置き、英国に音楽仲間も出来た。だから当然、ロンドンのミュージシャンにすべてを委ねることも考えられたが、今井さんはそうはしたくなかったのだと語る。

「ミュージシャンやプロデューサー陣はイギリスの人たちで全く問題なかったのだけれど、作曲に関してはイギリスと日本、半々にしたかったの。私の今までの曲たちを担ってくれた素晴らしいクリエーターが日本にいる。イギリスのチームにも日本チームの素晴らしさを感じてほしいと思ったんです。だからどちらかに偏るのではなくて、作曲は半々。日本の作曲家がつくってくれた作品をこちらのプロデューサーがアレンジしてくれているのですが、素材が同じでもシェフが変われば料理も違ってくるじゃないですか。だからこそ素材のおいしさにはこだわりたくて、今井美樹の一時代を築いてくれたといっても過言ではない上田知華さんと作詞の岩里祐穂さんにもお願いして、奇跡的に当時のトライアングルも再現できました。日本でレコーディングしていたら、この出会いはなかった気がします」。

日本からディレクターが来英するたびに集中的に作業を進め、すべての行程が終了するまでにかかった時間は延べ5カ月。途中で歌い直したこともあれば、全体のバランスを見て追加した曲もあった。「もう少しスパイスを足すとしたら何がいいだろう。もうちょっと寝かせたら育っていくかしら」――こうした形しか取れなかったということもあるが、そうやって、瞬発力に頼るだけでなく、自分のアルバムを見つめ直しな がら完成までもっていくことは大きな挑戦だったし、 制作する上での理想形だとも感じた。ロンドンで表現者としてやっていくのに、まだ自信があるわけじゃない。だからこそ、手の届く周りの大切なものを拾い集めるしかなかった。

「一つひとつは小さな粒々かもしれないけれど、そうしたものが自分を支えて、背中を押してくれているという事実に気付けただけでも幸せだし、それを形に残せたというのはラッキーだったと思います」。

たくさんの「あのころ」

「えっ、どうして今!?」――今年の春、ロンドンにやって来たディレクターから、10月にベスト・アルバムを出したいという打診を受けたとき、まず口を突いて出たのはそんな言葉だった。5月にオリジナル・アルバムをリリースしてまだ間もない。今年はデビュー30周年という、歌手・今井美樹にとっては記念すべき年。ベスト・アルバムを出すには最適のタイミングとも思えるが、何と30周年であることを忘れていたという今井さんにとってこの提案は、青天の霹靂(へきれき)以外の何物でもなかった。それでも最終的にゴー・サインを出した背景にあったのは、「Colour」の存在だ。

「『Colour』のレコーディングをしているときに、懐かしい気持ちになることが多々あったんです。それは懐かしい音楽をつくっているという意味ではなくて、若かったころの『あの曲が好き、この曲が好き』という音楽ファンとしての思いや、こんなことにトライしたいって一生懸命音楽に向き合っていた気持ちを何度も思い出したんです。『ああ、あのころはこんなことがやりたいって思っていたんだ』ってレコーディングをしながら感じたの。それまでは一生懸命ただ前に向かって進んでいたから、後ろ向きな気がしてあまり振り返りたくなかった『あのころ』。でも決してネガティブなことじゃなくて、色々な『あのころ』が全部積み重なって今につながっているわけだから、『あのころ』を否定すること自体が無理をしているんじゃないかって思えたんです」。

「Colour」のプロモーション活動で東京にいたとき、ラジオ番組のナビゲーターたちがこのアルバムについて話を聞きたいと心から思っていることがひしひしと感じられた。彼らの多くは、いわゆるバブル時代と言われた80~90年代、洋楽からJポップまで様々な音楽が街中に溢れていたときに、それぞれ好きなジャンルを浴びるように聴いて過ごしてきた人たち。音楽を聴く暇がなくなった今でも、わくわくしたいと思う種火だけは残っていて、その種火に火が灯ったようだっ たと今井さんは目を輝かせる。それまでは「若いころに聴いていた今井美樹の音楽なんて恥ずかしいから聴かないで」と思っていたが、そんな今井美樹の「あのころ」を大切に感じながら見つめていてくれた人たちに、彼らが聴きたい音楽を、彼らがふっと笑顔になる ような瞬間を詰めて届けたい、そんな風に感じられるようになった。それが今井美樹のデビュー30周年の 節目を飾るベスト・アルバム「Premium Ivory」がつくられる序章となる。

「『今井美樹』を感じてほしい」

「すごく気持ち良く聴いてもらえるベスト・アルバム」。10月にリリースされる「Premium Ivory」は、ベスト・ソングをセレクトしたというよりも、「『今井美樹』を感じてほしい」という思いでつくられたもの。今井さんいわく、稚拙な部分はあるものの、真っ直ぐ伸びやかに歌っていたころの煌めく瞬間が記録として残されているものを丁寧にリマスタリングして仕上げた「贅沢なベスト」だ。

30年分の膨大な曲の中から、まずは今井さんがセレクトし、その後さらに「断腸の思い」で厳選した曲をディレクターが最終的な形にまとめ上げた。ディレクターは同世代で、2013年リリースのカバー・アルバム「Dialogue」のころからの付き合い。長年、仕事仲間として関わってきたのではなく、学生時代に歌手・今井美樹の歌に接してきた人物の視点が新鮮だったし、「客観的な人の目や耳って大事なんだな」と感じたという。「良い曲だとか、思い入れのある曲だという 理由で選んでいくと、だいたい似てきてしまうんです。今回は『えっ、何でこの曲を選んだの?』と驚くこともあったのですが、アルバムとして通して聴くと気持ち良く聴けるの。好きです、自分でも。気付いたら何度も何度も聴いてる」。

リマスタリングを担当したのは、数々の大物ミュージシャンのレコーディングやマスタリングを手掛ける オノセイゲン氏。「本当に丁寧にレコーディングされているから、できるだけ当時の良さを生かして、ほんの少し手を加えるだけ」というスタンスで行われたリマスタリング作業は、一曲目の「PIECE OF MY WISH」から始まった。

「すごく大きなスピーカーから時代の匂いがプンプンするその曲が流れてきてきたときに、一つひとつの音が何て芳醇で、丁寧につくられているんだろうって。新しい何かと出合いたくて歩き続けていたから、あまり好きじゃないと思っていた当時の自分の声も含めて、あの時代の中で勢いがあったときに生まれた音楽というのはやっぱりあって、本当に良い曲を素晴らしいスタッフがレコーディングしてくれていたんだということを改めて目の当たりにして、何だか、ごめんなさいっていう気持ちになって号泣してしまいました」。

若気の至りで様々な人を傷つけてしまったこともあっただろう。まい進することしか考えていなかったあのころの自分に真剣に向き合ってくれた人たちに申し訳ない。そんな思いで涙が止まらなくなった今井さんだが、過去と対峙し、打ちひしがれ、その感情を素直に受け止められたことで気持ちがすっと楽になった。「それぞれの時代が色濃く残っていて、30年を駆け足で振り返るときに気持ち良く感じられる軽やかなベスト・アルバム」。このアルバムを聴くとき、私たちは「卒業式で同級生と一緒に歌った」「大切な人と出会ったそのときに流れていた」「もうだめだとボロボロに傷ついたときに支えてくれた」と、自分自身のいくつもの「あのころ」を思い出すのかもしれない。

今井美樹コンサート
今年1月、今井美樹のロンドン初となるコンサートが行われたカドガン・ホール

旅の途中

30年という長い長い年月を、歌手・今井美樹として音楽とともに歩んできた。「迷いながら、回り道をしながら、色々と旅をしてきて、ようやく『Colour』にたどり着いた気がします。でも反省する点は山のようにあって。こう考えているということは、またトライしたいって思っているんですよね。これからも旅は続くけれど、30年という結構な旅を続けてこられたということにまず感謝。迷ったときに、大切だったキラキラしたものを意識的に捨ててしまったことがあるかもしれないけれど、この世代だからこそ見えてきたものもある。今回のベスト・アルバムで今までの曲たちを振り返り新鮮な気持ちで見つめ直せたことで、それらがまた新しいものになるんじゃないかという気がしています。同じ曲をセレクトしてライブをしても、自分自身での鮮度が違う。この気持ちがこれからどう影響してくるかが楽しみです」。

10月からは日本各地8カ所を回るツアーが行われ、来年1月には前回と同じ、ロンドンのカドガン・ホールでのコンサートも予定されている。去年はビギナーズ・ラックだったけれど、来年はもう一度同じ方たちが来てくださる可能性もあるからプレッシャーはある、そう語る今井さんだが、常に微笑みを絶やさずに音楽への思いを語るその表情からは、また歌うことができるという喜びだけが真摯に伝わってくる。次回はほかのミュージシャンや英語の曲を入れるのかという質問に、「そういう余裕があるなら、一曲でも多く自分の歌を届けたい」と即答する彼女にとって、これまでの30年をともに生きてきた自分の曲はまさに人生の宝物。コンサートで私たちは、その宝物を笑顔でそっと優しく手渡されることになるのだろう。

今はまだ旅の途中。歌手・今井美樹の旅、そしてロンドンで生活する一人の女性、今井美樹の旅はこれからも続いていく。ロンドンでの生活が始まってからの3年は「もう」とも言えるし、「まだ」とも言える。年月を重ねていくうちに、ロンドンの街の「色」もまた変わって見えてくるようになるかもしれない。これから彼女の目の前に伸びていくことになる旅の軌跡がどのような色に染まるのかは誰にも分からないけれど、きっと音楽がその道程を支えてくれるに違いない。

MIKI IMAI New Year Concert
30th Anniversary Special

2016年1月30日(土)19:30
2016年1月31日(日)18:30
£35~42
Cadogan Hall 5 Sloane Terrace, London SW1X 9DQ
Tel: 020 7730 4500(Box Office)
Sloane Square 駅
www.cadoganhall.com


 

オープン・ハウス・ロンドン 2015 - 建築物を無料で公開

オープンハウス 9月19日&20日 OPEN HOUSE LONDON 2015

www.openhouselondon.org.uk

初秋を飾るイベントとして、毎年人気のオープン・ハウス・ロンドン。心地良い生活環境づくりに貢献する建築は、使って快適、見て美的でなければならない。土地の個性をうまく取り込み、人々のニーズを深く考察し、効率的に体現。それはときに古いものを生かす知恵や工夫であり、日々刷新する技術の実行でもある。都市生活を支える「ロンドンの骨組み」を体感できる週末、建築を巡る一日はいかが? (文: 山内ミキ)

※今回取り上げた場所はすべて先着順で入場、混雑状況により屋外で並ぶ場合あり

行ってビックリ!アートなハウス編

アート・インスタレーションや芸術活動が娯楽、はては観光資源として幅広く認知されるロンドン。既存の設備をうまく利用した、想像力豊かな試みが花開く。建築物という大掛かりな題材に果敢に挑戦するアーティストたち。それらを具現化する都市の懐も広くて驚かされる。

デザイナーの頭の中を拝見
House of Antoni & Alison

House of Antoni & Alison

エッジーで茶目っ気のあるデザインが長年人気のファッション・ブランド、アントニ&アリソンの本拠地は4階建てのジョージア朝スタイル。建物にぞっこん惚れ込んだという2人組が、10年かけて内部を改造した。オフィス&スタジオでありながら、家にいるような居心地の良さを目指したそうだ。廃屋同然だった建物だが、インテリアには再利用品を活用。デパートの改装時にゴミとして出た50年代の照明や、ビートルズのメンバーが楽屋で座った椅子なんていうものもある。彼らのユーモア・センスが見え隠れするアートのディスプレーも魅力的で、クリエイティブな彼らの頭の中身をのぞく絶好のチャンス。当日はチャリティー目的のティー・ルームもオープンする。

9月19日(土)10:00-17:00
定時開催のツアー形式で入場
80 Southwark Bridge Road SE1 0AS
最寄駅: Borough

おらが芸術村はポップでエコ
Village Underground

Village Underground

Village Undergroundジュビリー線の4つの車両と貨物コンテナが、アーティストのスタジオに。石炭が収納されていたビクトリア時代の倉庫は、コンサートや展示が行われるカルチャー・センターに再利用。1848年建設の鉄道高架橋の上下に設けられたアート・ビレッジだ。ロンドン中心部でアーティストが手ごろな値段で利用できる活動拠点として、2007年にオープン。スタジオの電力はすべて風力発電でまかない、階段や床などにもリサイクル品が使われている。ポップで完成度の高い車両のグラフィティだけでも、一見の価値あり。ライブ・イベントが頻繁に行われる煉瓦の倉庫は天井が高く、音響システムも良好。ブランド・プロモーションや結婚式など、一般にもレンタルされている。

9月19日(土)10:00-17:00
54 Holywell Lane EC2A 3PQ
最寄駅: Old Street / Shoreditch High Street

船が彫刻である現実
River Sculpture / Studio (Slice of Reality)

River Sculpture船底の空洞部分までCTスキャンのようにスッパリと切り取られ、船首と船尾がなく真ん中だけが残された船舶。ミレニアム祝祭時に彫刻家リチャード・ウィルソンが作った「住める」アート作品だ。イベントが終わった後に主催者側から撤去申し渡しがあったそうだが、テムズ河上はその管轄外としたアーティストの意思を酌んで残されたのだとか。内部には居住スペースだけでなく、スヌーカー・テーブルもあるというから、何だか住み心地は良さそう。この日は特別に桁 けたばし橋が架かり、船内を見学することが可能。「一片の現実」という名が付けられているこの作品は、ロンドンの繁栄を支えてきた商業船を讃えるためにつくられたとか。スライスされた断面はグリニッジ子午線のほぼ延長線上にあるそうだ。

9月19日(土)10:00-17:00
Thames Path, Meridian Gardens,
nr Drawdock Road,
Blackwall Point, Greenwich SE10 0PH
最寄駅: North Greenwich

住んでみたいなこんな家編

どれだけ足して、どれだけ引くか。再利用や環境保護、そして個人的な嗜好に合わせて建築家が提案する、様々な住居の形。持ち主や用途が変わりながら長い年月を経た家は、トレンドを取り入れてどんどん変化している。 今どきのライフスタイルがしっくりとハマる家づくりだ。

厩(うまや)がディスコに大変身?
Hidden House

Hidden House

元々は厩(うまや)であった家が、グラマラスな4階建てに大変身。地下には広大なリビング・ルームに、ナイトクラブ仕様のダンス・フロア、中庭には池や滝まである。テレビ番組「グランド・デザインズ」でも紹介された。今どきの洒脱な都市生活は、もちろん環境にも留意。太陽光発電や水再利用装置、高気密・高断熱性の壁と床、とすべてにおいてカンペキだ。

9月20日(日)10:00-18:00
解説付きツアーを定時に実施(最終入場は17:45)、入場時は靴を脱ぐこと
39 Russell Garden Mews W14 8EU
最寄駅: Kensington Olympia

楽しいスタイルは大家族式
Style Council

Style Council

英国の公営住宅カウンシル・ハウスの中でも特に歴史の古いこちらは、第一次大戦後に建設されたもの。昨年改築され、竹製のスライド・スクリーンや中吊りの階段、スタイリッシュな出窓などを用いた楽しい家に仕上がった。エアリーな印象が素敵な南向きの大きなリビング、そして「グラニー・リフト」(おばあちゃん用エレベーター)を持つ三世帯住宅になっている。

9月19日(土)10:00-17:00
10:00より30分ごとに解説ツアーを実施(最終入場は16:30)
46 Barnes Avenue SW13 9AB
最寄駅: Hammersmith

限りなく透明に近い家
Skinner-Trevino House

River Sculpture昔ながらのビクトリア様式の家を徹底的に改装、ガラスを多用することで最大限の光を室内にもたらしている。奥に長い建物の中央部に大きな天窓を設け、その真下にはガラスの階段が。暗くなりがちな部分にも自然光が溢れ、階段のプリズム効果が美しい。最上階は高所が苦手な人と小さな子供には不向き、というくらい透明感に溢れた場所だ。

9月19日(土)
10:00-13:00、14:00-16:30
(最終入場は16:00)
67 Santos Road SW18 1NT
最寄駅: East Putney


川と生きる、ロンドン編

豊かな水で都市を潤すテムズ河。人々はその勢いを利用したり制したりしながら、川とともに生きてきた。水路や水流をコントロールするために発生した構造物は時代を反映し、ときには驚異の活躍で産業を支えている。それぞれが語る、水にまつわる物語をたどってみよう。

水上に広がる舞扇
Merchant Square Footbridge

Merchant Square Footbridge縦に細く、割り箸のように分割された床面が一枚ずつゆっくりと持ち上がり、川面のボートに水路を開ける。中心点から水圧駆動で広がりながら上がる橋の動きは、日本の扇子を連想させる。キレの良いデザインと優雅なムーブメントは、動く彫刻と言っていいほど。去年の夏にオープンしたこのパディントン運河の可動橋、当日は開閉を3回予定している。

9月19日(土)13:00-17:00
(橋の開閉予定時間は
14:00、15:30、17:00)
Harbet Road W2 1JS
最寄駅: Edgware Road/Paddington


意気盛んな産業遺産
Kempton Great Engines Trust

Kempton Great Engines Trust

最新技術の建築のみならず、歴史ある構造物の価値を重んじ、維持していくのも英国流。1927年以来、テムズ河の水を汲み上げて市内に供給してきた蒸気式エンジン・ポンプは、高さ19メートル、重さ1000トンのエンジンが2体。そのうち1体が復元されている。一定のリズムでシャフトが上下する様は圧巻。現役のモデルとしては世界最大だ。

9月19日(土)・20日(日)
10:30-16:00(最終入場は15:30)
Kempton Park Water Treatment Works,
Snakey Lane, Hanworth TW13 7ND
最寄駅: Kempton Park

流れを司るテムズの水神
Thames Barrier
& Information Centre

Thames Barrier

黄色い足に銀の殻が、まるで巨大なヤドカリのようなテムズ・バリア。520メートルにわたり、10基の可動式バリアが設けられている。1984年の建設以来、洪水対策の水門閉鎖が行われたのは去年までで175回を数えるという。ロンドンを水害から守り続ける水の下の力持ちだ。その歴史と現在、そして未来を、動くモデル展示や映像で観ることができる。

9月19日(土)・20日(日)10:30-16:30
インフォメーション・センターから入場
1 Unity Way SE18 5NJ
最寄駅: North Greenwich/Charlton

 
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